5.ゴスロリ衣装は流行ってない

 耳障りな叫び声をあげながら、簡易的な木製の扉がゆっくりと口を開く。


 外と中との明暗の差に知希の視力は困惑したが、しばらくして落ち着くと、次第に、ぼんやりとだが部屋の全体像が露わになっていく。


 人ひとり立つのがやっとの玄関に、質素な台所。白い壁紙は燻んでいて、部屋を明るく見せるはずの本来の役割を果たしていない。たわんだ木目の天井は頼りなく、収納も押し入れらしきものひとつしか見当たらなかった。


 中は想像していた通りの狭さで、他にトイレがセットになった浴室がひとつあるだけだ。家族で暮らしている知希には窮屈に感じられたが、ひとりで暮らすうえではそれほど不自由のない間取りではあるのだろう。


 しかしながら、余計な物が置かれていない部屋にはどこか違和感が残り、その生活感の無さには空き家に近い雰囲気さえある。がらんどうになったワンルームの洋室で以前人が住んでいたような痕跡を見つけるのは困難で、当然ながらそこに父の姿は見当たらなかった。


 そう、知希が求めていた肝心の答えは……ここには無かったのだ。


 ほっと胸を撫で下ろすようなため息が、背後で漏れた。


「良かった。何も無かったね」


「え、ええ……」


 全くもって、拍子抜けした瞬間だった。知希のあらゆる心配は、やはり杞憂に終わる。


 それにしても、本当に何も無い。それだけが奇妙だった。洋服箪笥も無ければ、テレビやラジオといった家電製品も無い。あるのは、小さな冷蔵庫や食器、ベッドといった最低限の生活必需品、そして折り畳まれたテーブルひとつだけだ。


「何も無い……ですね」


 思ったことを口にする。


「そうだね。仕事以外に趣味の無い人だったみたい」オーナーは昔を思い出すかのように視線を天井に送る。「機会があった時に少し話をしたけど、本人がそう言ってたよ。煙草もお酒も飲まないって」


 得られた安堵からかオーナーの口数は増えていったが、果たして最悪の事態にはならなかったこの状況を、素直に喜んでいいものなのだろうか。


 こうなると父の所在も気掛かりだし、部屋の様子も異様に感じるくらい質素すぎる。


 知希はどこか哀しみに似た感情が、全身を染めていたことに気付いた。父はここで独り、どんな想いで、どんな生活を送っていたのだろうか。


 離婚の原因がどこにあったのか、聞いたことは無かったが、ここで過ごす人生はあまりにも過酷なように思えた。


「父は、どこに行ったんでしょう……」


 知希はぽつりと呟いた。


「さぁ。さっきも言ったけど、いまのところ滞納は無いし、どこかで頑張ってるんじゃないかなぁ」


 そう言ったオーナーの口ぶりは、もはや部屋や父に対する興味を失っていた。半ば投げやりに、この状況を早く終わらせようとしているのが、態度に表れている。


 部屋に異変が無かった以上、これより先、彼に責任が無いのもまた事実で、知希が口を出すのも違う気がした。


 だが、ここまで来て引き下がるわけにもいかない。


「父の居場所について、何か手掛かりがないか、あと少しだけ……五分だけ部屋を見させてくれませんか?」


 最後の頼みとばかりに、知希は懇願する。


「本当なら、ここで終わりにして欲しいんだけど……」


「何かあったら責任は取ります。お願いします」


 そう言うと、オーナーは目を泳がせながらも、さして熟考する間もなく答えを出した。


「仕方ないな。今回きりだよ。ここで止めたら、感動の再会も出来ないだろうからね。僕のせいにはされたくないしさ」


「ありがとうございます!」


 知希は深々と頭を下げた。


「うん、じゃ、後で」


 踵を返そうとするオーナーを、知希は慌てて呼び止める。


「あ、あの」


「ん?」


「父は……父の職業は何だったのでしょうか?」


 会社勤めではないと言われた。そこに手掛かりがあるかもしれない。


「作家。小説書いてたらしいよ」


 そして、きっちり五分だよ、と掌を突き出して短い指を見せたオーナーは、それからまたアパートの階段をのしのしと降りていった。


 ひとり取り残された主人不在の部屋で、知希は思う。俺は一体何をしているのだろうか、と。分かっているのは、母に嘘をついてまで求めていたことが何かある、ということ。ただ、それが何かまでは自分自身分からなかった。


 部屋を見ると言っても、物が少ないこの状況で、探す場所は限られている。


 建て付けの悪い押し入れの引き戸を開けると、そこには透明の衣装ケースがひとつ。三段あるケースの中身は、上二段が洋服入れのようで、一番下の段には紙の束と筆記用具が納められていた。


 三段目を開き、紙の一番上、一枚目を取る。


「テナス王国物語……?」


 その表紙には、おそらく小説のタイトルと思しきものが、そう書かれていた。どうやら、これが父の作品らしい。


 本というものに疎い知希には、当然ながら耳にしたことのない題名であるが、それ故に有名どころではないマイナーな作品であろうことくらいは想像できた。


 表紙をめくろうとした、ふとその時、押し入れの隅に転がる黒い板が視界に入った。真っ黒で艶やかな光沢を放つそれに映る、自分の顔と視線が合う。


 スマホだ。父のものだろうか?


 手に取ってみるも、何の反応も無く、電源も入らない。指を離すと、その跡がはっきりと残った。表面に付着していた埃から察するに、しばらく使われていないようだ。機種変更前の物を取っておいたのだろうか。


 スマホを戻そうとした、その瞬間。


 玄関で人の気配がした。とても静かで小さく、このような空虚な部屋でも無ければ、その訪れには気づかなかったかもしれない。


 まだ五分も経っていないが、気になったオーナーが様子を見に来たのだろうか。そう思いながらも、あの巨漢らしからぬあまりに無音な来訪に、内心ではどこか嫌な予感がしていた。


 振り向くと、そこにオーナーの姿は無い。


 部屋に差し込んでいた日光を遮るように立っていたのは、見知らぬひとりの少女だった。


 黒を基調とした赤いラインの走る異国風の服を着たその姿は、アニメなどに登場する、所謂ゴスロリそのものだ。


 黒いレザーブーツに、黒タイツ。赤い手袋に、薔薇の髪飾り。そのどれもが、この日本という和の国にそぐわない異質なものである。


「あ……」


 こんな田舎町でそのようなファッションに出会うこともまず無く、実際に初めて目にした知希は、咄嗟に驚きの声を漏らしてしまう。


 何より、高校生くらいの年であろう彼女の姿は、そんな奇抜な服装が気にならなくなるほどに美しく、整っていた。身長は知希よりも少し低いくらいで、きつく絞られたウエストからは、全体的なスタイルの良さが滲み出ている。磨かれた玉のように滑らかな顔がまた端正で、非の打ちどころがない。瞳は薄い茶色で、どこか日本人離れした洋風の顔立ちである。


 唯一、知希の姿を捉えて離さない、凍ったような冷たい無表情が、この日の突然の訪問を咎められているような気がして、痛かった。


「……誰」


 彼女は一言だけそう言うと、玄関で靴を脱いで、部屋の中央に正座した。それも、何者かも分からぬはずの知希の存在に躊躇することなく。


 この子は、この部屋の住人? だとすれば、父は一人暮らしでは無かったということか。


「す、すみません。勝手にお邪魔して……」


 しばらく美しい彼女の姿に見惚れていた知希だったが、自分の立ち位置に気づいて、慌てて謝罪をいれた。


 そして、投げられた質問にどう答えていいものか、悩んだ。もしも彼女が父と新しい女性との子供だったとして、急に現れた異母兄弟が、彼女の心を傷つけてしまう可能性は考えるまでもなく、高い。


「私、信明さんと一緒に仕事をさせてもらっていた者で。最近、連絡が取れなかったものですから、心配で様子を見に来たんです」


 だから、もっともらしい嘘をついた。


 だがおかしなことに、女の子の反応は無い。知希から視線を外すと、部屋の何もない空間をじっと睨みつけたまま、動かなくなってしまった。


 まるで魂の抜けた人形を相手にしているかのような感覚。そこらにいる普通の子とはまるで違う、不思議な雰囲気を醸し出すゴスロリの少女を前に、知希はたじろいだ。


「オーナーさんに頼んで開けてもらったんですが……、信明さんはお元気ですか?」


 返事はない。


「信明さんがいまどこにいらっしゃるか、ご存知でしょうか?」


 また質問を投げかけてみても、やはり部屋に根差す岩のようにピクリとも動かなかった。


 暗くなっていく窓の外と、彼女の後ろ姿を交互に見ているうちに、何故だか薄寒い空気に触れていることに気が付く。


 言いようの無い不気味さに身震いした知希は、いよいよ部屋から出たい衝動に駆られ、無言の少女を背後に、玄関へ戻って靴を履いた。


 五分は経っていないが、もう十分だろう。ここに父の手掛かりは無かった。それに、知らなかったとはいえ、父の新しい家庭に土足で踏み込んだ罪は重い。これ以上、迷惑をかける前に一刻も早くこの場を立ち去る必要があった。


「突然、申し訳ありませんでした。信明さんにはよろしくお伝えください。それでは……」


 そして、ようやく部屋を飛び出した知希の背中に、それまで無言を貫いていた少女の言葉が浴びせられる。


「あなたは、もうここには来ないほうが良い」


 抑揚の無い言葉が、知希の体を一気に突き抜けていった。どこか重く、響くような圧迫感。


 振り返って見た彼女の姿は、依然として固まったままだった。表情は変わらず、微細な動きも見せない。


 その言葉にどんな意味やどんな想いが込められているのか、分かるはずもなかったが、その真意も考えぬまま「失礼しました」と残して知希は部屋を飛び出した。


 寂しげに唸りながら、再び閉まる扉を背後にして。

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