12.地獄へ
白人の男は聞き捨てならない一言を放った。それはあまりにも軽く男の口から躍り出たもので、知希は面食らってしまう。
「あの、父をご存知なのでしょうか」
「もちろん。知ってるよ」
揚々と答えてみせた男は、貼り付けたような気味の悪い笑顔を浮かべている。軽薄な言動が、ことさら不安を誘った。その裏に隠れているであろう本性は水のように掴めない。
そんな知希の警戒を感じ取ってか、男は「そうだ」とばかりに手を叩く。
「君のことばかり知っているのはフェアじゃないよな。俺のことはそうだな、フェレスと呼んでくれ。君のお父さんとは……うーん」言葉を選ぶようにしばらく間を置く。「ビジネスパートナーだな、うん」
「父がどこにいるのかも、知っているんですか」
「ノブは元気にしてるよ。まぁ、片道切符だからね。帰ってくることはできないんだけど」
途切れたと思っていた父への道は、やはりここにあった。同時に、男への不信感は言葉を交わす度に増していく。
「父には会えますか」
知希が言うや否や、隣の少女がぴくりと黒い長髪を揺らす。彼女は人形のように微動だにせず直立していたが、知希を見つめる瞳は非難の色を失くし、焦燥と不安で揺れていた。
「会えるさ。君が望めばね」
フェレスはまたも陽気に答えてみせた。手や表情の動きが豊かで、さながら舞台俳優の振る舞いのようである。
男の言葉はどれも曖昧で、信憑性が無い。何の仕事仲間なのか。父はどこにいるのか。どうしたら会えるのか。どれも明確な答えにまで至っていない。そもそも、彼の言葉の真偽どころか、彼の素性にしても何もかもが分からずじまいなのである。嘘をつかれていたとしても、気付きようがない。
「嘘じゃあないさ」
フェレスが言った。
「え?」
心臓が跳ね上がる。嫌な汗が頬を伝った。この男は心のうちが読めるのか。
「さすがに読めないよ。ねぇ、リリィ」
またもフェレスは知希の心の声に返事をしてみせた。
リリィと呼ばれたゴスロリの少女は返事もせず、じっと知希を見つめたままだ。
「どういうことですか」
知希はたまらず乾いた喉から掠れ声を捻り出す。
「読めないけど、君の考えていることくらいは分かる。日本にもいるだろう。ほら、メンタリストだっけな。この状況と君の動きと、しっかり観察してれば人間の考えそうなことなんて手に取るように分かるよ」
この男のどこからどこまでが本当なのか、知希には余計に分からなくなってきた。言葉巧みに気持ちが流されていく。
「どうしたら、父に会えますか」
率直に、聞きたいことを声に出した。
そうするとフェレスは不敵な笑みを浮かべて、一枚の紙を差し出した。
紙は良く見るプリンター用紙とは違う、上質そうな紙だ。表面がざらざらしていて、分厚い。こんな紙を以前見たことがある。本の中、テレビの中で。そう、羊皮紙だ。いまの時代、こんなものがまだ使われているものだろうか。
その上には、見たことも無い文字で何やら綴られていた。草書体の英文のようにも見えるが、英語では無い。知希は全ての言語を知るわけではないが、どこの国の言葉とも違う気がした。
「ただ、これにサインすれば良いよ」
フェレスはとんとんと指先で紙の右下を叩いた。そこには署名欄と思しき空欄がある。
「これは?」
「契約書。君の望みを叶える代わりに、それ相応の対価はいただかないとね。世の中、なんでもタダじゃないからさ」
そう言われても、何が書かれているのかはサッパリだ。これでは契約にならない。
「あの、これはなんと書いてあるのですか」
「ああ、悪い悪い」頭を掻いたフェレスは、指をパチンと鳴らす。「これで、どうかな?」
鳴らされた音を合図に、契約書がぱらりとひとりでに立ち上がる。驚いた知希の視線は、契約書に釘付けとなった。
紙に書かれていた文章が、みるみるうちに知希の知る言語へと形を変えていくのである。黒いインクが踊りだし、身を捩(よじ)っては、角が立ったり、丸みを帯びたりしていく。形の決まった文字達は、再び紙の中へと滲んでいった。
目の前で何が起きているのか、知希の理解は追いつかなかった。まるで魔法のようだったが、一体どんなトリックだったのだろう。
そうして気付いた。もしも彼が俗に言う"魔力のようなもの"を扱うことができるのであれば、明澄の家を燃やすことなど造作も無いのではないだろうか。
逡巡しているうちに、気付けば日本語へと変換された契約書とやらの内容が明らかになっていた。
「これ、どういう意味ですか」
書かれていた契約の内容。それは……。
「書いてある通りだよ。『俺が君の願いを叶える代わりに、君の魂は俺のものになる』」
――青谷知希は父の青谷信明に会うことを願い、フェレスはその願いを叶える。代償として、青谷知希はその魂をフェレスに捧げなければならない――
なんだ、この契約は。一目見ただけでは馬鹿げているとしか思えなかった。漠然としすぎていて、揶揄われているのではないかとさえ感じてしまう。
だがしかし、笑みを浮かべたままのフェレスの瞳。その奥底から契約を催促するような強迫観念がひしひしと伝わってくるのは、多分気のせいでは無い。
じゃあ、魂ってなんだ?
「君は」躊躇する知希にフェレスは微笑みかけた。「自分はこの世界に必要とされていないと思っているね」
「え……」
確かに、父の部屋のドアを開けるまでの間にそう思いもした。それを何故、フェレスは言い当てたのか。これも彼の言う心理学なのだろうか。
「自分に居場所は無いと。だから消えてしまっても良いと」
知希は返答に詰まった。
構わず、フェレスは続ける。
「だけど、実際はそうじゃない。君が世界に釣り合ってないんじゃない。この世界が君に相応しく無いんだ」
フェレスの言葉に、知希の心の中でざわめきが湧いた。自分ですら認知していなかった、自分自身を解き明かされていく感覚。奥底に眠っていた本当の気持ちを引き摺り出されていくかのような気持ち悪くも、不思議な気分。
「君は気付いていない。君がいかに素晴らしい人間かを。こんなちっぽけな世界じゃ君の居場所としては狭すぎる。だから、もっと大きな世界を用意してあげるんだ、俺が」フェレスは大袈裟とも取れる手足による表現で、知希に迫った。「例えば、ゲームやアニメの世界。あんな自由やロマンに満ち溢れた世界に飛び出すことが出来るとしたら? 君も夢見たことが一度はあるだろう。無限の可能性の中で活躍する自分自身を! 俺と契約してくれれば、こんなストレスばかりの腐った世界から、君を救い出してあげられるんだよ」
男が醸し出す不思議な雰囲気。危険に満ち溢れてはいるが、心を惹きつける何か。全身を総毛立たせ、身体を熱くさせる。子供ながらに一度は抱いた異世界への憧れを、フェレスは見事言い当ててみせた。知希本人さえ忘れていたことを。
詐欺や宗教への勧誘とも違う。彼には力がある。契約書の言語を一切触れずに書き換え、明澄の家だけをピンポイントに燃やし尽くし、そしておそらく彼は”父の望み”も叶えたに違いない。
「そこに、君のお父さんもいる」
ただその一言が、知希の心を煌めかせた。
「あなたは一体、何者なんですか」
何を今更、と嘆息したフェレスはこう続けた。
「ここは地獄だと言ったろ。俺は”悪魔”だよ」
初めて見る真顔のフェレスに、知希は固まってしまった。それは彼への恐怖心からではなく、まだ見ぬ未来への渇望がそうさせたのだ。彼が”悪魔”だと言われても、それはもはや疑いようがなかった。
「さあ、どうする。知希くん」
「魂って、実際どうすれば良いんですか」
「俺もビジネスなんでね。魂というと難しく聞こえるかもしれないけど、君のことを所有させてもらうんだ。簡単に言えば雇い主と従業員だね」
「具体的には何を?」
「何も。ただ、君に用意された世界を、君が思うように楽しめば良い」
「それだけ?」
悪魔との契約だ。そんな簡単なことで済むはずがない。話していない重要な何かがあるはずだ。
「俺が悪魔だからって、悪者にしちゃヤダよ? それ、人間の偏見。望みを叶える悪魔だって居ていいじゃん。大体”悪魔”なんて呼び方、人間達が勝手につけたものだし。それって差別じゃない?」フェレスはわざとらしく頬を膨らませる。「あのね。それを楽しんで見ている顧客がいるんだよ。……テレビショーみたいなもんだ」
以前、そんな映画を観たことがある。一人の人間の一生を、周りの人間が遠巻きに観ている。本人には分からないように。それを酒のつまみにして、愉しむのだ。
そんな物語の主人公か登場人物のひとりとして毎日を過ごせと言うのか。そうやって見せ物のような一生を過ごし、一生を終えるとしても、何故だかいまの知希にはまだ見ぬ向こうの世界への誘惑のほうが優っていた。
ただひとつ、気になることはある。
「分かりました。でも、もし良かったら、もうひとつ契約を追加してくれませんか」
「ほう、どんな」
「俺を含めた、俺の家族に危害を加えないこと」
そう言った途端、気のせいではない、場の空気が薄ら寒くなった。フェレスは笑みを浮かべたまま、知希の顔をじっと見つめていて返事を寄越さない。
難しい条件だっただろうか。しかし、危険だと分かっている以上、確実にしておきたいことがあった。この契約で自分がどうなろうと構いはしないが、家族に被害が及ばないとは限らない。それだけはあってはならないことだった。これは、自分勝手なわがままなのだから。
「……分かった」
フェレスがそう言って指を再び鳴らすと、再び契約書の上で文字が生まれ、新しい文面が追加された。
――フェレスは、青谷知希本人を含むその二親等にまでは危害を加えない――
間違いない。フェレスは魔法を使っている。悪魔だと自称しているのも、嘘ではない。どんな手品を用意していたとしても、知希の急な願いを書面に新しく追加することなど、不可能だろう。
「他には?」
そう聞かれて、知希は頭を振った。
そして気付く。自分の右手にいつの間にかペンが握られていることに。そこらのボールペンや万年筆ではない。物語の中でしか見たことの無い羽根のついたペンだ。
もはや、ここまで来て迷いなどがあるはずもなかった。ペン先を契約書へと運ぶ。
その手を凍るように冷たい手が制止した。
柔らかく、小さい。白く儚げな少女の手だ。
「リリィ」
フェレスの声色が一転、鬼気迫る低音へと落ちる。
知希の手を掴んだままのリリィの体が、震えていた。
「神聖なテーブルの上だ。契約は双方の信頼を持って行われている。第三者の介入は禁忌と知ってのことか」
おちゃらけて見えたいままでの態度とは打って変わり、文字通り悪魔的な様相を浮かべたフェレスに、怒気に当てられた少女だけではなく、知希自身も初めて恐怖を感じた。
少女の手がゆっくりと、悔いるように静かに引っ込んでいく。
「お前の条件は載せただろう。さっさと名前を書け」
リリィに向けられていた怒気は、流れるように知希へと向けられる。怖気付いたり、署名を躊躇したりしたわけでは無かったが、少しばかりこの世界にお別れをする時間が欲しかった。
瑛二や綾には、恥をかかせた。
母にはこんな息子で失望させたことだろう。すぐ帰ると言ったけど、ごめんと言うしかない。
友達と呼べる相手も居ない知希にとって、別れの挨拶など、一瞬に過ぎなかった。
いままで積み上げてきた二十三年もの時間をかなぐり捨てて、知希は契約書の上で筆を走らせた。
「じゃあ、悪いな。最後に血を頂くぞ」
そう言ってフェレスが指を横一文字に動かすと、知希の人差し指に痺れるような痛みが走る。指の腹がひとりでに割れ、一筋の血が滴り落ちた。
ぽとりと一滴。知希の署名に重なるように血が広がり、滲んでいく。
「これで契約完了。ありがとな」再び、フェレスは笑顔を取り戻すと、立ち上がった。
「じゃあ、早速行こうか」
契約を終えたからか、次のステップへは異様な速さを見せる。
身体的に、魂を抜かれたかのような感覚は全く無い。かといって、気持ちに変化があったというわけでもない。ただ、とんでもない契約を交わしたという非現実的な現実が起きたというのに、何も変わらないことに拍子抜けした気分だけが残っている。
本当に、これは夢では無いのだろうか。
「目を瞑って」フェレスは片手を知希の額に乗せて、言った。「俺が指を鳴らした瞬間、君は生まれ変わる」
胡散臭い催眠術師のようなくだりのフェレスの言葉に頷き、知希は目を瞑った。最後に見たのは、少女の怯えた顔と諦念のこもった両眼だった。
「そして、君はお父さんに会える」
暗闇の中で、パチンと火花が散った。
目を開けると、果てしなく広がる草原の上に、知希は立っていた。
見たことも無い風景。晴渡る無限の青空。青と緑のコントラストは見惚れるほどで、喉を通る空気は澄み渡っている。
穢れの無い大地の上に、知希は生まれ落ちた。
父のボロアパートでも無ければ、日本でも無いし、ましてや地球上のどこにも存在しない場所にいる。そう身体は実感していた。
湧き上がり、弾け飛びそうな感情の昂まりを感じた時、知希は人の気配に振り返った。
一本の倒木の上に、ガタイが良く、髭をこしらえた男がひとり。目の前に突然現れた知希を見て、目を点にしている。
誰かはすぐに分かった。
男の顔に、瑛二の面影があったからだ。
「父……さん?」
声をかけると、相手もすぐに理解したようだった。
立ち上がった男は、信じられないと言った表情でゆっくりと近付き、知希の顔をまじまじと見つめてくる。
「お父さん、ですか。知希です」
久しぶりの再会に、何と問いかけて良いものか分からなかった。父さんと呼んで良いのかどうかさえも分からない。
ただ、これが夢であろうと何であろうと、父と会えたことが、何より嬉しかった。言いたいこと、聞きたいことが山ほどある。
知希の目の前に立った男は、こちらの顔を確認するや否や、手を伸ばしてきた。
次の瞬間。
頬に激痛を感じた知希は、草っ原の上に身を放り出していた。
男は殴った手で怒りを握りしめ、困惑する知希に向かってこう言った。
「誰だ、お前は」
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