マンホールおじさん

石田徹弥

マンホールおじさん


 私の家からスーパーまでの道のりには七個のマンホールがある。

 そして私の家から三つ目のマンホールに『マンホールおじさん』は住んでいた。


「こんばんは、おじさん」

 マンホールおじさんはちょうど夕焼けを眺めながら煙草をふかしてる最中だった。肩まで体を出して、マンホールの蓋をまるで帽子のように頭の上に乗せている。

「おう、嬢ちゃん。今日はなに食べるんだい」

 私の持つエコバックを見て、マンホールおじさんはにんまりと笑った。

「カレーだよ」

「またかいっ」

「私はカレーが大好きなの。三百六十五日でも足りない。夢の中でも食べてる。きっと走馬灯でも食べてるわ」

「インド人もびっくりだわ」

「今度持ってきてあげようか?」

目線を合わせるためにしゃがみ込んでいた私を、マンホールおじさんはどこか申し訳なさそうに見つめたまま、黙り込んだ。

そして何台か車が避けて通った後に、ようやく口を開いた。

「そりゃ嬉しいけどよ。困るだろ、嬢ちゃんが」

「どうして」

「どうしてってよ……」

 言いたいことはわかる。マンホールおじさんはここら一帯では有名人だ。そりゃマンホールからおじさんが出てきて、しかも生活しているんだから有名にならざるを得ない。


 最初は物珍しさから多くの人がマンホールおじさんに話しかけたり、ご飯をあげたり、一緒に酒を飲んだりしていた。

 しかし、ある時「マンホールおじさんが小さい子を連れ込もうとした」という噂が広がった。噂は噂でしかなく、被害にあった子は結局見つからなかったが、噂とは立っただけで呪いのように留まってしまうようだ。

 それ以来、マンホールおじさんに近づく人はいなくなり、学校でも近づくことが禁止となっていた。


「手料理は家族とか、恋人とか。そういう大事な人に作ってやるもんだ」

 マンホールおじさんは煙草を咥えたまま、夕日に視線を移した。

 彼のビー玉のような瞳に、真っ赤な夕日が溶け込んでいる。

「おじさんは、私にとって家族みたいなもんだよ」

 両親が仕事の関係でほとんど家におらず、高校生でありながらもいつも一人で生活しているような状態の私にとっては、マンホールおじさんは大切な存在だった。

 マンホールおじさんはそう言った私を驚いたような顔をして見つめると、そのままそろそろとマンホールの中に沈んでいった。

 カタリと閉まった蓋はもう開かなかった。こうなったおじさんは、絶対に出てこない。

 私は諦めてスーパーに買い物へ向かった。


 次の日、私は出来立てのカレーを持ってマンホールおじさんの元へ現れた。

 マンホールおじさんは今日も夕日を見ながら煙草をふかしていた。今日いつもと違うのは、珍しくマンホールから出てきて道路に腰かけていたことだった。それでも足はマンホールの中に下ろしてぷらぷらと揺らしていた。

「おう、嬢ちゃん……って、そりゃまさか」

「持ってきたよ、おじさん」

 私は問答無用でカレー鍋を道路に置くと、タッパの白飯にドロリとかけた。

「私は冷や飯にカレーをかける派なの。それだけは許してね」

 そうやって私は冷や飯カレーをマンホールおじさんに差し向けた。今日のカレーの具は豚肉とアスパラ、なすび。自信作だ。

 マンホールおじさんは少し悩むそぶりを見せたが、首を小さく振ると笑顔を浮かべて受け取った。

「うまそうだ」

 そして二人で手を合わせて、「いただきます」と重ねて言った。

 私も自分の分のカレーを口に運ぶ。アツアツのカレーと冷や飯が混ざり合い、口の中は喜びの混乱を迎えている。一度、二度と噛むとその両方が私の体温と同じくらいの温度に混ざり合った。そしてゆっくりと飲み込むと、喉が幸せを感じて躍動した。

「おいしい」

「あぁ、うめぇ。こんなうめぇカレーは食ったことがねぇ」

 マンホールおじさんはあっという間にカレーを食べ終えると、また両手を合わせて拝むようにして私に頭を下げた。

「ごちそうさま」

「お粗末様でした」

 私も食べ終えて両手を合わせた。

「カレーもうまかったが、何よりだれかと飯を食うのが良い。こんな気持ちになるんだな」

 それは私もだった。久しく、だれかと食事を共にしたことはなかったからだ。

 私は「家族は?」と聞こうとしたが、我慢した。

 カレーを食べた後に野暮な話をしてはいけない。インド人に怒られるからだ。

「また持ってくるね」

 そうして私たちは小さく笑い合うと、また明日と言い合って別れた。

 それがおじさんと会った最後の日だった。


 翌日本州に上陸した台風「十三体の神」は史上最大の威力で猛威を振るい、各地に大きな被害を出した。特に被害を受けた四国は五国となり、また神奈川県は横浜県と名前を変えることとなった。

 私の住む地域でも雨風が吹き荒れた。

 マンホールおじさんが心配になった私は、雨なんて気にせずに家を飛び出して、おじさんのいるマンホールへ駆けた。

 二つ目のマンホールを超えた時だった。

 近隣の全マンホールの蓋が勢いよく吹き上がり、マンホールの中から竜のような水柱が上がった。

「おじさん……」

私はマンホールに近づこうとした。だが水柱の勢いはすさまじく、吹き飛ばされた。

「おじさん……おじさんー!」

 いつまでも私はマンホールおじさんを呼び続けたが、その声は雨風に消え、私の意識も雨水に溶けていった。


 さらに翌日。

マンホールおじさんを呼び続けていた私は意識を失い倒れ、救急車で運ばれていた。

 意識を取り戻した私は、病院から駆け出した。

台風は過ぎ去り、まるで嘘のように空は晴れ渡っていた。

それから急いで家の方へ戻り、マンホールおじさんの住むマンホールへ向かった。水柱で吹き飛んだ蓋は元の場所に戻っていた。

だが、二度と同じことが起こらないように蓋はがっちりと封印されていた。

私はバッテンに封じられた蓋に向かって、彼を呼んだがいつまでも反応は無かった。

蓋を叩いたり、またカレーを作って持っていって匂いを充満させたりしたが無駄だった。

マンホールおじさんはいなくなった。

死んだのか、それとも台風を見越して引っ越したのか。

私にはわからなかった。



あれから一年。私は高校を卒業して、調理師の専門学校へ通い始めた。

カレーを極めるために。

授業を熱心に受け、何度もカレーを作っては試行錯誤を続けた。

だけどあの時、マンホールおじさんと食べた時のカレーの美味しさを超えることは出来なかった。

そうだ。私の目的はカレーを極めることじゃない。

〝あの時のカレー〟を再現することだった。

「御浜さん」

 授業が全て終わり、帰る準備をしていた私に、隣の席の子が話しかけてきた。

「えっと……」

「才原しお。御浜ステイシーさん、だよね」

「ごめん、まだ名前覚えられなくて」

「ううん、気にしないで。それよりお願いがあるんだけど」

 お金を貸してほしいのだろうか。私は財布の中に三千円あったはずだと思い出した。二千円……いや千五百円までなら貸してあげてもいい。その場合、おつりは……

「いつもおいしそうなカレー作ってるでしょ? 一口でいいから食べたいなって……だめかな?」

 才原しおは中学生のような童顔で私の顔を覗き込んだ。

「私のカレー……?」

「かわりに、私が炊いたご飯をあげるから。炊いたっていっても、もう冷えてるけど」

「冷や飯?」

「うん。冷や飯にカレーってだめ?」

 あの時の光景が蘇った。あの日の夕日が。

マンホールおじさんと一緒に食べた、あの冷や飯カレーが。

私は目が潤んだことを悟られないように顔を背けると、答えた。

「いいよ。その代わり……」

 生徒がいなくなり、私と彼女だけになった教室に、夕日が差し込んだ。

「一緒に食べよ」

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マンホールおじさん 石田徹弥 @tetsuyaishida

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