父の肉体は焼かれ、そして骨になる
石田徹弥
父の肉体は焼かれ、そして骨になる
父の肉体は焼かれ、やがては骨になる。
「二時間ほど休憩となります。その間、軽食をご用意しています」
葬儀場スタッフが頭を下げた。自然と先頭に立っていた俺は、振り返る。親戚一同が俺をじっと見ていた。
「……行こうか」
俺の声に、みな頷いて火葬場を後にした。
葬儀場に用意された広間には、すでに食事が用意されていた。銘々、おもいおもいの席に座ると、喪主である俺は形だけの挨拶をすませ、献杯した。
俺が席に座ると、静かに食事が始まった。
「生きてたんだ」
見上げると、若い女性が目の前に立っていた。燃える石炭のような赤い短髪に、両耳だけでなく唇にもピアスを開け、黒ではあるがそのままゴシックパーティに参列できそうな奇抜な服装をしている。
「紗里、今来たのか」
「リハが長引いてさ」
十年ぶりに会った妹は、座りながら煙草を取り出し、椅子を引きながら火を点けた。周りの親戚連中が嫌そうな顔を浮かべたが、特に何かを言うわけではない。
俺と紗里の周りには一席、二席と間隔が空いている。病気になっても、死が近くなっても現れず、死んで葬式になるまで親元に顔を見せなかった兄妹。薄情な兄妹。親戚連中からは、そのように思われているのだろう。父が俺たちのことをどのように吹聴していたか、目に見える。
「テレビでよく見るぞ」
「メディアは不倫くらいで、よく騒ぐよ」
紗里はそう言ってビール瓶を俺に向けた。俺はグラスを手に取り、紗里の手酌を受ける。
「いや、歌番組でだよ」
俺は紗里に手酌を返しながら答えた。紗里は「なんだ」と笑い、俺達はグラスを合わせた。
「兄貴は? 仕事」
「悪くなったり、良くなったり。今年はまぁ、ぼちぼち」
用意された食事は、寿司だった。俺は何の気なしにサーモンを取ろうと箸を伸ばしたが、ふと箸を止めた。
「サーモン好きだったよな」
「よく覚えてるじゃん」
「親父と一緒だからな」
「いつも怒られてたもんね、食べちゃって」
そう言って紗里はサーモンを掴むと、一口で食べた。
「けど、もういない」
ふふっと紗里は笑った。
「兄貴はマグロ」
「お前こそ、よく覚えてる」
マグロを見る。決して質のいい寿司とは言えないが、それでも好物は輝いて見える。
「それも、お父さんと同じだから」
俺は苦笑いを浮かべ、差し出そうとしていた箸をとめた。
六十八歳。昨今では往生したとも言えないが、かといって早世というわけでもない。その年齢で死ぬことを、人は悪くない人生と思えるのだろうか。
父は、どうだったのだろう。
「親父と最後に会ったのは」
紗里はビールで寿司を流し込んで答えた。
「お母さんの二十三周忌。たまたま近くでライブしてたから。兄貴は?」
「おかんが死んで、家を出て以来」
紗里が「そっか」と答えた時、足元に幼稚園くらいの男の子がやってきた。顔を上げると、その子の母親がこちらを見ていた。父方の遠縁であることは間違いないが、話したことすらない。母親はどこか不安そうにこちらを見ていた。
男の子は手に絵本を持っていた。紗里が椅子を降りると、子供と同じ目線に腰を下ろした。
「読んで欲しいの?」
男の子は頷いた。紗里は男の子を抱えると椅子に座り、自分の膝の上に乗せて絵本を開いた。
「慣れてるな。子供まだだろ」
「これくらい。ウチじゃあるまいし」
紗里は絵本を朗読しはじめた。さすが声の仕事をしているからか、ただの朗読なのに聞き入ってしまう魅力があった。そのおかげか、どこかピリついていた周りの親戚連中の空気が和み、先ほどとは違う緩やかな空気が部屋に漂った。気のせいかもしれないが、笑い声が増えたように思える。
「お寿司好き?」
絵本を読み終えた紗里が男の子に聞いた。
「すき」
「どれ?」
「まぐろ」
紗里が笑った。俺は箸でマグロを掴むと、男の子の口に持っていってあげた。男の子は三分の一ほどマグロをかじると笑った。
「ありがとう」
男の子はそう言うと紗里の膝から降り、母親の元へ駆けた。母親が紗里に小さく頭を下げた時、葬儀場のスタッフが部屋にやってきて時間が来たことを告げた。
火葬場から煙が出る、なんてのは古い考えで、現代的な火葬場はクリーンで、煙すら出ない。ドラマや映画で目にするような、立ち上る煙に故人を想い干渉に浸るといった時間は清潔さと引き換えに消滅した。
しかし宗教的な、いや今では風俗的になった『骨上げ』もしくは『拾骨』という行為は、いまだに故人との別離を強く感じさせる最後の行事として残っていた。
死とは魂が消えることだとすれば、それは目に見えない精神世界での道程の一つであって、まだ命を持つ物質世界に生きる者たちからすれば想像の域を出ることは難しい。
だが物質世界に佇む肉体が消滅し、白骨へと変貌することによって初めて、人間は人の死を身近に感じる。
炉の蓋が開かれると、台車がせり出した。
ほんの数時間前まで父が乗っていた場所には、父であった骨が、父の形に残っているだけだった。
親戚が歯を拾い、頭蓋の骨に移り、徐々に下半身へと進んでいく。二人一組で一つの骨を拾い、納める姿は、破天荒で人に迷惑しかかけてこなかった人間も、死したことで脈々と続く日本の風俗習慣に収まってしまったようで、どこか滑稽であった。
ある程度、骨を骨壺に納めると葬儀場のスタッフが長い箸を持って言った。
「では、喉仏を」
親戚の目が、俺と紗里に注がれた。最後の喉仏の骨は、近親者が拾う。そしてこの場にいる近親者は俺と紗里の二人しかいなかった。
俺と紗里は箸で喉仏の骨を掴み、骨壺に入れた。
こうして、父の火葬は終わった。
俺が葬儀場に清算し終わったころには、親戚はみな解散していた。まだ残っていた紗里が父の骨壺を抱えて、待っていた。
二人で俺の車に乗り、火葬場を後にした。
「なんかあっけなかったね」
俺は「ああ」とだけ答えた。
骨壺を抱えた助手席に座る紗里は、煙草を咥えた。
「さすがに死んだら、ちょっとは悲しむのかなって。もしそうなったら、そんな自分を許せるのかなって。たまにお父さんを思い出すたびに思ってた」
紗里は咥えた煙草に火を点けた。
「けど、全然悲しくなんてなかったな」
紗里が吐き出した煙で車内が白く濁った。
「こんなことなら……」
交差点が赤信号になり、俺は車を止めた。
「生きてる間に、殴ってやればよかった」
紗里が吐き出すように呟いた。
交差点に他の車は通らない。アイドリングした車のエンジン音だけが車内に響く。
煙草の灰が紗里の腰の上に落ちた。
「ごめん」
慌てて灰を拾おうとした紗里を、俺は止めた。
「寄りたいところがある」
紗里は少し驚いた表情を浮かべたが、小さく頷いた。
車で三十分ほど行ったところに、日本海が見渡せる崖があった。
その手前にある駐車場に車を止めると、俺は紗里とともに崖っぷちへやってきた。
「『復讐するは我にあり』って映画、知ってるか」
紗里は首を横に振った。
「それを観た時から、やってやろうって思ってたんだ」
俺は紗里から骨壺を受け取ると、蓋を開けた。中には、真っ白い骨が入っていた。
父という、六十年以上の人生を内包した骨だ。
その人生には、当然俺や紗里も色濃く刻まれている。それは未だに鮮やかで匂い立ち、体が汗をかくような、背筋がしびれるような確かな感覚でもあった。
だがしかし、それをこの骨から感じることは無い。その骨はまるで、清廉で、潔白で、美しく輝いているように見える。そこに過去はない。過去は『過去』という二文字に集約された。あの炎が、父を焼いた炎がそうさせたのだ。肉体という、人生をらせん状に刻んだ物質を、まるで鉱石のような、まるで宝石のような白一辺倒の物質へと変貌させた。
俺は骨壺に手を入れると、骨を掴んだ。
そして海へ投げた。
骨は霧散し、空中を駆け、煙のように流れて海へ溶けていった。
紗里は何も言わなかった。
俺が何度か繰り返し骨を投げると、紗里も骨壺に手を入れて同じように骨を投げた。
いつしか、涙が流れていた。
紗里の頬にも、涙が伝っていた。
そして、笑った。
海は、青かった。
父の肉体は焼かれ、そして骨になる 石田徹弥 @tetsuyaishida
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