短編小説 ミナミムラタケル

阿賀沢 周子

ミナミムラタケル

「南村猛です」                 

 名前を聞かれた俺は、ベッドで仰向けになっていた。右手に立つ白衣姿の相手の両の眼を見て、この顔の長い女は誰だと思いながらも静かに答えた。窓から射す朝日が、足元の白い壁に窓枠の格子を映しているのが見える。何のために名を聞かれているのかわからないが、住所や誕生日も質問され、答えた。

「歳はいくつですか」

途端にかちんと来た。ここまでは我慢した。外来でレントゲン写真を撮ったのも、病室に入って血圧を測るためにベッドに横になるのも、心電図を取るために、ケーブルにつながれてじっとしていたのも、俺は訳が分からぬ人間ではないから辛抱した。しかし、名前、生年月日ときて歳がいくつとは、子ども扱いか。憤りで鼻の穴がひくつく。

「歳がなんだというのだ」

 それでもまだ声は冷静だった。ベッドの足元のスツールに座っていた妻の香代子が、気遣わしそうな顔付きで立ち上がりそばに寄ってきた。

「お父ちゃん、ちゃんと答えて。仕事で聞いているのだから」

夫の内心の怒りがわかるのか、取り成すように言う。

「仕事だと。何の仕事だ」

 女は長い顔を幾分か横に広げて曖昧に笑い、香代子を見て理解したかのように頷いた。

「私は受け持ち看護師の原田です。南村さんはこの病院に入院したのです。それで、いろいろ検査をしたり、聞いたりしているのです。いやだったら答えなくていいですからね」

 女の言葉にびっくりして辺りを見回す。俺が入院? まさか。あれほど必要ないと娘の幸香にいったのに。今日はただ「夏バテだから点滴をしたほうがいい」と二人にいわれてやって来た。それで横になっているのではないのか。

「入院はしません。それに、答えなくてよい質問を何のためにするのだ」

俺はベッドから下りようとした。右肘をついて起き上がり、足を下ろそうとして自分が囲われているのに気が付いた。ベッドの両脇に金属の柵が四本ついていた。

「何のためにこんなことをしているのだ。これを外せ」

 顎で、立っている香代子に命令した。ところが、いつもならすぐに言うことを聞くのに香代子は動こうとしない。

「外せ。帰るぞ。早くしろ」

「南村さん、わかりましたよ。でもこれは外せません。落ちてケガしたら困りますからね」

わかりましたという割に、理解を示した口調ではなく、話を切り上げるようなニュアンスだ。手元の書類を香代子に渡し「記入して印鑑をお願いします」と言って立ち上がった。

「今、点滴を持ってきます。奥さん、少しの間、旦那さんを見ていて下さい」

 俺はぐるりを見回す。日差しや窓から見える梢の様子からすると、二階の南向きの小部屋で、窓側に空いたベッドが一つある。唯一の窓からは手稲山か、木立の向こうに群青の連山が姿を見せている。二台のベッドの間に車椅子が置いてある。その上に見覚えのあるカバンと紙袋があった。そう、あれに乗ってここに来た。幸香がカバンを持ってタクシーから降りた時、俺は誰かが持ってきた車椅子に坐らされた。順番に思い出してみると、やはり点滴だけならと病院にやってきたのだった。着いたのはいつも行くハマナス医院ではなく、手稲山の麓にある三階建ての老人病院だった。

 幸香は見あたらない。香代子がいつものよう薄い白髪を引っ詰め、眉間に一本縦皴を寄せて、鼻眼鏡で渡された書類を書いている。

 俺は脇の二本並んだ柵を引き抜こうとしたがベッドから外れない。大した高さではないので、柵を乗り越えて下りようと中腰になった。両手で柵をつかみ、左脚を伸ばして跨ごうとした。昔取った杵柄だ。森林管理の下請けで、山で働いていた頃は、どんな高い木にもするすると登ったものだ。小さいころから、猿のようにすばしこかったのが自慢だ。

「お父ちゃん、何しているの。看護婦さんに怒られますよ。横になっていて」

 香代子は、そろそろと足を下ろす俺の腰にいきなり手を回し、ベッドに押し返そうとした。その拍子に、大方柵を乗り越えていたのだが、股座が柵に擦りつけられ、痛みの発作で足の支えが間に合わなかった。香代子とベッドの隙間から床に落ちた。

「お父ちゃん、大丈夫かい」

息が止まるほどの痛みが股から腹、全身へと広がる。左の腰と肘をしたたか打った。それでも、助けを呼びに部屋を出ようとする香代子の太い足首をつかんだ。

「呼ぶな。帰る。靴を出せ」

立ち上がろうとしたが、痛みに息詰まり足元が定まらない。腹を抱えてうずくまる。少しして股の痛みが軽くなると、左脚の付け根の痛みが激しくなった。肘にはまだ痺れが残っている。脂汗を滴らせている俺を見て香代子は「誰か来てぇ」と大声を上げた。


「南村さん。骨折していなくてよかったですね」

レントゲン写真を撮り、医師の診察を受けた。レントゲン室では裸にされて、写真を撮った後、薄緑色の病衣の上下を着せられた。

「点滴をするのにはこの方が、都合が良いのです」と付き添ってきた原田が言う。

 入院しないと繰り返す俺が、病衣を拒否すると思ったのだろう。その時はそんな気力はなかった。レントゲン写真を撮る時に、何回も姿勢を変えさせられ、そのたびに痛みに呻いていたのだ。病衣は薄っぺらい生地で、涼しくて楽だ。

原田は、痛みでまっすぐ立てない俺を支えて車いすからベッドへ移すと、柵を取り付けた。二本の足が付いており、ベッドの穴に刺すようになっているのが分かった。さっきの二倍もの高さがある。その後、ベッドの廻りで何度かしゃがんで作業していた。抜けないようにしているのだろうか。仰向けになると視野の四方が囲まれて赤ん坊用の囲い柵のようだ。

香代子は印鑑を取りに家へ戻ったと言う。あいつはいつもこうだ。それに、あいつが手を出さなければ落ちなかったのだ。

所在無く、柵の隙間から窓辺を見ていると、山影がいきなり暗くなった。オレンジ色の実をつけたナナカマドの枝が大きくなびくのが見えた。開いた窓から風が吹き込み、レースのカーテンがふわりと膨らみ、しぼんだ。

 原田が点滴の袋がぶら下がったポールを押して、部屋へ入ってきた。ベッドの右側にポールを据え、幅10センチくらいの木綿の白い帯紐を二本、俺の傍らに置いた。

 左腰は鈍痛になってきており、少し楽になった。股にはもう違和感がない。が、動悸がなかなか治まらない。以前から、急にドキドキしたり脈拍が飛んだり、心臓の調子が良くなかった。ハマナス医院の院長が診察しても何も言わないから、大した病気でないと思っていたが、さっきの心電図はどうだったのだ。それにしても、うまいこと動けなかった自分に気持ちが萎えた。仕方がない、痛みがなくなって、元気になるまでここにいるか。原田の所作を眼で追いながら考えていた。

 雨音が立った。窓ガラスを打つ音が大きい。

「すごい雨ね」

原田は小走りで窓辺へ向かった。窓を閉めしばらく雨足を眺めている。

「下校時間には止むかしら」独り言ちる。

「子どもがいるのか」

俺の問いが思いがけなかったのか、戸惑った様子で小さく頷く。

「点滴をしますね。時間がかかるので申し訳ないですけど手が動かないようにします」

 原田は俺の左手首を白い帯紐で素早く柵にくくり付けた。

手を動かしてみた。肘が少ししか曲がらない。点滴をするのは初めてではないし、ハマナス医院でへたくそな看護婦にあたって点滴が漏れ、腕が倍ぐらいに腫れたこともあったので、こんなものかとされるがままになっていた。

原田は次に、右手首を縛り始めた。

「何だ。こっちまで縛らなくともいいだろう」

「針を抜かれたら困るので」

「針を抜くわけがないだろう。点滴なんて何回もしているから動いたらダメなのはわかっている。縛らなくてもいいぞ」

「奥さんもいないし」

 屈辱で、顔が熱くなり首が腫れて脈打つのを自覚した。俺は縛らなければ点滴の針を抜いてしまうと思われているのか。香代子がいないと何がダメなのだ。

「時々、様子を見に来ますから心配しないでください」

俺がいったい何をしたというのだ。なんでだ。本気でこんなことしているのか。

 原田は左腕の真ん中あたりに点滴の針を刺し、何回か滴下の速さを調節して何も言わずに部屋から出て行った。

 両腕を動かしても手首をひねっても紐は解けなかった。こすれて手首が熱くなった。無様な格好を見られるのが恥ずかしくて、声を出して人を呼ぶこともできなかった。なぜこんな目に合うのか解らなかった。両の目尻から熱いものが耳へと流れていく。

   

 うとうとしたのか、物音で目が覚めた。香代子がそばの物入れに何かを入れていた。もたもたした身動きを見てほっとした。いつもならさっさとやれと怒鳴っている場面だ。

「おい、これをほどいてくれ」

「起きましたか。ぐっすり眠っていたから、片付けたら帰ろうと思っていましたよ」

「これをほどいてくれと言っているのだ」

 香代子は俺の両手首をまじまじと見て眉間の皴を一層深くした。スツールを引っ張ってきて、ベッドそばで腰かけた。

「お父ちゃん、我慢して。外は大雨だよ。久しぶりの雨だから農家の人は喜んでいるかね」

「農家の話はいい。これを解けと言っている」

「そんなことしたら看護婦さんに怒られる」

「幸香を呼べ」

「仕事ですよ、まだ」

「休んできてくれと言え。父親の一大事だ。幸香に電話しろ」

お前じゃダメなのだ、と口の中で言う。肝心なことは幸香と決めていた。香代子は嫁に来た当初は素直がよかったが、いつも廻りの言いなり次第だということが徐々に分かって、相談相手にしなくなった。幸香ならこの状態を何とかしてくれる筈だ。

「はいはい、わかりました、お父ちゃん」

バッグの中に手を入れて携帯電話を探す。

「今日、入院のために半日を休んでもらったし。職場に戻ったばかりだからダメかもよ」

 香代子はバッグと携帯電話を持って病室を出た。

俺は無数の小さな穴が開いた天井ボードに目を据えた。両手首を左右の柵にくくられている。仰向けのままだから見る範囲は限られる。どのくらい時間がたったのか、腰が重苦しい。脈がまたバランバランと乱れている。尻のしっぽの骨が痛痒くなってきた。左脚を動かすと痛みが増す。右脚を曲げたり伸ばしたりしたが、尻の苦痛は消えない。

 自分としては入院するほど弱っていると言う自覚はなかった。八月の連日の暑さでフラフラになり、近所のハマナス医院へ何日か点滴に通って少し元気になった。夜半にトイレ通いをするために何度も起きなければならなかったがやむを得ない。トイレの度に香代子を起こし、漏らした下着の替えを出させた。その後少しは眠れるから、体力は戻ってきていた。院長は「後、二三日点滴をすればもう大丈夫でしょう」と言っていた。

 夏バテというのか、ひどい時は頭痛と吐き気で歩くのもやっとで香代子に支えてもらわねばならなかった。医院につくと車椅子を借りて、坐るとほっとして呻いたぐらいだった。香代子も同時に大きな溜息をついていた。

「お前も点滴をしてもらうといい。楽になるから」

「私は食べているから大丈夫ですよ。寝不足なだけです」

               

 目を開けると天井は薄暗い。点滴の落ちる雫を眺めていて、眠ってしまったようだ。口の中がカラカラに乾いていた。腕時計を見ようと腕を挙げようとして、肘と肩の痛みに唸り声をあげた。腕の自由がきかない。脚は動いた。左膝を曲げた時、左側の腰と腿の付け根に激痛が走った。痛みが治まるまで考え事もできなかった。

「おーい、香代子」痛みが鎮まると大声を上げた。

「おーい」何度も繰り返し呼んだ。

 少しして香代子が、いつものもっさりした動作で部屋に入ってきた。

「ここはどこだ。なんで体が動かない。香代子」

「病院ですよ。入院したんですよ。」

「入院したってか。幸香はどうした」

「仕事で抜けられないのよ。明日の夜なら来られるって」

まだ舌が乾いたままで、うまく話せない。

「手が動かないのだ」

 香代子は俺の手首を見て眼を反らした。

「点滴が終わったらすぐに外してくれるから。お父ちゃん。入院なんかしない、帰るって騒いだから縛られちゃったの。少し眠ったから気分いいでしょ」

「縛られているのか、なんでだ」

 雨が降っていたな。子どもの心配を誰かがしていた。窓へ目をやると、レースの隙間から連山の背に灰色の空が見えた。雨は止んだようだ。大酒を飲んで、鼾をかいて眠った時みたいな口の渇きを、唇や歯を何度もなめて潤した。

「気分がいいってか、縛られているのに。家へ帰りたい」

「今は夕方の五時ですよ。看護婦さんは夜勤の人と入れ替わるみたい。騒がないでね」

「騒ぐってなんだ。俺に断わりもなく入院なんかさせて」

 原田が入ってきた。

「南村さん。点滴はもうすぐ終わります。終わった頃夕食ですからね」

 香代子から書類を受け取り、夕食がすんだら帰って大丈夫ですと説明している。

「大丈夫ってどう言う意味だ」

 俺が聞くと、原田は返事をせずに香代子に向かって軽く頭を下げた。手首の帯が緩んでいないかチェックしながら「ごめんね」と小さな声で呟いた。俺に向かって謝っているのか、なら、眼を見て物を言え。

「解いてくれ」

「もう少しの辛抱ですよ」

「これは人権蹂躙だ。病院とあろうものがこんなことをしていいのか」

 原田は香代子を見やり「もう少しなので見ていてくださいね」と念を押して出て行こうとした。

「なんで俺に返事をしない。今すぐ解いていけ。解かないと訴えてやるぞ」

 先刻の怒りに再度火が付いた。声が大きくなるが、乾いた舌がもつれる。原田の言葉はことごとく俺の神経を逆なでした。縛られているからなおのこと掛け違ったボタンを直せないのだ。自由にならない両腕が憤りに拍車をかけた。生まれてこの方、こんな目にあったことは一度もない。香代子も俺のこんな有様は見たことがないだろう。原田に向かって叫んだ。

「俺は帰る。帰るぞ。紐をほどけ」

「お父ちゃん、辛抱してよ」

 原田は黙って部屋から出て、開けっ放しだった病室の引き戸を曳いて閉めた。薄緑色の戸の上の方に小さな窓がついている。

 俺は、誰かが根負けして、紐を解きに来るかと小窓を睨み続けていた。香代子はなくなりそうな点滴をじっと見ている。小窓に男の顔が見えた。転んだあと足を診察した医者だ。次に小太りの女が顔を見せ、原田が覗いて何度か頷く。誰も部屋に入ってこないで消えた。

「寒い」唇が震え始める。そのうち身体にもガタガタと震えが来た。急に気温が下がったのか。

「香代子。寒い。なんか掛けてくれ」

 香代子は足元に畳んであるカバーのかかった夏掛けを猛の首まで引き上げた。

「お父ちゃん、大丈夫かい。看護婦さんを呼ぼうか。もう、点滴もなくなりそうだし」

俺は帰る、帰ると口の中で繰り返しながら震えていた。帰るぞ、こんなところにいたら病気になってしまう。胸苦しい。姿勢のせいなのか、心臓のせいなのかわからない。

香代子が呼ばないうちに、原田が銀色のトレイを手に部屋へ入ってきた。

「点滴が終わりましたね。抜きますよ。手も解きますから。寒気がしますか。その前にお注射をさせてね」

「何の注射だ」

「先生の指示で気持ちが落ち着くお注射をします」

「そんなもの頼んでいない」

 ガタガタと震える猛に原田はキュウシュウネツかしらと言って額に触った。

「看護婦さん、お父ちゃん大丈夫ですか。こんなに震えて」

 原田は、俺の右腕のパジャマをまくり上げ、肩に注射をした。怒鳴ろうとしたが胸の苦しさが募り、声が出せず口をパクパクさせるだけだった。なんでもいいから早く手を解いてくれ。横を向きたい。

「大丈夫ですよ。奥さん。南村さんが眠ったら帰って下さっていいですから」

 原田は点滴の針を抜き、針穴の血が止まったのを確認してから、両腕の紐を解いた。体温計を腋にはさまれた時、皮膚を強く押されたが、文句を言う気力はなかった。手首が真っ赤になっており、所どころ皮がむけ、点々と内出血していた。唸るような溜息をついて右側を向いた。腰と左脚の痛みより、胸の重苦しさが勝って、体を小さく小さく丸めた。手首をさすり続けた。

               

 目が覚めた時、自分がどこにいるかわからなかった。右手に点滴をしているが手は縛られていない。外は明るく窓は開け放たれて、小鳥のさえずりが聞こえた。レースのカーテンはゆらゆらと微風に揺れ、山の上の空には雲一つない。

「おはようございます。目が覚めましたね」

 若い男がコップと歯ブラシを持って部屋に入ってきた。

「私は南村猛だがここはどこだ。君は誰だ」

「南村さん、ここは病院です。僕は介護員の澤木です。よろしくお願いします」

「病院か。入院してるのか」

「はい、そうです。間もなく朝ごはんですが、食べられそうですか」

 その若い男の鼻の右側に光って目立つ小さな傷があった。声は温かで静かだ。

俺は促されてうがいと歯磨きをした。口の中がすっきりした。渡された熱いタオルで顔を拭くと生き返ったような気がした。「ありがとう」と澤木にタオルを返した。

澤木は次に食事の盆を運んできた。柵をずらして、隙間から音ひとつ立てずにベッド用テーブルを押し入れた。気持ちのいい男だ。

「すっきり目覚めましたか。夕食は眠っていて食べなかったので、お腹が空いたと思いますが」

「飯も食べずに眠ってしまったのか」

 若い男の静かな話し方が、弟の健二を思い起こさせ親しみを感じた。健二は自分と違って優しくて物静かな男だった。兄弟5人の中で一番仲が良かった。俺はガキ大将で親をずいぶん困らせたものだ。当時のことを思い出して頬が緩んだ。

「その顔の傷はどうしたのだ」

「小さい頃、兄と喧嘩している時、シャーペンが刺さってできた傷です」

「仲が悪かったのか」

「いいえ。反対です。戯れていてたまたまそうなってしまったのです」

 そう言って微笑む。話しながらもベッドの背を挙げ、肩を揺り動かして姿勢を直すと、背のつかえが取れて心地よかった。だが、幼児のエプロンみたいなものを首に回され驚いた。

「なんだこれは」

「エプロンは嫌ですか」

「健二、俺を馬鹿にするのか」

「嫌ならとります。勝手にしてすみません」

 俺が言いつのろうとする前にエプロンを外し、焦った様子もなく椀のふたを取る。箸を俺に渡してどうぞごゆっくりと言って部屋を出た。やはり健二は賢くて優しい男だ。

ひとり納得して箸を持ち変える。腹が減った感じはなかった。飯を一口食べてみたが味はしない。変に思って味噌汁を飲んでみたが不味かった。カップの茶を口に含むと苦くて、吐き出した。俺の口がどうかしてしまったのかと不安になり香代子を呼んだ。何度読んでも来ないのでできる限りの大声を出した。

 見たことがない背の高い若い女が顔を出した。

「私は南村猛だ。妻の香代子はどうした。香代子を呼んでくれ」

「南村さん。奥さんは家にいるんでしょ。まだ八時前ですよ」

 大声を出したからか、胸と背中が苦しくなってきた。呼吸がきつく、目をつぶって息をすることに集中しようとした。

「いいから呼んでくれ」

「他の患者さんの食事が終わっていないし、もう少し待てませんか」

「それはそっちの言い分だろう。俺は来てほしいと言っているのだ。女房なのだから来いと言え」

                

「お父ちゃん。眠っているの? 来ましたよ。私ですよ」

 揺すられて目を開けると、眼の真ん前に香代子の顔があった。辺りを見回したが健二はいなかった。

「健二はどうした」

「健二って、鎌倉の健二さんのこと?」

「そうだ。さっき来ていたのだ。久しぶりに会った」

「お父ちゃん、何を言っているの。健二さんは一昨年亡くなったじゃありませんか。お葬式に一緒に行ったじゃないの。しっかりしてよ」

 何を言う。いたのだ。目を閉じて健二の顔を思い浮かべようとした。さっきいた健二の顔を。しかし浮かんでくるのは連れだってよく遊び歩いた小学高学年の頃の健二だった。先刻ここにいたのは健二ではなかったのか。

「朝早く電話で呼ばれたから、何かあったのか心配したよ。昨日はぶるぶる震えていたし、眠ってからは苦しい苦しいってうなされていたし」

「心配だったら家に連れて帰ってくれ」

 困った顔で横を向く。何のつもりか、急に香代子は猛の寝具を直しはじめた。慌ててやって来たのだろう、髪はぼさぼさでズボンには糸屑が付いていた。いつも出かけるときは唇に紅を付けるが、今は乾いてささくれ立っていた。

「朝飯は食べたのか」

 珍しいことに返事をしない、キャビネットの引き出しを開けたり閉めたりしている。俺の方を見ずに、自分のバッグの中を散々いじくりまわしてから、困り果てた顔つきで両手を揉んでいた。すると、いきなりそばに寄って来て、俺に向かって拝むように両手を合わせた。

「お父ちゃん。この二年間、昼も夜もなくて疲れ果てました。病院に頼み込んでやっと入院させられたと思ったら、帰る、帰るって騒いで。朝早く呼ばれて、健二さんに会った、なんて。私だってもういい年です。血圧高いの知っているでしょ。悪いけどここにいて下さい」

 俺は耳を疑った。香代子、どう言う意味だ。脈の乱れが強くなった。

「二年って、どういうことだ。夏負けしただけじゃないか」

「ずっとですよ。夜昼逆転して。夜中にうろうろ」

言い過ぎたと思ったのか急に口を閉ざし、小さい声で付け加えた。「治ったら連れて帰るから」

『何を言っている、治ったら帰るのは当たり前のことだろう』

俺は声を出すのも忘れて香代子を眺める。

香代子は朝食の膳を持って逃げるように部屋から出た。香代子の言葉が頭の中を渦巻く。

『ここにいて下さい』

 しばらくしてさっきの男が入ってきた。

「ほとんど食べなかったのですね。奥さまが心配していました。うがいをして少し横になりましょう」

 健二ではなかった。健二も優しかった。猛は動悸が静まるように胸に手を当てて深呼吸を繰り返し思い出していた。中学の時、父親に叱られ家から出されて、真っ暗な中一人で家の前の電信柱の下にうずくまっていたら、健二が走って来て、兄ちゃん一緒に謝って家に入ろうと手を引っ張られ、二人で地面に転がって泣いたことがあった。あいつは優しい男だ。

「香代子に帰っていいよと言ってくれ。もう、大丈夫だからと」

 澤木が用意してくれたので、俺は軽く歯磨きをし、うがいをした。水を飲むと少しむせた。

「奥さまはもう帰りました」

 いつもの俺のようには怒りが沸きあがらず、香代子の眉間の皴と、乾いた唇が眼に浮かんだ。紅のない唇が言った。

『ここにいて下さい』

「奥様はいつも膝が痛いのですか。右足をかばって歩いていましたが」

 動悸は治まった。そういえば香代子は時々膝を待ってさすっていた。あいつは幾つになったのだ。俺が、俺が確か八十……。香代子は一つ上だと言うばかりでなく、料理がうまく、とても素朴な娘だった。金の草鞋を履いて探した、と若い頃はよく冗談と自慢で周りへ言っていたものだ。

「金の草鞋の分、私は尽くしましたよね」

 定年退職したころ、香代子がそう言ったことがあった。その時は意味が解らず受け流した。後から、それほどまでにして探してくれた分は返したから、あとは自由にしたいと言うことなのか、と考えたこともあったがまだ本人には聞けずじまいだ。

               

「南村さん。点滴をしますよ」

 ここにきてから何日たったのだろう。見たことのない女がやってきた。二本の皴の寄った帯紐とトレイを持っている。柵越しに黙々と手首を縛り始めた。ベッドの反対側に廻って左手首を縛る。俺はぼんやりと動きを追う。再び右側に戻り注射の準備をしながら、ちらちらと俺の顔を見ている。

「ちょっと痛いですよ」

 肩の筋肉に注射をされた。日差しが強く部屋は明るい。午前中だと言うのに気温がぐんぐん上がっているのが、女の額の汗を見てもわかる。点滴を刺し終わった女が立ち上がる

「テレビ見ますか?」

 返事を待たずキャビネットに付いているテレビのスイッチを入れた。音量は低いが聞き取れないほどではない。芸能人がこの夏の異常な暑さについて語っていた。温暖化について、他人事のように考えを述べている評論家が、最後に「困ったものですね」と言ってしきりにうなずいて番組は終わった。うとうとした。あの注射は眠くなる。口も乾く。

点滴がぽたぽたと滴下するのを見ている時、ふっと懐かしい匂いが立った。日向と埃の匂いだ。顔を巡らせると、細くしわだらけの腕が見えた。

「食べられなくなったら終わりだ」

 痩せ細って小さくなった体から声がする。

「食べられなくなったら食べない。飲めなくなったら飲まない。それが一番楽だ」

俺がまだ小学生の頃、寝たきりだった祖父の口癖だ。

「じいちゃんっ」子どもだったはずなのにしわがれて乾いた自分の声に驚いて瞼を開いたが、眠気に引き込まれてしまう。

                           

「南村さん、起きてください。夕食ですよ」

 ベッドの背が上がってエプロンをされていた。口の中が乾いていた。喉の奥がひりついていた。水が飲みたい。

「食べますよ。おいしいですよ」

小鉢にはどろどろした薄茶色のものが、皿には緑の物と茶色のものが載っていた。突然、口の中に固く冷たいものが突っ込まれた。反射的に手で振り払った。金属音を立てて落ちたのは大きなスプーンだった。

「何するんですか。乱暴しないでください。食べたくないなら片づけますよ」

 いきなりベッドの背が下がった。エプロンが引っ張られて外され、首の後ろに痛みが走った。

 口の中にはスプーンで入れられたものが残っていた。舌で押し出そうとしたが、乾ききった舌は動かず出すことができなかった。俺はそのまま、また眠った。

                         

 胸が重い。何かが乗っている。押されている。頬を叩かれた。名を呼ばれていた。

『ミナミムラタケルです』          

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