第8話 大団円

 鹿児島博士は、それらの発見をしばらく誰にも言わないでいた。それは、

「信憑性の証明に時間が掛かった」

 ということで、何の根拠もないことで、世間を騒がせたくないという思いからだった。

 そんな思いを、誰も知らないのをいいことに、というか、次第に研究に対して、冷めてきていることに気づいた博士は、世間に公表することを諦めようと考えたのだ。

 世間への公表よりも、自己満足を取ったと言えばいいのか、博士は性格的に、冷めてくると、それ以上深入りすることを拒むのだった。

「熱しやすく冷めやすい」

 という性格を、地で行っていると思っていたが、まさにそうだった。

 短気ですぐに怒りやすいくせに、怒りを表すタイミングを失えば、一気に気持ちが萎えてきてしまい、たまに、自分の中に殻を作って、そこで固まってしまうということになりかねないのであった。

 つまりは、鹿児島博士という人間の性格として、

「どこか、二重人格的なところがある」

 と言われていたのだ。

 ただ、本人は、二重人格というよりも、躁鬱症の気の方が強いと思っていた。

 人によっては、

「二重人格と、躁鬱症というものを、似たようなものだ」

 と思っている人が多いのだろうが、鹿児島博士は、そうは思っていなかった。

 二重人格というのは、

「まったく違う人格が潜んでいるもの」

 ということであり、躁鬱症は、

「一つの性格の中で、躁状態と、鬱状態が、交互に来る」

 と考えていたのだ。

 博士の信憑性としては、躁鬱症というものを考えた時に、

「この二つが、まるで昼と夜のように、交互に来るもので、決して、一緒になることはない」

 と考えたのだとすれば、そこで思いつくものとして、

「バイオリズム」

 というものであった。

 バイオリズムには、

「生理、感情、知性」

 というものが、周期的パターンによって変化するというものをグラフ化したものであるが、その場合は、ほとんどが、きれいな浮き沈みのカーブを描いている。

 しかも、それぞれに、少しずつずれが生じていて、それらの変化が、心技体に結びついているという、一種の、

「仮説」

 である。

 証明されているわけではないが、鹿児島博士も、自分なりの研究を進めているといってもいいだろう。

 しかし、この時の、未知のウイルスについての発見を発表するタイミングを逸してしまい、結局、発表できずにいたことが、ある意味で、トラウマになってしまったようで、いつのまにか、研究に対して興味を失ってしまい、科学者を引退するということになったのだ。

 さすがに、研究者たちからは、

「どういうことなんですか?」

 という、鹿児島博士の研究者としての心変わりがどういうことなのか、正直誰も分からないと言ったところだった。

 鹿児島博士は、所属している大学に、退職願を出して、引退するということになったのだが、さすがに、

「もったいない」

 という人が結構いて、いろいろな大学から、

「来てほしい」

 という話もあったが、そおすべてを断り、しばらく、姿をくらませるというようなことがあった。

 半年くらいして、戻ってきたのだが、その頃には、もう、鹿児島博士の話題も出ることはなく、

「なるほど、人のうわさも七十五日とは、よく言ったものだ」

 ということであった。

 博士が帰ってきた時には、息子が、研究者として、一目置かれるようになっていた。

 昔の博士だったら、

「まだまだわしの目の黒いうちは、わしの前にたちはだかるなど、百年早いわ」

 とでもいいたかったことだろう。

 しかし、今はすっかり丸くなっていて、息子が自分の後を継いでくれたかのようで、嬉しかった。

 実は息子には、自分が研究していた例の、

「子供だけが罹るという伝染病」

 のことを、ハッキリとは言っていないが、ヒントとして与えておいた。

 だから、息子はヒントから、いろいろ察することに掛けては、自分よりも優れていると思っていたことで、

「いずれ、わしが目指したものを、息子が研究してくれる」

 と思ったのだった。

 実際に、息子の研究は一定の評価を受け、

「鹿児島博士の息子」

 ということで、それなりの地位をえていたようだ。

 人によっては、

「親の七光りと言われるのが嫌だ」

 という人も結構いるのだろうが、息子はそんなことにはこだわらなかった。

 こだわる人も、こだわらない人もそれぞれに意地というものがあり、考え方があることだろう。

 息子の性格が自分に似ていると分かっていることから、

「人に飽きられないようにということを、まず考えているんだろうな」

 と思うと、

「まわりを必要以上に意識しない性格なんだろうな」

 と感じたのだ、

 ある意味、一歩間違えると、

「変人」

 というレッテルを貼られる。

 鹿児島博士の場合は、

「そんなことは一向にかまわない」

 と思っていた。

 人が何を考えているのかということにこだわるくらいなら、最初から、父親と同じ道を歩むようなことはないに違いない。

 そう思うと、息子の考えていることが手に取るように分かってきて、

「わしが得た知識を漏れなく与えてやろうとも思ったが、それに関しては、頑なに拒否るに違いない」

 と感じたのだった。

 息子の性格を見ていると、今度は、自分が躁鬱だったことを思い出した。

「熱しやすく冷めやすいというのは、そこから来ているのかも知れない」

 と感じるのだった。

「世の中において、似た人間が三人はいる」

 と言われているが、それはソックリさんということなのか、それとも、

「もう一人の自分」

 という意味での、ドッペルゲンガーという発想から来ているのか、どっちなんだろう?

 と思うと、

「自分の二重人格性は、もう一人の自分を証明していることではないか?」

 と感じると、

「ジキルとハイド」

 を思い出すのだ。

 どちらかが表に出ている時は、決して意識することはなく、夢を見ているようだ。そんな人間が、ドッペルゲンガーと言われるもので、

「もう一人の自分だ」

 ということになるのだろう。

 だから、似た人というわけではない、似た人というのは、

「似て非なるもの」

 であり、似ているだけで、決して自分というわけではない。

 だから自分に似た人を見付けることはできても、もう一人の自分を見つけることはできない。

 それが、

「ドッペルゲンガーを見ると、近い将来、死に至る」

 というものなのだろう。

「世の中には、自分と似た人間が三人いる」

 と言われる人たちは、あくまでも、

「似た人間」

 であり、

「もう一人の自分」

 ではない。

 もう一人の自分というのは、ドッペルゲンガーと呼ばれるもので、少なくとも、

「本人の行動範囲以外で出没することはない」

 と言われているのだった。

 つまりは、知らない人と行動を共にするというのは、

「ドッペルゲンガーであっても許されない」

 ということなのだろう。そういう意味で考えれば、

「もう一人の自分は、この世にいるのではなく、別の世界。ただ、その世界は、異次元ではなく、並行宇宙と言われる、パラレルワールドのようなものに存在しているのではないか?」

 という考えであった。

 異次元というのは、時間の進み方も、時間自体も違っているものであるが、パラレルワールドはあくまでも、同一時間に存在する別の世界なので、同一時間という考え方が、元々なければ、成り立つ考えではないといえるだろう。

 そのことを考えると、鹿児島博士は、

「自分の身体の中に、パラレルワールドへの入り口がある。一種のワームホールだ」

 と思っているのかも知れない。

 たまに、自分がこの世に存在しているはずなのに、急に

「まるで、異次元から、この世を他人事のように見ている自分がいるような気がする」

 と感じていたことがあった。

 その思いが、まるでバイオリズムのグラフのように、

「同じ動きをしているのだが、リズムが微妙にずれているので、いずれ、三つが重なる時があり、その時が不吉なことが起こりそうな気がする」

 というものであった。

 この発想が、躁鬱症であったり、二重人格というものに、どのような影響を与えているのかが難しいところであろうか?

 鹿児島博士が、今フラッと現れたのだが、雲隠れしていたと思われる時期、誰も、鹿児島博士のことを気にしなかった。

 しかし、鹿児島博士が現れたその時、

「博士、一体どこにいってらしたんですか?」

 と言ってくる人が結構いるのがおかしかった。

 ただ、博士としては、

「私は雲隠れなんかしてませんよ。別に見つからないようにしようなどという意識もなかったし、別に話しかけられれば気さくに話をしたはずだからね」

 といっていた。

 これは、別に強がりというわけではなく、本心だったのだ。

 確かに今までの博士からすれば、どこか、かまってちゃんのようなところがあったようにも思うが、こういうところでウソを言ったり、言い訳をしたりということはなかったはずだ。

 だから、雲隠れしていなかったのは、本当だろう。

 息子も、

「親父がいる場所は聞いていたから」

 といって気にもしていなかったのは、今までの博士がいなくなった時でも、下手に探したり構ったりすると、却って怒られたくらいだった。

 今回のようにいきなりいなくなったからといって気にするというのは、どこかが違うのだった。

 そう、博士は、その時々で考え方が違った。

 それこそ、

「まさしく、二重人格だ」

 ということなのかも知れない。

 そんな中において、自分の息子が、最近、自分が投げ出すことになった子供が罹るウイルスの特効薬の開発に成功した。

 あの病気は、博士が提唱していた通り、

「今までは大人にだけしか罹らない病気だということであったが、実は、今度の病気は完全に子供だけなんです。そのことに気づくと、特効薬のヒントはそこに隠されていて、そのおかげで、何とかできるようになりました」

 といって、プレス発表していた。

 そして、その質問の中で、父親の話が出た時、息子がいうには、

「親父は、皆さんから大きな誤解を受けているようですが、私に研究の橋渡しをしてくれたのが、父親だったんです。ハッキリとした資料を残してくれていたし、私にやり方まで伝授してくれていました」

 というではないか。

 博士はそれを見て、

「おいおい、そんなことはない。私はお前のためになどと思ったことはない。この研究を辞めたのだって、自分だけの手柄になりそうにないと思ったからだぞ」

 と、つい漏れてきそうな本音が頭をよぎり、ビックリして、それ以上いうのを辞めたのだ。

「私は、お父さんが考えていることが分かる気がします」

 といって、話していることは、どこかニアミスのように、どこか分かり切っているところが違っているようで、それこそ、

「息子は自分の分身のように見えるのだが、息子が分身だったら困るんだ」

 と思うのだった。

 どういえばいいのか難しいところではあるが、息子の言っている、

「私は親父の息子だから、研究ができた」

 といっていることだけは間違っていることではなかった。

「俺にとっても同じことさ。この研究をできるのはお前しかいないと思ったからだ」

 といって思わず涙ぐむと、息子も涙ぐんでいて、

「この喜びを最初に伝えたいのは父親です」

 といっていた。

「鹿児島博士の無念なところを、先生が継がれたわけですね?」

 と記者に聞かれ、

「いえ、父は無念ということはなかったと思います」

 と答えていた。

 それを聴いて、

「息子はよくわかっている」

 ということを思い、息子が自分の遺影を抱いているのが見えた。

「博士の勇気には、我々人類は感謝しかないです」

 といっている。

「そっか、俺は、実験台になったんだった」

 ということを思いだした。

「同じ死ぬなら、実験台で」

 ということであった。

 博士は、がんに罹っていて、伝染病に罹る可能性が高かった。そこで、息子のために、自分たちが開発した薬の実験台になったのだった。

「一蓮托生の息子のために」

 というのが、博士の遺言だったのだ……7。


                 (  完  )

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

一蓮托生の息子 森本 晃次 @kakku

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ