『海に揺蕩う男』
小田舵木
『海に揺蕩う男』
しとしとと冷たい雨が降りしきる。
僕の手はかじかんで。君の手は震えている。
僕たちの眼の前には海があり。僕たちはなんとなく海を眺めている。
雨の海は荒れ模様。波が荒ぶっている。
うねるような海。その何でも飲み込んでしまいそうな様相は。
僕たちの心境が求めているものかも知れない。
僕たちはどうしようもなく行き詰まっていて。
出来ることなら、この海に身を任せてしまいたい。
「…海は良いね」隣の君は言う。その眼は虚ろで。
「今なら死ねるんじゃねえかな」僕は
「安易に死ぬなんて言っちゃ駄目」
「…そうでもしなきゃ僕たちの状況は変わらないよ」
「変わらないと思い込んでいるのは私達だけかも知れない」
「君は冷静だなあ。そりゃ
「私達は…諦めてしまっているだけかも知れない」
「諦めたくもなるだろうに」
僕と彼女にはしこたま借金があって。やってる事業もうまくいってない。
大学を卒業してすぐに結婚して、事業を始めてみたは良いものの。
そんなに社会は甘くないのだ。市場を読み間違えたのかも知れないし、需要のない事業をやってしまったのかもしれないし。
海はうねる。まるで人を飲み込む世界のようだ。
僕と君はその前に身を置いて。借金まみれの生活を憂いている。
数年前なら。こんな景色の前に身を置く事などなかった。
だが。うまくいかない人生は。人を暗鬱な景色の前に呼び寄せる。
◆
僕たちは暗鬱な海を眺め終えると。さっさと現実に帰ることにする。
僕たちの街は海が近い。その気になれば何時でも海を眺めに来れる。
僕達の事業。
それは飲食店…しがないバーであり。
僕はその店のマスターなのだが。いやあ。客があまり来ないのだ。
それに数年前の新型感染症の流行り。それが事業にトドメを刺すカタチになった。
ただでさえ少ない客足が完全に途絶え。自治体の助成金でなんとか首を繋いだが。
借金は膨らんで。僕の通帳にマイナスが付いて久しい。
僕はカウンターの内側でせっせとグラスを磨く。その反対側には客なぞ居ない。
彼女…僕の家内は店に出なくなって久しい。彼女は別の仕事をしに出かけている。
夜の仕事だ。男を抱きはしないが、男に媚びへつらう仕事。
そんな事、君にやらせたくはないんだけど。僕の仕事の実入りがすくないから致し方ない。
僕は店中のグラスを磨き終えるとやることがなくなる。
とりもあえず、店のボトルの期限をチェックして回るが。
ああ。ボトルが回転していない。無駄に種類を揃えているせいで、余計に回転は少ない。
僕はやることがなくなると、ノートPCを開く。
そして店の帳簿をチェックするのだが。
ああ。そこには赤い数字が並んでいて。この事業の厳しさを改めて僕に教えてくれる。
僕はカウンターの内側の椅子に座って。店をぼんやりと眺め回す。
決して広くはない店だけど。僕の夢の城であったはずなのに。
僕は学生の時分からバーテンダー見習いをしていた。
都会のバーを手伝いながら、バーテンダーになることを夢見ていた。
僕は人を
ああ。大きな夢を見すぎた。大学を卒業してすぐ店を持つなんて。無理があったのだ。
この夢に家内を巻き込んでしまった事を後悔し始めて何年になるか?
彼女と僕は同じ大学の心理学部に通っていた。そして彼女に惚れた僕は彼女を口説き落とし。この暗い穴に引きずり込んでしまった。
彼女をこの暗い穴に引きずり込まれていなければ。今頃は臨床心理士にでもなっていたはずなのだ。
僕の後悔は根深い。
特に彼女に関しては根深い。
僕は夢を語り、彼女を口説いたのだが。
今や夢は悪夢と化して。僕たちの生活に暗雲を落としている。
彼女は文句一つ言わずに僕に付き従う。なんなら事業の為に夜の仕事さえしてくれる。
だが。それが僕の傷口に塩を塗り込む。もっと叱り飛ばしてくれれば良いものの。
彼女は暖かい眼で僕と事業を見守り続けるのだ。
◆
明け方の店。
客はあまり来なかった。2、3人を呑ませた位かな。
時刻は4時。家内は明るい雰囲気を纏いながら店に帰ってくる。
「ただいま」
「おかえり」
彼女は派手な服に身を包み。香水の匂いをさせていて。
僕は家内に何をやらせているんだろう、という気持ちになる。
「店の調子はどう?
「いつも通りさ」
「ふぅん。ま。今日も一日終わっちゃうね」
「ああ…何時まで。こんな生活続けられるかなあ」
「それは。幸がやる気を出している間は」
「…最近は潮時かなって感じてるけどね」
「そんな弱気にならないでよ」
「…ごめんな」僕は彼女の明るさに折れる。本当はトドメを刺して欲しいのに。彼女は明るく僕を迎えるものだから。この悪夢と化した夢を捨てきれない。
僕と家内は店を片付ける。
そして店の二階の生活スペースへと上がっていく。
店の二階は2LDKの部屋になっていて。僕と彼女はそこで暮らしている。
僕と彼女は。
とりもあえず朝飯の準備をする。大したモノは作らない。
ごはんと味噌汁とちょっとしたおかず。それが僕らの生活を成している。
「仕事はどう?
「どうもこうも。おじさんに呑ませて媚びへつらう」
「君の性分には合わないんじゃないのかい?」美由紀は。大人しいタイプの女なのだ。
「性分がどうこう言ってられない。仕事だもの」
「美由紀は仕事を我慢しているのに。僕は好き放題やっていて…」
「幸には好きにやって貰いたいわけ。私としては」
「もう。十分好き勝手やったよ」もう二十も後半である。
「まだまだ。下の店を繁盛させるのが夢でしょう?」
「夢ではあるけどね。もうチャレンジはしつくしたはずなんだよ」
「工夫が足りてないのかも。まだやりようはある」
「美由紀はガッツがあるなあ」
「女は打たれ強いの」
「男はすぐへこたれる」
「だから私が幸の背中を叩き続ける」
「そら心強い」
僕たちは朝食を終えると。風呂に入って。
遮光カーテンを閉めた寝室へ行く。
そして抱き合って眠る。
たまにセックスをしたりするが。若い頃ほどの回数はしない。
あまりセックスをして子どもなんかが出来た日には。新たな不幸が始まってしまうのだ。
最近は僕が誘う事がなくなった。美由紀にせがまれてする事が多い。
「抱いてよ」なんて美由紀は言う。
「
「私に飽きた?」
「んな事あるかいな」
「じゃあ…」なんて。いつものパターンだ。僕が美由紀に襲われてばかりなのだ。ここ数年。
◆
セックスをして。程よい疲れに身を襲われて。
僕は眠りにつこうとするのだが。
まったく眠くない。カーテンの外には明るい日差しがさし。
隣の美由紀はくうくうと寝息を立てて眠っている。
僕はパジャマを着て。下の店に行って。
期限の近いウィスキーのボトルを持ってきて。
睡眠薬と共に
ウィスキーの酔いが睡眠薬の微睡みと共に来る。
僕はここ数年、コイツがないと眠れやしない。
◆
憂鬱な日々は続いていく。
僕の店は相変わらず繁盛してなくて。美由紀は夜の仕事に邁進して。
僕たちの未来はどんどん削れていくように感じる。
こんな事を何時までもしてはいられない。そんな事は分かっている。
だが。もう止め時が分からなくなっているのも事実で。
僕の精神がガリガリと削れていくのを感じる。
僕はいい加減店を畳むべきなのだ。そしてまっとうな職で美由紀を養うべきなのに。
彼女の優しさと僕の優柔不断っぷりのせいでこんな生活を続けてしまっている。
◆
「なあ?美由紀。もう終わりにしないか?」僕はある朝の食卓でこんな事を言う。
「私達の夫婦生活?」
「いいや。僕が夢を追い続けること。店を畳もうかと」
「…諦めるには早くない?」
「いいや。この数年粘り続け過ぎた。潮時だ」
「まだ。私が夜に働けば…」
「続けられるかも知れない。でも先には行けない」
「先?」
「子ども産んだりする余裕ないだろ?」
「そりゃあ。子どもが欲しくない訳じゃないけれど」
「僕が夢を諦めれば。子ども一人養う余裕くらいは作れるはずだ」
「…」美由紀は考え込んで。
「僕はもう十分に君に甘えてきた。そろそろ頑張る頃さ」
「甘えてなんて…」
「甘えてるさ。君に食わせてもらって遊んでいるようなモノさ」
「私はね…
「その夢は叶わない。僕たちは失敗したんだよ」
「諦める貴方を見たくない」
「僕は君に無理をさせたくない」
「…考えさせて」
「考えるまでもないんだ。僕はもう夢に疲れてしまった」
「そんな事言わないでよ…」
「言うさ」
この後は無言が続いて。
僕と美由紀は別々の時間帯にベットに入って。
結局は眠れなくて。
昼間に一人海へと歩いて行った。
◆
僕は一人で近所の海に来て。
一人海を眺めている。今日は晴天。穏やかな海が僕を迎える。
「うーみーはひろいーなー」なんて歌を歌ってみるが。気分は晴れようもなく。
辺りを見回せば堤防から釣り人が糸を垂らしている。
僕は穏やかな気分にはなれない。
ただただ。暗鬱な気分が体を満たしている。
僕は鞄に忍ばせたウィスキーのポケットボトルに口をつける。
冷たくて暖かい液体が喉を伝う。
ここに睡眠薬があれば。僕はこの堤防で眠りにつけるだろうな。
酔で曖昧になった眼で海を眺める。
海は静かにうねっている。ちゃぷんちゃぷんと音を立てて。
僕は海に美由紀を重ねる。
アイツはこの穏やかな海のような女なのだ。
ただ、静かにうねって。僕のアホらしい夢を受け入れてくれている。
僕は申し訳なさに襲われるが。
海のような彼女は気にもしていない。
そりゃそうだ。海の広大さに比べれば。僕のような矮小な存在は小さなモノなのだ。
僕はあの海のような彼女―美由紀―の上を
小さな夢を胸に抱いて。
だが。そろそろ限界で。
でも彼女は受け入れてくれなくて。
僕はどうしたら良いのだろう?
◆
『海に揺蕩う男』 小田舵木 @odakajiki
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