11.ようこそ

 これは単なる偶然と捉えて良いものなのだろうか。父への手掛かりを知る明澄(めいと)の家は、テレビの向こう側で跡形もなく燃え尽きていた。寒空の下、黒炭だけを残した現場は、いまだ異様な熱から陽炎を生み出している。


 しかし不思議なことに、これだけの火災があったにも関わらず、周りの家には燃え移った様子も、なんなら黒く焼けた跡も何ひとつ残されていない。テレビの中でも、キャスターの男性が困惑した様子で状況を話していた。


 骨組みさえも残さぬほどに強烈な炎が、隣家には一切手を出さずに明澄の家だけを燃やすことなど可能なのであろうか。どこか人智を越えるものを感じて、背筋を凍らせる。


 ふと、明澄の言葉が頭を過(よ)ぎる。


 ……あのアパートには二度と行くな。


 あの日アパートで見たゴスロリの少女もそう知希に警告した。


 あの部屋には、やはり何かがある。父はその何かに巻き込まれたに違いない。そして、それを伝えようとした明澄は消されてしまったのではないか。


 深く考えれば考えるほど、知希は焦燥に駆られていく。


 行かなければ。危険すぎることは理解しているが、それならばなおのこと。父がいまどうしているのかが気になって仕方がない。


「母さん、ごめん。ご馳走様」


 知希は半端になった朝食をそのままに、いつものショルダーバッグを手に取り、家を出ようとする。


「知希……?」玄関で靴を履き終えた息子に、母は心底心配そうな顔で声をかけた。「今日はお仕事休みよね?」


 母親とは、やはりすごいものだと知希は感心した。自分の子供のこととなると、野生の勘とばかりに感覚が鋭くなる。何も言わずとも、息子の様子を見て何か感じるものがあったのだろうか。


「あ、ああ。今日は欲しかったゲームの発売日なんだよ。早く行って並ばなきゃ……」


「嘘をつかないで!」


 突然の叫び。母の佐知代は、咄嗟の知希の出まかせを遮るようにぴしゃりと言い放った。


「嘘なんかじゃ……」


 あまりに真剣な眼差しに、知希は驚いた。


「嘘よ。だって、いますごく恐い顔してるじゃない」母の声は不安に震えている。「何か悩みがあるなら言って。お願い」


 綾との問答のあとだ。ひとりになりたくはないのだろう。それに、知希がどこか危ない道を進もうとしていることを、薄らと感じているのかも知れない。


「母さん……」しかし、知希にも譲れないものがある。「俺、いままで母さんの言うこと、ずっと聞いてきただろ? そりゃあ、小さい時は良く覚えてないけどさ」


「知希、何を言ってるの」


「だけどさ、今日くらいはわがまま言わせてくれよ。俺、やりたいことがあるんだ。確かめたいことが」


 母に誤魔化しは通用しない。だけど、父のことだけは言えない。娘に離婚について非難され、息子も父を探しているともなれば、母は卒倒してしまいかねない。


「確かめたいこと?」


「そうだよ。俺にとって、いま一番大事なことなんだ。危ないことは何もしてないから。夜には必ず帰るよ、心配しないで」


 そう口早に言って、知希は玄関を開けた。


「ちょっと、知希!」


 泣き出しそうな母の声を振り払い、知希は外に出て階段を駆け降りた。




 父のアパート前に車を停めたのは、丁度通勤の時間帯に被るころだと言うのに、住民の行き来はほとんど無かった。人気の無さと薄寒い冬の冷たさが、より不安を駆り立てる。いまにも泣き出しそうな雨雲が上空に広がり、陽の光を遮っていた。


 車を降りて父の部屋にたどり着くまでに、随分と長い時間を感じた。そこに様々な思いが、壁となって知希の道に立ちはだかったからだろう。


 いままでの記憶が、まるで走馬灯のように頭の中を巡っていく。


 これまでの二十三年間。何か得るものがあっただろうか?


 記憶は小学校までの過程をほとんど覚えていない。小中学校は平凡な日々が続いたような気もするが、思い出と呼べるものはどれも薄っぺらい。高校に入学してからは周りのグループに馴染めず、少しばかり苦痛の三年間を過ごした。卒業してからも、たまに会うような親友と呼べる存在もひとりとして出来なかった。


 社会人になって、何かが変わることを期待もしたが、そこにあったのは新たな苦痛だけであった。およそ人が生きていける環境では無かったように思える。少なくとも、知希にとってはそうだった。


 短い期間を経て、退職することが出来たのは幸いだったのだろうが、フラッシュバックするあの拷問の日々は、いまでも心を抉り続けている。もしかすると原因は自分にあったのかも知れないと自らを責めることもあった。


 定職にもつかず、ぼんやりと毎日を過ごす息子を見て母はさぞ落胆したことだろう。綾も、不甲斐なく格好悪い兄を恥じているんじゃないだろうか。


 俺の中には、一体何が残っている?


 俺は出来損ないだ。


 もう、この世界に未練も無い。世界も俺を必要としていない。


 知希を突き動かす何かは、まさにそれだった。自暴自棄とは違う。己の価値を知ってしまったのだ。


 居ても居なくても世界は変わらず回り続ける。母も瑛二も綾も、自分がいなくなったほうが負担が軽くなるだろう。


 だから、この先に明澄が辿ったような道があるのだとしても、知希は迷わず進むつもりだった。


 父に会い、話をする。ただ、それだけのために。


 意識は過去の映像を全て吹き飛ばし、いまを見つめる。気がつけば父の部屋の前に立っていた。


 三回、ノックをする。あの時のように。


「どうぞ。入って良いよ」


 返ってきたのは、気の抜けるような若い男の声だった。この声の主を、知希は知らない。


 誰だ。


「失礼します」


 戸惑いを感じながらも、冷たいドアノブを回し、扉を開ける。


 扉は叫び声を上げながらゆっくりと開いていく。無機質なはずのそれが怪物の口を連想させたが、好奇心は躊躇なく足を踏み入れる。


 すぐそこに、あの少女が居た。


 あの時と変わらず、ゴスロリの格好のまま。あの時の美貌そのままで。


 何故来たの。警告したはずなのに。そう言いたげな非難の眼差しが、知希の顔を捉えて離さない。綺麗な顔立ちからは想像できないような、殺気とさえ見間違えるほどの鋭さが放たれていた。


 その理由を聞きたいがために来たのだ。知希にしても、今更引き下がるつもりも無い。


「リリィ。あまりお客人を怖がらせるんじゃないよ」


  少女の背後から、先程の男性の声。


 声に従い、リリィと呼ばれた少女はようやく道を開けた。視線はじっと知希に据えたまま。


「やぁ。君が青谷知希くんだね」


 父の部屋に居たのは、上下黒のスーツに身を包んだ白肌の外国人だった。畳の上に開いたテーブルの上に腰をかけている。見れば土足だった。


 少女の姿もこの空間にはミスマッチだと思っていたが、この男の秀麗さも日本の畳部屋には似つかわしく無い。まるで、映画の中からそのまま飛び出してきた俳優のように、端正な顔立ちだった。


「お父さんから、君のことは良く聞いているよ」


 とても流暢な日本語を話す。彼の言葉はどこか不思議な感じがした。耳で聴く、というよりは何故だか頭の中に入り込んでくるかのような感覚を覚えたからだ。


 そうして、にこりと微笑んだ彼はこう言った。


「ようこそ。地獄へ」

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