第3話
今日も朝7時30分過ぎにユキヒトさんが店にやって来た。
ユキヒトさんからすれば、いつもと同じ朝。
でも、私からすると、初めての朝だ。
ユキヒトさんは私の顔を見るなり、「おや、今日は出勤? ……じゃないようですね」と首を傾げている。
いつもなら私はカウンターの中に立っているが、今朝はカウンターの席に座っていた。一番左端はユキヒトさんの指定石だから、わざわざ空けておいて、私はその隣、左から2番目の席にいる。
今日、シフトで入っているアルバイト店員は、私と気が合う純子ちゃんだから、居心地がいい。
「はい。今日は一限目が休講だったので、初めてプライベートで客として来ました」
「そうですか。では……」とユキヒトさんがカウンターの中にいる純子ちゃんにオーダーしようとした瞬間、「いつもの、2人分で!」と割り込んだ。
「私と同じのでいいんですか?」
「はい。そのために来たんですから」
「でも、同じ注文となると、ゆでたまごが2つもきますよ」
「それがいいんです。ユキヒトさんのように……」
「ユキヒトさん?」
思わず、いつも心の中だけで使っているニックネームを本人に言ってしまったから、驚かせてしまっている。本名はユキヒトさんじゃなくユキトさんだった。
「いえいえ! ユキトさんのことですよ。ユキトさんのように、私もちょっとしたことがあって、とっても寂しいからゆでたまごを2つ食べます」
「そうですか」
「何があったか、聞かないんですか?」
「いえ、いきなりボクから聞くのは失礼かな、と」
「じゃあ、私から言います。実は、先月の話ですけど、筆談サークルで仲良くしていた同じ大学の同級生に、……その、裏切られて、……カレシを盗られました」
「それは辛かったですね」
すぐにモーニングのAセットと、単品のゆでたまごが出来上がって、純子さんがテーブルまで配膳してくれる。
「寂しい時は、まずゆでたまごを食べましょう」
そう言うと、ユキヒトさんはいつものようにたまごの殻全体にくまなくヒビを入れて剝いていく。
私もまねしてみたが、……うまく剝けない。それを見て、ユキヒトさんは笑う。
やっぱり、癒される。
食べながら、ユキヒトさんは身の上話を親身なって聞いてくれた。
「私はユキトさんの言うようにアイミ、……仲良かった同級生のことですけど、このアイミと共存できません」
「それは、簡単にはいかない話ですね。ただ、今はダメでも、将来元の関係に戻る可能性を残しておく、というのも、立派な共存だと思うんです」
「将来? アイミとですか? 絶対無理」
「いえ、そんなことないです。お金のもつれではないから、将来元の関係に戻れる可能性は十分にあります。ただ、何年後かは分かりませんが」
「まさか」
「共存するためには、お互いの違いを認め、まず、ケンカや問題の原因を捨ててしまうことです。それだけで楽になれます」
「その原因が、アイミなんですけど……。だから、やっぱりアイミを拒絶するしかないです」
「いえいえ。原因はアイミさんじゃないですよ」とユキヒトさんは私を見据えで言う。
「その原因は、そして、そもそもあなたが怒るべきはアイミさんじゃなくて、その男性ですよ」
「俊介ですか」
私が今まで目をそらしていた事実を、ユキヒトさんに突きつけられたような気持ちになる。
確かにそうだ。ひょっとしたらまた私を好きになってくれるかも、と心のどこかで淡い期待をしていていた。
俊介を憎み切れなくて、その怒りの矛先をアイミだけに向けていたのだ。
「最低ですよ、その男性は。だから、このケンカの原因である男性の連絡先とか、履歴、思い出の画像などはすぐにケータイから何から捨ててください。これで将来に向けた共存関係が成り立ちます」
そうか。
悲しいけど、やっとユキヒトさんの言う共存の意味が分かった。
「ありがとうございます。帰ったらさっそく、原因を捨てます」
今日は、嘘をつかなかった。本当にそうしよう。
また、ユキヒトさんは笑う。
そして、私たちは2個めのゆでたまごを食べた。
次の日、大学の講義棟通路でアイミとすれ違う。
目をそらして去ろうとするアイミに、私は歩み寄った。
周りの同級生が心配して私たちを凝視している。
「待ってよ!」
「ごめん」とアイミは怯えている
「正直、まだ許せないけど、それでも大学にいたらこの先ずっとアイミに会うからさ。前みたいに仲良くはできないけど、共存はしよう」
「共存?」
「そう。お互い干渉せず、近寄らない。その代わりに、私はアイミに仕返ししないし、アイミも私に怯えなくてもいい」
「え?」
アイミが驚いている。
「あんなつまらないヤツ、いらない。こっちから払い下げだよ。俊介と仲良くやりなよ」
そう言って、今日はわたしの方から立ち去った。
これでいい。
気持ちが少し楽になった。
この心境に至れたのは、ユキヒトさんのおかげだ。
実は、一緒にゆでたまごを食べたあの日、ユキヒトさんは共存について教えてくれただけではない。まだ続きがあった。
──ところで、眞央さん。新しい恋ができるといいですね。
──そんな簡単には切り替えられないです。
──つかぬことを、お聞きしますが、こんな朝早いアルバイトって一般的な大学生なら嫌がりそうなのに、続けているのはどうしてでしょうね?
──え? ユキトさんがいて癒やされるし、この仕事の嫌いじゃないし……。
ユキヒトさんは、また私を見据えて、何かを伝えようとする。
──早朝バイトを続けている要因がボクなら、それは嬉しいですが、残念ながら本質ではありませんね。違う要因がきっとあるように思います。
──どういうことですか?
すると、今日一番の笑顔になって、カウンターにいる店長をチラッと見たあと、私に目配せをする。
え? えぇ?
──いや、その。店長は、10歳くらい年上だし、さえないけれど、ただ放っておけないというか、私がいないと人手がなくて大変だから、その……。
──思いやりのあるいい青年ですよ。
会話を何も聞いていない、鈍感な店長は、純子さんと奥で在庫のチェックをしている。
確かに頼りになるし、人間性もいいし、地味だけど、確かにカッコいい。前から気になってはいた。
──付き合ってる女性はいないそうですよ。
──え?
──常連ともなると、店長とプライベートなことまで話すので、何でも知っています。そしてね……。
──はい。
──どうやら店長も、あなたのことが……。おっと、いけない、いけない。
──ちょっと最後まで教えてくださいよ。
──過去の問題を捨てるのも、未来を切り開くのも、あなた自身なんです。
あれから1ヶ月。まだ、過去と完全に折り合いがついていないし、店長とも付き合えていないが、今、私は前を向いている。
今朝も店にユキヒトさんがやってきた。
店長がくしゃみをしている。
「店長、今度休みの日によその店のモーニングを一緒に研究しませんか?」
ユキヒトさんのいる前で、しかも、仕事中に勇気を出して誘ってみた。
「え? いいよ」
店長の顔が赤くなっている。
「眞央さんはどんなモーニングの店がいいんだ?」
「ゆでたまごが付いてくる店がいいです」
「ゆでたまご?」
「私、寂しいから、一緒に食べたいです」(了)
ゆでたまご協定 Writer Q @SizSin
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