10.明澄という名字は珍しい
埃を払った父のスマホは綺麗なものだった。画面は傷を探すほうが難しいほどに、滑らかな光沢を帯びている。裏の刻印を調べてみたところ、どうやら五年前にリリースされたものらしい。
父があの部屋を出て五年になるのならば、契約してすぐに使わなくなったことになる。何故、そんなスマホを置いて出て行ったのだろう。
ホーム画面が表示されると、並んだアプリの数は質素なものであった。”手付かず”と言ったほうが良いかもしれない。初期設定のままなのである。
驚いたのは、電話帳を見た時だ。
「あれ」
ほとんど登録されていなかったのだ。ひとりを除いては。
人付き合いが少なかったにしても、登録が一件だけとは妙だ。スマホを握る手から、疑念と薄らとした物寂しさを感じた。
明澄(めいと)。
それが唯一、父の電話帳に登録された名前であった。
珍しい名前の人がいるものだとひとりごちる。
通話の履歴は残っていない。おそらく、記録の保存期間を過ぎているからだ。五年も前のものが残っていようはずもない。
再び電話帳に戻り、明澄なる人物の名前に釘付けになる。もしかしたら、聞けば父の何かが分かるかもしれない。新たな希望を前に、知希の手は自分のスマホを取り出し、父のものに表示された番号を入力していた。
もはや戸惑いは欠片ほども無い。父に会いたい一心が気をはやしたて、溢れ出す感情となって知希の身体を突き動かしていく。
緑の通話ボタンをタップし、耳に当てる。数回のコール音の後に、プツっと電話の繋がる音に変わった。
「もしもし、明澄さんでしょうか?」
開口一番に知希は尋ねた。少しばかり不躾だったかもしれない。よく見てみれば、既に夜中の二時を回っている。
しばらくの沈黙の後、
「誰だよ、こんな時間に」
訝しげな男の声が返ってくる。声質はいくらかキーが高めで、不信感に声が震えている。年は四、五十代といったところだろうか。
「すみません。俺、青谷(あおや)知希といいます」
「……は?」
名乗り終えた途端、電話の向こうが一瞬慌しく揺れ、そして再び長い沈黙が訪れた。
「突然のお電話、失礼します。父のことについてお聞きしたいことがありまして」
「な、何の話をしてるんだ。お前のことも親父のことも、俺は何も知らんぞ。間違い電話じゃないのか」
早口に含まれる明らかな動揺は、相手の発言が言葉通りではないことを知希に教えてくれる。
間違いない。電話の向こう側に明澄という重要人物が居て、彼はこちらのことを知っている。彼がどういった人物で、父とはどんな関係なのか。聞かなければいけないことは山ほどある。
「父のスマホにただひとつだけ、こちらの番号が残っていましたのでご連絡させてもらいました」
いまだ続く静寂の中に、電話から遠ざかった男の声が漏れ聞こえてくる。
……あいつ……スマホ……処理……しとけって……
断片的な情報が知希の耳を掠めていく。
「五年前から、父の行方が分からないそうなんです。明澄さん。何かご存知じゃないかと思って」
問いかけても返答は無い。どうやら明澄は電話を置いて、遠くで唸っているらしい。
辛抱強く待ってみる。いまは彼だけが唯一の手掛かりだ。
「……教えることは何もないぞ」
ようやく観念した明澄の一言目がそれだった。
「父の安否を確かめたいんです。いま、どこに居るのかだけでも分かりませんか?」
引き下がるわけには行かない。従来が引っ込み思案の知希にしては、らしくない必死さを発揮する。父のあとがきを読んでから、なんとも嫌な予感がして仕方がないのだ。
「駄目だ、教えられん。あいつとの約束だからな」
「明澄さん、お願いします。父に会えた時、あなたの名前は出しませんから」
それから、この攻防は数分続いた。執拗さに耐えかねて電話を切られるかとも思ったが、明澄はそうしなかった。教えたくないことがあるのなら、そうすることもできたはずなのにも関わらずだ。
「知ればお前が不幸になる。父親は探さないほうが良い」
通話を続ける違和感の中、明澄は繰り返す。
その意味するところはやはり、父には新しい家庭があるということなのか。それとも、関わることで不幸ごとに巻き込まれてしまうような状況下に、父がいることを示唆しているのだろうか。
互いに沈黙を挟んで一歩も譲らぬ状況が続いたが、しばらく後に切り出したのは明澄からだった。
「それでも探すつもりか?」
いまのいままで否定に徹底していた相手が、どうしたことか突然手のひらを返すように懐を見せたのだ。どう言う心境の変化なのだろうか。
「何にしても、俺は父に会って言いたいことや聞きたいことがたくさんあるんです」
明澄という相手に対して、知希は既に疑念で満たされている。会ったことも無い相手を信用できないのは当然のことだが、それ以上に彼の発言には芯のないものが多すぎる。
「……分かった。いまから言う住所に明日来い」
どうして教える気になったのか。懸念は多いが、それでも父の情報を得られるためならばと、危険を承知のうえで言われた通りに住所をメモした。
最後に明澄はこう言い残したのである。
「世の中には理解できない不思議なことがあるもんだ。聞かなかったほうが良かった、見なかったほうが良かった、なんて後から言うなよ」そして、明澄はため息をひとつ挟めた。「それとあいつのアパート、あそこには二度と行くな」
次の日の朝、近所を走る緊急車両のサイレンが目覚まし代わりとなった。
けたたましく通過していく不快音。鼓膜にやたらと響く。この音を聴くと、何故だかいつも頭痛がするので知希は苦手だった。
寝不足がたたってもいるのだろう。明澄との会話の後、落ち着いて眠ることなどできるはずも無く。父の現状を様々な方向で想像していくにつれ、気がどんどんと滅入っていってしまっていた。
杞憂に終わりさえすれば良いと、あまり考えないようにしていたいのだが。
「じゃあ、どうして離婚なんかしちゃったのよ! あたし達のことなんか考えもしないで、勝手にさ!」
突然リビングから飛び出してきた綾の怒声に、知希はぎょっとした。
顔を赤くさせた綾が、凄まじい剣幕で母を睨め付けている。
昨日の綾の状態を思えば、何が原因で母と言い合っているのかは想像に容易い。母のことだ、綾の頬の傷に気付いてしまったのだろう。それで黙っている母ではない。
「お母さんなんて、大っ嫌い!」
知希が静かにリビングへの扉を開けると同時に、綾は家を出て行ってしまった。
その後ろ姿を目で追った後、暗い顔で俯いたままの母に視線を送る。
「おはよう、母さん」
母からの返事は無かった。いや、か細すぎて聞こえるほどではなかったのだろう。口だけは動いていたように思う。
そういえば、前にもこんな言い争いをしていたことがあったなと記憶を探ってみたが、何故だか短い頭痛に遮断されてしまった。
いまならば、綾の気持ちも、母の気持ちも分かる。女手ひとつで三人を育ててきた母にとって、綾の最後の一言は計り知れないダメージとなって深い傷をつけたに違いない。辛いだろう。
あえて知希は自分からは声をかけない。いや、かけられない。気持ちが落ち着くまで、母は話をしたがらないから。
いつものように母が作ってくれた朝食を口に運び、流れていく朝のニュースに耳を傾ける。しかし、内容は一切頭に入ってこなかった。
磐石だと思っていた我が家が、いつの間にか崩れ始めているような気がした。いつからだろうか。自分が父を探し始めた時? 綾が怪我をしてから? いや、もしかするともっと前から既にヒビが入っていたのかもしれない。
その時だ。急に思考が鮮明になり、ニュースの音声がやたらと大きく頭の中に響き渡る。
「……昨夜未明、天神五丁目で木造住宅一棟が全焼する火事が起き、一人が死亡しました。焼け跡からは、身元不明の遺体が発見され、建物に住む会社員の明澄|太(ふとし)さんと連絡が取れないことから、警察は遺体は明澄さん本人と見て捜査を続けています」
……なんだって?
知希は呆気にとられ、口に運んでいたコーヒーのカップを危うく落としそうになる。
思考が追いついたのはしばらくして後のこと。血の気がさっと引き、悪寒を感じた。
「うそだろ……」
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