六月一日付、最果テ工場総務部門ニ異動ヲ命ズ

未来屋 環

人生最大の試練

 ――思えば、俺の人生は不意打ちの連続だ。



『六月一日付、最果テ工場総務部門ニ異動ヲ命ズ』



 小学六年生の夏。レギュラーのやつが前打席で怪我をして、万年補欠の俺に出番が回ってきた。最初で最後の公式戦バッターボックスで、俺は見事に空振り三振を決めた。

 高校二年生の文化祭。入学以来好きだった子に声をかけようと、勇気を振り絞って彼女の教室に行った。教室にいた彼女は、俺の親友と嬉しそうに肩を組んでパンフレットを眺めていた。

 大学四年生の秋。やっとの思いで就職を決めた会社から封書が届いた。内定式の案内かと開けてみれば、経営上の都合に伴う内々定取り消しの連絡だった。


 ――そして、五年前の梅雨の日。

 俺は初めてこの広大な工場に足を踏み入れた。


 紆余曲折ありながら何とか入社できた機械器具メーカーで、俺は十年間営業職に携わってきた。

 それが、いきなり工場の総務部門に異動するなど、全く想像していなかった。

 しかも異動先は社内で一番古い――良い言い方をすれば『歴史ある』工場で、社内では『最果て工場』と呼ばれていた。何でも、ここでは時間の流れが止まっていて、本社の理屈も何も通じないらしい。

 そこまでずば抜けて営業成績が良かったわけでもないが、逆に落ちこぼれてもいないつもりだった。

 何より、俺は営業の仕事にちょっとしたプライドを持っていた。平日はお客や社内の関係者と飲みに行き、昼夜問わずかかってくる電話の対応に追われ、休日は上司とゴルフコースを回り、たまに同期と集まれば会社のダメさを語り合う。毎日が慌ただしく過ぎていったが、俺は確かに必要とされていた――はずだった。


 ――『左遷』、その二文字が俺の心に大きく影を落とした。


 初めての転勤が自分の意にそぐわないものだったこともあり、ここに来て早々の俺は全く前向きではなかった。

 それが伝わっていたのだろう。初めは同じ職場のやつらもよそよそしく、慣れない仕事に追われる俺を、少し引いた目線で見ていたように思う。


 上司も変わっていた。鴫原しぎはらという女性の課長で、小柄で眼鏡をかけていた。俺の三つ上らしいが、顔だけ見れば俺と同じか、下に見えなくもない。羽織った作業着からはほっそりとした足が伸び、履いている安全靴のでかさがやけにアンバランスに見えた。

 三十代半ばで工場の課長というのは、うちの会社では異例の出世スピードだ。確かに仕事はよくできた。判断も速く、部下への指示にも無駄がない。酒もめっぽう強く、営業で鳴らしたはずの俺の方が先にグロッキーになるほどだ。


 しかし、鴫原課長にはおおよそ『気遣い』や『愛嬌』というものがなかった。いつもぶっきらぼうで、無愛想。俺だけにというわけではなく、他の部下達に対しても同じような態度だ。それでも工場長や他の部門の管理職達はいつも彼女に相談にやってくるし、同じ職場のメンバーも頼りにしている。純粋にすごいとは思いつつも、俺にとってはあまりやりやすい相手ではなかった。鉄面皮というのはこういう人を言うのだろうと思っていた。



 しかし、俺にとっての転機を生み出したのは、鴫原課長の一言だった。


「今度出張者が来るから、工場案内をお願い」

 転勤してから一ヶ月程経った夏の日のことだ。鴫原課長が俺を課長席に呼び出し、言い渡した。

「工場案内ですか? 俺より、もっと適任者がいるんじゃ――」

「いや、これは君の仕事」

 彼女は俺の言葉を遮り、きっぱりと断言した。

「君はもっと工場を知った方がいい。出張者が来るのは来週だから、今週中に準備をしなさい」

 変わらない表情のままそう続けて、彼女は自分の仕事に戻った。

 あいかわらず取り付く島もない。俺は何も言い返せず、ただ「はい」をできるだけ遅いタイミングかつ小さな声で呟くことで、反抗心を見せるのが精一杯だった。


 ひとまず場内を歩いてみないことには、何も始まらない。

 俺は場内地図を印刷し、取り敢えず事務所を出た。じりじりと肌がかれるのを感じながら、製造建屋の方に歩き出す。

 入社して以降、新人実習ぶりに訪れる現場に足を運んでみると、所々で業務用の扇風機は回っているものの、大型機械の稼働や溶接作業の際に発生する熱で、建屋の中は蒸し上げられている。自販機の飲み物の補充も十分に追い付いていなかった。

 俺達が執務する事務所も決して快適ではなかったが、この現場で作業することに比べたら天国だろう。安全通路の中を歩いてみても、作業者達は俺に目をくれることもなく、一心不乱に作業に取り組んでいた。

 これでは、熱中症で倒れてしまってもおかしくないだろう。


 その時――ふと、俺は妙案を思い付いた。


 そのまま建屋を出て、工場の裏門を通過し、近くにあった地元のスーパーに入る。ドリンク売り場にはうず高くダンボールが積まれていた。店長を呼び出しアイデアを相談すると、彼は喜んでどこかに電話をかけ始めた。

 大したことじゃない。俺は賞味期限が近くなったスポーツドリンクを大量に安価で仕入れる話を持ち掛けたのだ。そして、早速入荷されたそれを、翌日から毎日現場に配って回った。総務部の他のメンバーは、そんな俺の行動を唖然としたように見ていた。

 どうせ左遷された身だ。何をやったって構わないだろう。だが、やるからには徹底的にだ。俺は半ば自棄やけになっていた。


 その勢いのまま、財務部門に新しい冷房器具の購入申請に行くことに決める。申請用紙をさっさと埋めて持って行くと、鴫原課長は中身を一瞥した後、「ふーん」と一言だけ言ってハンコを押した。ドリンクを配り始めた時も何も言ってこないし、何を考えているのかはわからないが、取り敢えずこれで正式に申請ができる。

 当然の如く担当者に突っ返されたが、こうなると俄然燃えてくる。元営業をなめるな。とことん粘り強さを発揮してやろうじゃないか。

 度重なる交渉の結果、何とか六台のスポットクーラーを現場に設置することができた。


 その辺りからだったな。製造現場の係長達が、場内を歩く俺に声をかけてくるようになったのは。

 用件は様々で、トイレの蛍光灯が切れただの、どこそこの係の誰々が出社してこなくなっただの、その度に色々と駆り出された。ホームシックで寮に閉じこもってしまった新人の作業者を迎えに行ったりしたこともある。その内、定時後に事務所に立ち寄った彼らと、たまに飲みに行くようになった。

「お前が来るまでは、総務部って、職員室みたいでニガテだったんだよなぁ」

 そんな風に言われた時、お前は他の奴らとは違うと言われたみたいで、何だか俺は嬉しかった。

 思い返せば、営業の時には、そんなこと言われたことがなかった。


 半年ほど経つと、同じ部署のメンバー達とも上手くやり取りができるようになってきた。

 どうやら、本社の営業の人間が来るということで、何かやらかしてきたんじゃないか、もしくは本社のスパイなんじゃないかと身構えていたらしい。それに加えて、転勤直後は俺のふてぶてしい態度もあり、どう接したら良いのか周囲も悩んでいたようだ。

 それが、他の職場の人達とやり取りをする姿や、製造現場の係長達からの話もあり、そこまで悪い人間ではないと認めてくれたのだろう。

 鴫原課長の態度はあいかわらずだったが、他のメンバーは俺が困っていると助けてくれたり、逆に困りごとがあれば相談してくるようになった。


 秋になると、冬のボーナスに向けての仕事が始まった。

 これが目が回る程忙しい。何しろ工場の全社員の評価を集め、決められた原資の枠の中で支給額が収まるように調整し、不公平がないよう会議を何度も重ねて決定しなければならない。

 ここに来るまで、総務部門なんて何もしない金食い虫だと思っていたが、実際に自分が業務に携わってみると、その認識を改めざるを得なかった。ボーナスの支給日まで気が抜けない。後輩達と何度も金額と評価の読み合わせを進めながら、大量の業務を捌いていく。

 ――そんな中、ミスが発覚した。

 或る部署の評価が全部一人ずつずれてしまっていたらしい。原因はわからないが、とにかく間違っていることは事実だ。銀行にデータを送る直前に止めたのはいいが、こうなるとそれ以外の部署も怪しい。俺は他のメンバーと会議室に籠り、一日中確認作業に追われた。


 必死の作業が終わった頃には、既に夜の十時を回っていた。ひとまず銀行にデータを送り、ほっとしたところで――誰のものとも知れぬ腹の虫が鳴く。

 この時間では駅前の定食屋も閉まっているだろう。どうするかと思った矢先――事務所のドアが開いて、鴫原課長が入ってきた。会食帰りだからか、ほのかに顔が赤い。

 鴫原課長は両手に持っていた複数のビニール袋を机の上に置いて、「じゃ、また明日」と即座に帰っていった。袋の中は、寿司の詰め合わせパックと、冷えた缶ビールだ。彼女なりに俺達を気遣ったつもりだったのだろう。

 この時間だと寿司屋も閉じていただろうにどうやったのかと思っていたら、後日二次会で飲んでいたスナックから近所の寿司屋に無理やり注文をしたらしいということが発覚した。あいかわらずやることがよくわからない。

 ――まぁ、ただ、あの寿司は美味かった。多分、これまでの人生で一番。


 一方で、秋といえば運動会もあった。

 初めて話を聞いた時は、そんな時代錯誤なものをやっているのかと驚いた。営業にいた頃、昔は定時前から練習していたとかいう上司達の思い出話を散々聞かされていたが、まさか自分自身がやることになろうとは、一ミリも思っていなかった。さすが最果て工場だ。

 忙しい仕事の合間を縫って、セレクションや練習に駆り出される。皆口では文句を言いながらも、始まると本気になるから不思議だ。

 リレーの選手選抜で調達部長と走らされた挙句、ぶっちぎりで負けた時には勘弁してほしいと思ったものだが、体が資本の製造部門、頭で勝負する開発部門に対し、有象無象の管理部門で立ち向かうのはなかなかに面白かった。

 他の部門とも練習や競技を通じて知り合い、また一つ仕事がやりやすくなった。

 今となっては、良い思い出だ。


 そんな『頭で勝負する開発部門』とも印象深い出来事がある。

 とにかく新製品の開発に追われ、機能不全に陥った職場の状況を改善したい部門長と、過去のやり方を変えることができない中間層の管理職達に挟まれ、残業時間の縮減や業務の効率化について取り組んだことがあった。

 管理職達は頑なだった。自分達も同じ状況下で生き延びてきたことの自負と、それによって培われた確かな技術力があったからだ。

 それでも、時代は変わり続けている。働く人間の思考や世界の常識が変われば、それに着いていけない組織は朽ちていくだけだ。

 かつて俺がいた営業部門もそうだった。本人達が古き良きと信じて疑わない、いわゆるパワハラ文化だった隣の部署は、若手が毎年のように辞めていき、最近の若者は根性がないと豪快に笑い飛ばしていた管理職達は責任を追及され、ことごとく関連会社に飛ばされていった。

 俺は、彼らに同じ轍を踏んでほしくはなかった。

 部門長の元に足繁く通いながら、対応方法について何度も職場の管理職達と話し合った。時には労働組合にも間に入ってもらい、職場の代表者達の意見を吸い上げたり、部門長と若手社員の話し合う場を設けたりもした。

 思い付くことは全て試した結果、最終的には他部門からの協力もあり、新製品の開発スケジュール全体の見直しを行ったことで、一時期程の残業はなくなってきている。

 最初は俺を煙たがっていた管理職達も、今では挨拶を返すくらいの仲にはなった。

 思い返せば懐かしいことばかりだ。



 ――残務を片付けて時計を見ると、もう昼休み前だった。席を片付けて、食堂に向かう。

 レーンに並んでいる丼を取ると、中にはうどんと山菜らしき具が入っていた。複数台あるジャーからうどんの汁を入れ、隣のケースからおにぎりを取り、トレイに載せる。たまには奮発するかとおばちゃんに声をかけて、玉子をうどんに落としてもらった。

 これで三百八十円だ。

 東京から来た当初は慣れなかったこの味も、今や日常の一部となった。昼めしに千円もかけていたことが、今では信じられない。

 あの頃は何もかもが忙しなく、日々が雑多な色で塗り潰されていた。最終日になって、この世間から隔絶された空間で食べる真新しさのないメニューが、何だか愛おしく感じられた。


 食後に喫煙所に向かうと、珍しく先客は一人しかいなかった。

 この財務部長とも、ここでよく話すようになった相手の一人だ。くだんの冷房器具購入の際にはなかなか申請が通らずやり合ったものだが、今ではちょっとした仕事の相談も世間話のていでできるようになっていた。

 挨拶もそこそこに煙草をくゆらせていると、「今日が最終日?」と訊かれた。


 ――そうだ。俺は、明日転勤する。

 戻り先は五年前に異動してきた本社の営業部門だ。


「そうです。早いもんですね、もう五年ですよ」


 煙を深く吐き出しながら言うと、過去の様々な記憶が思い起こされる。

 最初の一年は長く感じたが、二年目からは加速度的に時が過ぎていった。

 異世界でしかなかった製造現場が庭になった。

 夏は暑さのあまり首にタオルを巻き、冬はドカジャンを羽織って凍えながら仕事をする職場に慣れた。

 部門間交流イベントといっては縄跳び大会やフットサルに駆り出され、翌日の筋肉痛に悩まされた。


 ――東京では出逢うことのできなかった沢山の人達と、共に多くの時間を共有した。


「懐かしいな。最初は随分尖った奴が来たもんだと思ったが、最後まで尖ったままだ」

 財務部長の言いっぷりに思わず持っていた缶コーヒーを取り落としそうになる。

「そんなこと思ってたんですか」

「そりゃそうだろ。いきなり合計三百万の機器購入を期中にぶっ込んでくるんだ。これだから何もわかってないご本社の人間は、と思ってたよ」

 財務部長はいかにも旨そうに深く煙草を吸い込み、そして細く煙を吐き出しながら、建屋の方を見ていた。


「――だが、根性ある奴だとも思った」


 思いがけない台詞に、俺は咄嗟に言葉を見付けることができなかった。財務部長が煙草を灰皿に押し付ける。

「……それ、褒めてるんですか?」

 ようやく出てきた言葉を鼻で笑って、財務部長は俺に背を向けた。

「元気でな」



 午後は場内を挨拶して回った。

 一駅先のデパートで買った洋菓子を抱えて建屋に入ると、室内中の目が一瞬驚いたようにぱちぱちと瞬き、そしてその後何とも言えない優しい色に染まる。仕事やそれ以外で関係のあった人達を中心に短く挨拶して回ったが、一度も話したことがない人達とも何故だか別れ難いような、そんな気持ちになった。


 らしくもない、ノスタルジーというやつだろう。


 俺はそんな人間ではない。五年前本社から最果て工場ここに来た時も、異動すること自体には特に何の感傷もなかった。何故営業から俺が外されるのかという衝撃で、正直それどころではなかった。

 そう考えると、あの時だって色々な思い出があったはずだが、何故か今はそれがあまり思い出せない。何故だろう。


 そういえば、昨夜の部の送別会でも、色々なメンバーが俺に酒を注ぎに来た。

 最初は俺を遠巻きに見ていた彼らとも、今では二時間では語り尽くせないほどの共通の話題ができ、最終的には三次会まで行った。お蔭さまで最後の挨拶で何を話したか、全く覚えていない。

 しかし、一つだけ覚えているのは、二次会の途中辺りで隣に座った鴫原課長と交わした会話だ。

「――営業に戻るのは嬉しい?」

 彼女はそう訊いてきた。

 俺は即答できなかった。あんなに営業に戻りたかったはずなのに、五年間のここでの日々がその思いを鈍らせていた。

 答えない俺を見て、鴫原課長は頷く。

「そうか。君にとって、ここはアウェイだと思っていたが」

 そして――彼女はその表情を綻ばせた。初めて見たその笑顔とあいまって、その言葉が俺の心に焼き付く。

「――いつの間にかここが、君のホームになっていたみたいだね」


 あっという間に定時を迎えた。

 夕礼と称して鴫原課長がメンバー達に声をかける。紹介されて、皆の前に立った。

 総務部長室から部長が顔を出す。その内に隣の部屋から財務部長と調達部長も入ってきた。鴫原課長が俺の経歴を紹介している間に、建屋の外から製造部門の係長や開発部門の部門長もやってくる。


 ――俺の人生は、不意打ちの連続だ。


 鴫原課長に促されて、俺は口を開いた。


「私は明日、本社の営業部門に異動します。

 思い返せば五年前、右も左もわからず、この『最果て工場』にやって参りました。入社以来十年間やってきた仕事とは畑が違い、場所も全く違う。当時はまるで転職したかのような気持ちになったものです。

 それが、あっという間に五年間が経過しました。本当に色々なことがありました。楽しいことも辛いことも、本社にいたら絶対に経験できないような、そんな色濃い五年間でした。上手くできなかったことも沢山あったかと思いますが、何とかここまでやってこれたのは、ひとえにここにいる皆さん、そしてここにはいませんが仕事で私を助けてくれた皆さんのお蔭と考えています」


 営業にいた十年間、異動する人間を何人も見てきた。

 皆色々な挨拶をしていた。

 ――しかし、人前で泣いたやつは誰もいない。


「昨夜、鴫原課長に『営業に戻るのは嬉しいか?』と訊かれました。

 五年前の私だったら、『勿論です!』と即答していたと思います。

 しかし、昨夜私はその問いに答えることができませんでした。

 そして、気付いたのです。私にとって、この最果て工場が『ホーム』になっていたということを」


 そこまで言って、俺は口を噤む。

 油断したら、感情が両目からこぼれ落ちてしまいそうだった。

 周囲で見守る人達の顔を見て、俺は再度口を開く。


「ここで過ごしたこの五年間は、私にとって何物にも代えがたい貴重な経験です。それは、会社人生だけではなく、私自身の人生にとってです。

 明日からは本社の営業という立場にはなりますが、ここで学んだ全てのことと、ここで出逢った全ての方々に感謝して、また一歩ずつ頑張っていきます。

 ――皆さん、五年間本当にありがとうございました」


 一息で言い切り、頭を下げた。

 少し間が空いて、拍手の波が俺を包んだ。

 今までこんなに沢山の拍手をもらったことはあっただろうか。

 気持ちを落ち着けて顔を上げると、皆あたたかい笑顔でこちらを見ていた。



 夕礼を終えて、事務所を出ようと片付けていると、鴫原課長が俺を呼んだ。

「夕礼良かったよ。明日からまた頑張って。途中泣きそうだったけど、耐えたね」

「まさか。だいの大人があんな所で泣くわけないじゃないですか」

「それもそうか」

 そして、彼女は俺に社内便用の大きな茶封筒を渡す。

「これはお使い。本社まで持って行って」

 最後の最後までビジネスライクだ。その鉄面皮さに、思わず俺は吹き出した。

「わかりました。お元気で」


 今日中に東京まで帰る為には、十九時には隣の駅に着いていなければ間に合わない。俺は礼もそこそこに事務所を出た。

 何とか公衆の面前で泣き顔を晒すという事態は防ぐことができた。俺は安堵して、工場と駅を繋ぐ循環バスに乗り込む。


 席に着いたところで、鴫原課長から受け取った封筒の中身を確認していないことに気付いた。中身は何だろう。急ぎの書類だろうか。

 俺はいそいそと中身を開き――そして、すぐに後悔した。


 ――中身は、寄せ書きだった。それも、ぱっと見ただけでかなりの人数分だ。


 あの鴫原課長が集めたのか?

 ――俺の為に?


 抑え込んだはずの熱いものが込み上げてくる。俺は慌ててそれを封筒に戻し、鞄の奥にしまった。

 こんな所で泣き出したら、何事かと思われるだろう。

 俺のプライドにも関わる。

 それにしても、あの課長もああ見えて、優しい所があるんだな。

 そういえば、あの夜の寿司は美味かった――。

 そんなことを考えながら、熱をやり過ごしていると、目の前に駅が見えてきた。俺の最果て工場勤務の終着点だ。


 バスを降りようとしたところで――運転手さんに呼び止められる。


「あ、これどうぞ」


 受け取ったのは缶コーヒーだ。いきなりどうしたのだろう。俺が思わず見つめ返すと、運転手さんが照れたように笑う。


「いや、そのね。鴫原課長さんに、あんたが明日本社に転勤するって聞いたもんだから。何か用意したかったけど、このバスの運転もあるし時間がなくてね。

 で、これ餞別。あっち行っても身体に気ぃ付けてなぁ」



 ――俺の人生は、やはり不意打ちの連続だ。

 言葉にならない声でお礼を言いながら、俺は両目を袖で拭った。



(了)

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