第21話 うっかり、王太子のミスがわかってしまった

 講義は軍事物理学の権威、エドワルド・ハルゼー教授。60を超えた老体だが背筋が伸びてやせ型。白い口と顎帆ひげが特徴の紳士然とした教授だ。

 この教授はかなり厳しい人という評判であった。難しい問題を学生に提示し、それができないと嫌味を言う。相手が大貴族の学生だろうが王族だろうがお構いなしという話だ。それでも許されるのはボニファティウス王立大学の強力な自治権と王政への影響力。さらにその厳しさで鍛えられ、立身出世したものも多く、OBに支持されていることが大きかった。

 講義室に行くと犬、もとい下僕にしたハンス、アラン、ボリスの3人衆がクローディアとセオドアを出迎えた。

 エルトリンゲン王太子が座っている席周辺にこの3人が座り、他の寄せ付けないようにしていたのだ。そしてクローディアが現れるとハンスはアランたちの方へ行くという小芝居をして席を譲る。これでクローディアが偶然に王太子の隣に偶然座ったようになる。


「あら殿下。殿下もこの授業を取っていたのですか?」


 席に座るとクローディアはそうエルトリンゲン王太子に話しかける。王太子は露骨に嫌な顔をしたがクローディアは意に介さない。


「……そうだが。クローディア、席なら他に空いているぞ」

「あんな端では嫌ですわ。それにもう教授がいらっしゃいます」


 クローディアはそう受け流した。彼女には、嫌がられてもめげない精神力がある。これは褒めるべき能力だが、見る者が見れば、空気を読めない奴ということになろう。

 クローディアと王太子が座っている斜め後ろにセオドアは座っている。そこから見ても王太子の嫌そうオーラが体に伝わる。あまりクローディアとは話をしたくなさそうだ。


(そりゃそうだろうな。クローディアは親が決めた許嫁で結婚するかもしれない相手。それなのに自分は他の女に夢中。会わせる顔がないだろうなあ)


 セオドアはエルトリンゲン王太子の心中が分からなくもない。義務と責任に対して、自分の本心が対立するのだ。もやもやしているだろう。

 やがて講義が始まった。基礎とはいってもレベルが高いボニファティウス王立大学の講義。物体の速さに関するテーマであったが、机上の計算だけではなく実際の場面で物理学の応用をする授業だ。


「対岸に置かれた砲台から、2kmの距離になる敵陣に弾を着弾するには、どの角度、方向に撃てばよいか。条件は東南の風10m。気温は18度、湿度30%……砲台に地盤は砂地」


 まるで士官学校の砲術科の授業のような内容だ。ハルゼー教授は王立士官学校の客員教授も勤めているそうなので、内容が似通ってくるのだろう。

 教授は様々な条件を付けて学生に計算をさせる。物理と数学の知識を使って計算をするのだが、様々な条件を加味するとかなり難しい。

 2年生はまだ問題に取り組む意欲はあるが、1年の学生はこの難問にお手上げな感じで、与えられた時間を無為に過ごしている者が多かった。

 エルトリンゲン王太子は時間内に結論を出せたようで、残り10分で検算をして答えを確かめていた。

 セオドアは適当に計算をして答えを出していたが、それを答える意思はなかった。もし指名されても大半の学生と同じように分かりませんと答えるつもりであった。

 クローディアは王太子に遅れたものの計算を終えたようで、これも検算をして答えを確かめていた。


「殿下、殿下は答えを出せましたか?」

 クローディアは計算を終えて、そう王太子に聞いた。クローディアとしては、何とかコミュニケーションを取ろうと思ったようだ。

「ああ。こんな問題、余には簡単だ。そもそも戦場で砲兵隊を率いる軍ならば、このような計算は簡単だろう」


 そうエルトリンゲンは答えた。嫌な女に答えたのは上手く答えを導き出せた満足感からだろう。確かに砲兵隊の将校なら、現場で即座に計算して導き出すだろう。後ろで聞いていたセオドアは頷いたが、これは大学の講義だ。


(恐らく、教授の性格から類推すると学生に教えたいことがあるからこのような課題を出したのであろう……。単純な計算では正解じゃない)


 そんなことを思っている。クローディアもそう感じているようだ。王太子の答えに少し不満げな表情をした。


「そうですか。なかなか難しい問題と我は思います。ただ、単に計算するだけではダメなような気がします」

「なんだと?」


 エルトリンゲン王太子はうんざりとした顔になった。明らかに不機嫌になった顔だ。セオドアはクローディアとエルトリンゲン王太子の間に深い溝があることを感じる。


「殿下は単純に計算して着弾地点を計算していませんか?」

「単純ではない。女の分際で余に意見するな」

「しかし殿下。これは実際の戦場でも役立つことです」

「知ったような口を使うな。戦場に出たこともない女が」


 エルトリンゲン王太子は初陣を15歳で迎え、3度ほど戦場で体験をしている。主に騎兵隊に所属したようだが、砲兵隊の経験もあるのだ。戦場も知らないクローディアが意見するのは生意気だと思うのも仕方がない。


「戦場では試射を繰り返し、正確な着弾点を割り出すことも可能でしょう。今は机上で可能性を考慮して計算することが求められています」


「ふん。お前のそういうところが嫌いだ。机上計算と実戦は違う」


 王太子はそう言ってクローディアを突き放す。これには聞いていたセオドアも同じ意見ではあるが、机上計算を疎かにするのも違うと思う。


(確かな計算ならば正確に狙い撃てるのも事実……)


王太子に冷たく否定されてもクローディアは諦めない。そっと覗いて王太子の解答を見た。


「殿下、その答えは間違っております」

「教授にもなったつもりか?」

「いえ、そんなつもりは……しかし、それは答えないでください」

「お前はバカか?」


 やがて時間が来て教授が学生に解答するように求めた。大半の者は計算が終わってないか、最初から諦めたかである。

 答えが出たのはエルトリンゲン王太子とクローディアを含めた数人だ。セオドアも解答したが答える気はない。

 教室内は一瞬時が止まったようになった。答えは出ているが率先して答えるかは別の問題だ。ハルゼー教授が厳しい人だとみんな知っているので、誰かが先陣をきることを願っていた。


「どうした、誰も答えられないのか?」


 教授の再度の指示にエルトリンゲン王太子が自慢げに挙手をした。クローディアが止めたが従う気がない。


「殿下……」

「お前はそこで余の優秀さを見ておれ」


 そう言い残すと黒板に計算式を書き始める。やがて黒板いっぱいに書いた式と答えに学生たちは感嘆の声を上げ始めた。


「さすが王太子殿下」

「頭脳明晰」

「次期国王陛下だ」


 答えを書いて自慢げに振り返った王太子は軽く手を挙げた。多くの学生が拍手をする。しかしハルゼー教授は渋い顔をしている。セオドアは教授の心情が理解できた。


(王太子はハルゼー教授の意図を理解していない……)


 セオドアは王太子の書いた解答にためいきをついた。確かにここまで計算して答えを出せたことは素晴らしい。ハルゼー教授の授業でなければ十分である。しかし、その解答は土台に過ぎない。勝負はここからである。

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