6.弟は出来が良い

 気付けばあたりは後味の悪い薄暗さに包まれていて、眩(まばゆ)いアパートの電灯が知希の眼を戒めた。如月の風が冷たいのは、単に季節の問題だからではない。知らぬ間に全身を濡らしていた冷や汗が、夜風に乗って飛んでいったからだ。


 父の部屋を逃げるように飛び出し、一度冷静になってみて、とんでもないことをしてしまったと思った。


 何かあれば責任は取る?


 どの口が言ったのかと、自らの愚行(ぐこう)を責める。父には新しい家族が居たというのに、知希は考えもなしにその家庭に土足で踏み入ってしまったのだ。感情に身を任せる前に、まずは一歩引いて確認するべきだった。それにもしも何かがあった時に、一番に迷惑がかかるのは母でしかない。


 揺れる階段を虚ろな目で一段一段数えていると、下で待っていたオーナーが声をかけてきた。


「終わった? 何か見つかった?」


 さして興味も無いような態度で聞いてくる。手には鍵をじゃらつかせ、ことを早く終わらせろと催促していた。


 知希が父の部屋で会った少女について話すと、オーナーは肉に埋もれた首をわずかながら傾げた。


「女の子? 信明さんに子供さんがいること自体、今日初耳だったんだけど」


 彼曰く、ここは執筆のための別宅で、ほかに家を持っているのではないか、との憶測だった。小説家や自営業を営む人達には珍しくないことなのだという。しかし戸籍が未だ動いていないことを見るに、まだ再婚はしておらず、その女の子は相手の連れ子なのでは、とも付け加えた。


 どちらにせよ、父は新たな生活を築いているのであろうことを知った。だから知希は二度と近づかないことを心に決め、オーナーに礼を言う。

 

 去り際に、少女がゴスロリのような格好をしていて、どこか浮世離れしていることもオーナーに伝えると、鼻息を荒くして巨体に似つかわしくない速さで階段を駆け上がって行った。


「……はあ」


 何のため息なのか。そんなことも考えきらずに、知希は車の中で虚無に包まれた空気を吸った。


 出来ることなら、ほんの数十分前の自分を止めてやりたいとすら思う。無駄だ、母に迷惑をかけるだけだ、と。


 しかし、過去の自分が果たしてそう言われて止まっただろうか。


 いや、それ以前に自分は一体何のために、こうして父の姿を探しに来たのだろうか?


 根本的な胸の内の謎に行き当たり、思考が停止してしまった知希の手が何かに触れた。


 それはジーンズの後ろポケット、その中。


「あっ……」


 しまった、と声を出さずに唇を動かした。手にしたのは、つやつやとした黒い板……父の部屋にあったスマホだった。ケースに入ってすらいない、飾り気ひとつないスマホだ。


 依然として静かな光沢を携えたそれを、知希は誤って自らのポケットに入れてしまっていたのだ。いつも自分のスマホをそうするように。少女が現れてから、知希は極度の混乱に陥っていた。故のミスである。


 返すべきなのだろう。しかし、何故だかもう一度あの部屋に戻る気にはなれなかった。あの中で感じた奇妙な違和感、人形のように冷たい少女の視線、それから彼女が放った「もう来ないほうが良い」との厳しい言葉。全てが知希の次の一歩を抑え込んだ。


 押し入れにあったものを、ポストに投函するのもおかしな話だし、あのオーナーに正直に話しても面倒になりかねない。


 どうしたものかと悩みに沈む知希を引きずり上げたのは、スマホの着信音だった。黒電話の音に設定していた音は、心なしかいつもより大きく鳴り響いて持ち主を驚かせた。


 もちろん手にした父のものではなく、ショルダーバッグに入れていた自分のものだ。


 バッグから急いで引きずり出し、画面に弟ーー瑛二(えいじ)の顔を認めると、知希は緑の通話ボタンをタップした。


「もしもし」


 複数人の賑やかなざわめきをバックミュージックに、瑛二の声が流れた。


「瑛二、久しぶり。どうした」


 弟と話をするのは、三ヶ月ぶりくらいか。大学で電気電子工学科を進む瑛二は将来有望で、学業もトップクラスなら、スポーツも万能と、引く手あまたの多忙を極める男だ。


 まるで自分とは正反対だと知希はいつも卑下してみせたが、かといって嫉妬するようなことは全くなかった。


 何故なら……。


「どうしたって……。知希兄ちゃん、今日誕生日だろう? プレゼントなんて洒落たものを買う余裕も無いからさ、せめてお祝いの言葉だけでもと思って」


 この通り、出来た弟だからである。


「ああ、そうか。悪いな、忙しい時に気ぃ使わせて」


 昔から瑛二は家族想いで、いつも頼りになる存在だった。兄の立場から見ても、そう思う。


 いまは県外の大学に入学して寮に入っているから、あまり邪魔するのも悪いと思って、知希から連絡を入れることは出来るだけ避けていた。母とは定期的に電話をしてはいるようだが。


「あ、ごめん。周りがうるさ過ぎて。ちょっと待って」扉が開き、閉まる音と共にバックで鳴っていた音楽が消える。「これで良いや。外に出た」


 時間的に夕食後の食堂かな、と知希は弟の華やかな学園生活を想像した。


「寒いから風邪ひくなよ。大変なんだろ?」


 瑛二の大学は一日でも休むと、遅れを取り戻すのが難しいのだと言っていた。難関大学として入学の門が狭いことは有名で、その後の授業に付いていくのも必死にしがみつく思いなのだそうだ。だから、つまらないことで体を崩してもらっては困る。


「大丈夫だって。それより、誕生日おめでとう」


「はいはい。ありがとな」


 知希は、照れ臭さに痒くなった鼻頭を掻いた。


「二十三になるんだっけ?」


「そ、二十三」


「どう、最近の調子は」


「ぼちぼち」知希はため息混じりに吐いた。「こっちは何も変わりないよ。瑛二は?」


「こっちもぼちぼち」


 当たり障りもない言葉を二三(にさん)交わし、しばらく間を置いてくすりと瑛二が笑った。


 つられるようにして、知希も噴き出す。久しぶりの会話で、報告すべきこともお互いたくさんあるのだろうが、ふたりともそれ以上は何も出てこなかった。


 だが、それで良いのだとも思った。男兄弟の会話など、こんなものなのだ。


「そういえば、さ」


 ふと、知希は今日の出来事を語ろうかと口を滑らせたが、頭を振ってすぐに取り消した。


「何?」


「あ、いや……」


 瑛二は、父を”裏切り者”だと思い込んでいる。父は暎二がまだ四歳の頃に居なくなったのだから、記憶にはほとんど残っていないはずだし、母は父の話を一切しなかったから実際どんな人物なのかは、知希にも弟にも知りようはなかった。


 しかし、離婚してから母は女手一つで一家を養ってきた。急に大黒柱が無くなり、落ちてきた天井を母は死に物狂いで支えてきたのだ。そんな様子をずっと見てきた弟が、父を恨むような感情を抱くのも無理は無い。


 だから、瑛二に父の話はタブーなのだ。


「瑛二さ、テナス王国物語って知ってるか?」


 なんとか話を誤魔化してみる


 博識で数ある書籍をジャンル問わずに読み漁ってきた弟なら、何か知っているかもと尋ねてみた。父がどんな世界を描き、どんな想いを載せて、何を訴えようとしたのか。もしかしたら、その何かが分かるかもしれない。


「何それ? 新作のゲーム?」


 しかし、瑛二は知らなかった。


「いや、知らないなら良いよ。職場で本を勧められたからさ。瑛二なら読んだことあるかと思って」


 咄嗟に嘘をついたことには気が引けたが、理由を説明するわけにはいかないのでこう言うほか無い。


 それからは母や妹の綾(あや)の話で笑い合ったり、瑛二の学校生活の大変さに知希は感嘆の声をあげたりと、二人はあっという間の十分間を過ごした。


「知希兄ちゃんさ」


 そろそろ楽しい時間もお開きといったところで、瑛二が少し声を落とした。


「その、いまの仕事は大丈夫なの」


 それは単に兄の体調を気遣ってのことであり、他意は無い。と、知希は感じた。彼が控えめに聞いたのは、知希に”前職”のことを思い出させてしまうのは申し訳ないと思ったからなのだろう。


「……ああ、大丈夫だよ。順調」


 実際そうでは無かったが、またも平然を装って嘘をつく。大事な時期にいる弟に、他人の心配など無用だからである。


「そっか、分かった。何かあったらさ、社会経験の無い俺なんか役に立たないかもしれないけど、話を聞くくらいだったら、いつでも良いから」


「ありがとう。お前はほんと、良い弟だな」


 少しばかり揶揄(からか)うように返したつもりだったが、電話の先はしばらくの間静かになっていた。それから思い出したかのように、暎二は別れの言葉を口にする。


「じゃ、知希兄ちゃん、またね」


「おう。またな」


 相手が通話を切るまでの間、知希は画面をじっと見つめ続けた。

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