第2話
今日は、北部が最後に店を訪れてから1週間だ。そろそろ来てもおかしくない。山田は冷蔵庫の中の、北部に渡す分の麺を確認した。と、そのとき入口の扉がガラガラと開き、来たか、と振り返ったが大学生らしき別の男だった。
客が注文したぶっかけうどんを作りながら、山田は内心苦笑する。
やれやれ、これじゃあまるで初恋の相手を待ちわびる乙女じゃないか――
「あいよ、ぶっかけうどん一丁お持ち」
北部はいつも、他に客のいない微妙な時間帯にくる。今は店内に客は一人だが、もう少しすれば早めの夕飯を食べる客が来るだろう。どうやら今日は来ないみたいだな、と山田が考えたとき、その大学生らしき客が尋ねてきた。
「あの、もしかしてこちらに、北部陽一郎という男が来ませんでしたか……?」
「ああ、ウチの常連だよ。もしかして北部の友人かい?」
「ええ、まあそんなところです」
「てことは、あなたも教授でいらっしゃる?」
「いえ、違います。僕も彼も」
一瞬、間があった。どういう意味か分かりかねたのだ。
「ああ、確か教授ではなく准教授でしたね」
「違うんです。実はお伝えしたいことがあって来たのです」
男はそう言って首を振ると話し始めた。
「北部陽一郎という男はですね、教授でも准教授でもない、そもそも学者ではないんです。それどころか、彼の本名は北部でも陽一郎ですらもないのです。彼は田中英治という名前の、ただの大学生なのですよ」
「…………」
「英治はまあ、悪いやつではないんですがね、ひとつ欠点がありまして、ほら話で人を騙すのが好きなんです。暇さえあれば、次はどんなほらを吹いてやろうかと考えている。彼の友人は皆一度は騙されてますよ。」
山田は男が話している間、ぽかんとしていた。開いた口が塞がらないとはこのことだ。
「しかしですね、我々だって馬鹿ではありませんから、そう何度もひっかかりはしません。彼が奇妙なことを言えば、ああまた始まった、と受け流すようになりました。そしてとうとう彼の友人は、誰一人騙されなくなりました。そこで、彼は新たなターゲットを探し出した。それが、あなたというわけです。昨日、僕の家に友人みんなで集まって飲み会をしたのですが、そのとき酔った彼が自分で喋ったんですよ。超うどん理論なる作戦を実行中だと」
「じゃあ、研究用のうどんは……?」
「彼が食べました。」
「…………」
男は申し訳なさそうに言った。
「つまりあなたは、無料で何杯もうどんを提供したお返しに、彼に一杯食わされたということです」
「い、いやちょっとまった。確かにあんたの話は筋が通っている。だけど、それは今の話をそっくりそのまま逆にしても同じことだ。つまり、嘘をついてるのは君の方で、北部が本当のことを言ってるのかもしれない」
「なるほど、確かにそうだ。しかしですね、店長さんはひとつ、重大な証拠を見逃している。嘘をついてるのが北部陽一郎、もとい田中英治の方である証拠を」
「証拠……? 一体どこに?」
「どこにでもです。あらゆる物質を構成する最小単位ですからね。要するに、素粒子は、うどんではないのです。そんなことはあり得ません」
「ぐぅ……」
正論だった。冷静になってよく考えてみると、そんなわけがない。
山田の中で何かが崩れていく音がした。それは、ノーベル賞の夢だった。
「そもそも、素粒子の正体が振動するひもであるという超ひも理論は、まだ仮説の段階です。本当にひもかどうかは分かっていない。なのに、そのひもがうどんにそっくりだなんてことが分かる訳がありません」
その点は、山田も気になっていたことだった。だが、きっと最先端の物理学ではそういうものなんだろうと考えていた。
山田はうなだれた。
「全く……なんてことだ……まんまと騙されたよ」
「まぁ、そう落ち込まないで下さい。僕たちからも、うどんの代金を払うよう言っておきますから」
そうだ。ノーベル賞の夢がついえたことに気をとられていたが、うどんのことがある。いくら廃棄する予定のものといっても、売り物は売り物だ。たっぷり利子をつけて払ってもらわなくては。
「そういうわけで、彼がここで話したことは二つを除いて全て真っ赤な嘘です。ひとつは、超ひも理論という理論があること。もっとも、懐疑的な立場の学者もいます。そして、うどんであると主張している学者は一人も居ません」
「もう一つは?」
「ここのうどんが好きだということですよ。彼は大ぼらは吹きますが、面白みのない小さな嘘はつきません。それに、あなたから貰ったうどんを食べているときの彼の表情といったら。あれは嘘ではありませんよ。友人代表として、僕が保証します」
利子をつけるのは勘弁しといてやるか、と山田は思った。
超うどん理論 @szKashiwazaki
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