不見の楽仙
四號伊織
一
背に琵琶と琴、腰に二本の笛。楽が人の形をなしたような男は、呆然と三階建ての高楼を見上げていた。
まだ夕刻に入ったばかりだが、眼前の店だけでなく、立ち並ぶどの店からも同じように客を迎えたにぎわいの声が聞こえてくる。
男――劉條も二十代の男だ。妓楼に来たことがないわけではないが、ここは長安は平康坊の北里南曲――大唐の、つまりは広大なこの国きっての歓楽街で上位とされる大店。一晩いるだけでいくらになるのかまるで見当もつかない。
見上げた先の藍往楼という看板も仰々しく、きっと名のある人物の筆によるものであろう。大家の筆に負けない額がかかった門のむこうからは、かすかに華やかな音が聞こえ、かいだことのない甘い香りがただよってくる。
――行くか。
覚悟を決め唾を飲みこみ、劉條は中へと入ると、近くの女を呼びとめた。
「すまない、友人と約束をしているんだが」
粉香のにおいが固まったような三十路の女が、じろりと劉條を見た。それこそ頭の上から足元まで、きっちりと値踏みするように。
「劉成斎さまですね」
女がにこやかな笑みを作る。
「よく私だとわかったな」
「魏三郎さまからお聞きしております。二十代半ばぽい、中肉中背で丸顔の、楽器をやたら携えた者がいたら、と」
「そうか」
この女の態度からして、友人の魏遼はここの良い客であるらしい。自分と違って仕官もしていない同門がどうやってここに通う金を作っているのは、考えないほうがいいだろう。
女に案内されるまま、劉條は三階まであがった。階段の手すりの豪華さにつかむのをためらいつつ慎重に。
「魏三郎さま、御友人がお見えです」
女が足を止めたのは階段からそう遠くない部屋だった。おそらくは表の通りに面した、そこそこ――この店にそういうものがあるとして、だが――以上の格の部屋と推測できる。
「通してくれ」
横の女を見れば、優雅に中へとうながされる。中から聞こえてきた声もまぎれもない友のものなのだが――それでもまだなんとなく気後れした理由は、劉條自身よくわからない。
ままよと扉を開ければ、妓楼らしい実に派手な色が目にとびこんできた。紅、緋、赤、朱――。
鮮やかであでやかで豪奢な色彩の調度と、それを品よく隠す薄絹。そのむこうの牀(寝台)に二人の男女がいる。
女は西方の胡人の血をひいているのか、髪も目も色が薄い。年はせいぜい十かそこらというところだろう。そんな女のひざを枕に、安い綿の服を着た男が寝転んでいる。
「……よう、成斎」
男は少し気怠そうな声でこちらの字を呼び、片手を上げた。その手のひらに青い痣がある。
「流卿、人の趣味は様々といえ、な……」
劉條がずかずかと近づいていけば、男は面倒そうに起きあがる。
不思議な印象の男だ。秀麗というほどではないが、顔立ちが劣るわけでもない。劉條よりは細く見えるが、どちらかといえばぎりぎり中肉中背からはずれるかというぐらいだろう。
この男は魏遼。字を流卿。洛陽生まれの同門という昔馴染みである。
――泉下の楽を無理やり人にすればこうなるだろうか。
どの場にいてもちぐはぐなような、そんな男だ。悪い男ではないのだが。
「こんな年の者を呼ぶのはどうかと思うぞ」
劉條の言葉にさっと顔色を変えたのは友人ではなくそのそばの娘のほうだった。
「あの、違うのです!」
「――違う?」
当の魏遼は起きあがってから動かず、黙って様子を見守っている。
「わたしが、今度初めてお客をとることになって、その、三郎さまで慣れておけと……」
「ここの主に頼まれたら私も断れん」
「……そういうものなのか……?」
妓楼には妓楼のならわしがあろうというのはわかる。だがこの男はそれほどよい客だろうか。そのあたりが劉條にはわからない。
劉條は魏遼のむかいの椅子に座り、琵琶と琴をおろす。目の前の卓にはとうに冷めた茶がある。酒を飲まない魏遼の注文だろう。
「だいたい、『相談がある』と連絡すればこんなとこまで呼びつけて」
恨みがましい声をかければ、ようやく魏遼が牀からおりた。
「こちらの家だと、話が長引いたときに戻れんだろうが」
長安では夜間の移動――坊という区画を出ることを禁じられている。魏遼の宅は己の住む坊とは違う崇仁坊。日が落ちればあばら家に近い魏遼のもとに泊まるか、崇仁坊の中で宿を探すしかない。
「ここなら泊まっても差し支えないし、お前の住む太平坊にまだ近い。小雀、こいつの分の酒を頼めるか」
「はい」
「――待て」
歩きだしかけた少女を手で制してから、劉條は同門の顔をじっと見る。
「……一杯いくらだ」
「考えないほうが美味いぞ」
上げた手をぐっとひっこめさせられる。そのまま魏遼が少女に目配せすると、小雀と呼ばれた少女はためらいつつも部屋を出ていった。
魏遼がやれやれと言いたげにむかいの椅子に腰かける。
「先に言っておくが、借財の類はないぞ、これでもな」
「あの家でそうなるのがまずわからん。流卿もたいがい謎が多い男だな」
「謎なんてないさ。言ってないだけだ」
「よそから見ればそれが謎に見えるんだ」
魏遼は洛陽で名高い岩氏のもとで学び、一時長安に来た際に自分たちと同じ袁方門下となった。洛陽に戻った後は道観――道教寺院に身を寄せていたという。
世捨て人というほど世俗から離れてはいないが、宮仕えをする気はさらさらないらしく、だいたいは自宅か平康坊の妓楼にいる。そういう男だ。
「そう言うお前こそ、人から見れば不思議に見えるぞ。文官としての出世を蹴って楽に走るなど、普通ない」
魏遼の言うとおり、劉條ももともとは文官としての道を歩んでいた。おそらくはそれなり以上に順調に。
けれどもある日、師の知人という老人の笛を聞き、劉條は栄達の道をあきらめたのである。というか自ら勢いよく投げ捨てた。
それくらいかの老人の笛は素晴らしく――もともと舞踊や楽は好きではあったが――これを一生の支えにと決意せしめるほどのものだった。その場で彼に弟子入りするくらいなら誰もさほど驚きはしなかっただろう。
その後劉條は勤め先を変えた。
乱心したかという親族を説得し、納得しない者とは縁を切り、尚書省より太常寺に移って三年。劉條は今の暮らしに満足している。好きなことを生業とできるのは実に素晴らしいことだ。
「それで? 話があるんだろう? 私に」
「……ああ」
うなずいたところで、小雀が酒を持って入ってきた。鳥頭を模した陶器の酒瓶は実に立派だ。これだけで中の酒の値段が跳ね上がるに違いない。
慣れた手つきで酒を注ぎ、杯を劉條の前に置くと、小雀は卓から一歩さがった。
「すまん、小雀。二人だけで話をしたい」
魏遼の声に、かしこまりました、と小雀は一礼し部屋を出た。
しばし劉條は酒杯を見つめてから、よい香りを放つ酒を手に取り、ゆっくりと口にした。
美味い。強いが、よい酒だ。
「十日ほど前、私が西市に出かけたときだ」
言葉を紡げば口から芳香が発するのがわかる。薄まり消えるのが惜しくなる香りだ。
劉條の前で魏遼は冷えた茶を口にする。この男は昔からそうで、人前で酒を飲むということがない。道観にいたからというのではなく、体が受けつけないのだという。
そんな魏遼は、妙なこと不思議なことをうまくおさめるのに長けていた。そういった相談を受けて日々をすごしているというが。
「そこで妙な夫婦に会った。さっきの小雀のような、胡氏の血をひいていそうな夫婦だよ」
※
長安には中央の大路を中心として、都の東西にそれぞれ一つずつ市がある。
その片方である西市は西方からの交易路の終着点ともいえる場で、唐の外から来る文物が多く扱われており、行き交う人も漢人ではない者が目立つ。
劉條が東市より西市を好むのは、異国の旋律を聞くためだ。文物や希少な品を扱う者が楽器を扱えるとは限らないが、どんな国にもどんな民にもそれぞれの歌がある。果物や楽器を買い、衣服を買うついでに、その商人に歌を一つ聞かせてもらう。それが劉條の常だった。
とある休日、一通り市をのぞいてまわった劉條が肴を探しはじめたころである。まだ日没まで間はあるが、家に戻るならあまりゆっくりもしていられないという時刻だ。
そのとき劉條は、恐ろしく美しい音を聞いた。
「恐ろしい、か、美しいかのどちらかならわかるが」
魏遼は首をかしげつつ喉のあたりを指でかいている。そこをかくのはこの男の昔からの癖だった。
「どんな音にも人の情がのるものだけど――その音には何ものっていなかった。それなのに、とてもとても美しかった。混じり気のない、音のための音だった」
どれだけ近しく聡明な相手であろうと、あのときの自分の内を、他人に説明するのはほぼ不可能だ。
こうして口にすればよくわかる。歓喜と恐怖と憧憬と羨望に、その他いろんなものがのりすぎて。
「いったいどうしたらこんな音が出せるのか。もっとこの音を聞きたい。――わかったのはそれだけだ。とにかく音のする方へ走って、そこであの二人に会った」
走った先は、よくここから雑踏を越えて音が届いたというほどの市の端だった。
「二人は夫婦に見えた。敷く物すら持たず、二人は地面に座っていて、胡人に見えたがそれほど鼻は高くなかったようにも思う。年は……六十は超えていただろうな。二人とも皺だらけで服もぼろぼろだった。彼らは私を見てにこりと笑うと、私の知らない曲を弾いた」
それもまた美しい曲だった。この国のものではなく、どこの国のものかもわからないものだったが、劉條の耳は、心は、それを美しいものとして受け取った。
「二曲弾いて、媼が琵琶をさしだしてきた。『これを貴方に』と言いながら。いくら払えばいいのかと訊いたが、代金などいらないという」
「それでそのまま帰ったのか」
「ああ。それに値するだけの手持ちもなかったし、市で夜は明かせないからな」
名残惜しさよりも申し訳なさが勝る心地で、劉條は市を後にした。
自宅に戻った劉條が真っ先にしたのは琵琶を弾くことである。ついさっき聞いたばかりのあの曲を。
「二人の曲を何度も弾いた。彼らの曲はそれほど難しくはない。けれどもやはりあの純な音にはならないんだ。記憶の通りの曲は弾ける。でも記憶にあるあの音には絶対にならない。口惜しさより悲しさが先にたったよ。そこで」
同じ琵琶でも、やはり自分ではだめなのか――そう手を止め天井を見上げたときだった。
「不意に手と足にかかっていた重みが消えた。媼にもらって、今の今まで弾いていた琵琶がなくなった。どういうことかと目をこらすと、足の上にこれが」
劉條は懐中から小さな包みを取りだし、中身を手のひらにのせた。
親指ほどもないそれを魏遼に手渡す。
「……確かに琵琶だな」
魏遼がつまんでいるのは陶製の琵琶だ。そうとわかるていどの形をして色もついているが、細部まで手をかけたような品ではない。どちらかというと素朴な焼き物だ。
「私は何かに騙されたのか?」
「悪意も嫌味もないが」
それならそうとわかる、と同門は言い、そっと小さな琵琶を返してきた。
「わかるのか、そういうのが」
「その人間にとって害があるかぐらいで、細かいことはわからんが」
「それだけわかるだけでもすごいぞ。……とはいえ、何もない、というとそれはそれで困るんだが」
その翌日、宮中から退出した劉條はその足で西市へとむかった。いきなり陶器に転じたといえ、やはり琵琶の代金を払わねばと。
だが昨日会った場所には夫婦はおらず、近隣にもそれらしい人物はいなかった。
「おかしなことに、そのあたりで商売をしている人々に尋ねても、誰一人そんな夫婦は見たことがないというんだ。そんな音も聞いたことがないと」
「離れたお前には届いたのに、か?」
劉條はうなずく。
「尋ねた中には何人か見知った者もいるし、嘘をついているということはないはずなんだ。そもそもそんなことを言う理由もない。――どうすればいいと思う?」
「どうすれば、とは」
「私は、彼らに琵琶の代金を払っていないだろう。それに他にももらいっぱなしだ」
そこまで言ってから、劉條は杯の中身を一気に飲んだ。口から喉へ。喉から全身に熱が広がっていく。音が四方に広がるように。
「その老夫婦が何を望んでいたか、だが」
酒を飲むように茶を飲み、魏遼は言う。
「琵琶を弾く前から、二人の様子はどうだった」
「笑顔だった」
彼らの顔で劉條が覚えているのは笑顔だけだ。屈託のない、満面の笑み。
「私が二人の前に立ったときも、あの曲を弾いていたときも、琵琶を渡してきたときも、別れるときも」
「嫌な感じの笑顔ではなかった?」
「それはない」
劉條は断言する。
「見ていて和むというか、心が落ち着くというか、二人ともそういう顔だった」
「――限界だったんだろうな」
ぽつりとつぶやいて、魏遼は自分の杯に茶を注ぐ。
「限界?」
「ぎりぎりだったんだ。自分たちの音、自分たちの曲を届けるのも」
茶を飲む様子からして、この同門は何か見えたらしい。
「それで、私はどうすればいい」
「夫婦としては、お前に音が届いて曲を聞かせることができた。それだけで代金以上のものを受け取ったようなものだ。姿を隠したのも悪気があってのことじゃない。お前がどうしようとあちらさんは満足しているはずだが――」
魏遼の目が劉條の横、椅子に立てかけた琵琶にむく。
「せっかくだ。その曲を聞かせてもらえるか」
「あの音にはならんぞ」
「お前の音なら充分だ」
「わかった」
劉條は袋から琵琶を取りだし、弦の調子を確かめる。どの弦も望み通りの具合になってから、劉條は記憶に焼きついたあの曲を弾きだした。
弾き手としては難しい技を求められるものではない。同じような旋律がくるくると回るように繰り返されていくさまは、空を舞う鳥のようである。どの地域の曲でもないのにどこか懐かしく、もう戻らない幼い頃の空を見ているような涼やかさがあった。
寂寥というのが近いが、心に長く留まり錘となるようものではない。こういうこともあったなと思い出させはするが、よきものを見たと満足し、次に進めるような爽やかさがある。
微妙に節や高さを変え、旋律が遡ること十二巡。
最後の音が消える。撥を握る手を琵琶から離すと、後ろからごとりと大きな音がした。
「――申し訳ありません!」
振り返れば小雀が入口そばでうずくまっている。こちらを見上げる目が少し潤んでいるのは涙のせいか。
「控えよと言われておりましたのに、どうしても近くを聞きたくて――」
「私は別にかまわないが――」
むかいの魏遼を見れば、何を思いついたのやら、妙に楽しげな顔だ。こういう顔をしているということは、何かしらの企みがある。
「なあ、成斎」
「なんだ」
「その曲、自分の曲として秘するつもりか?」
「まさか。もともと私の曲でもない」
誰のものかといわれれば、これはあの老夫婦のものだろう。それくらい流卿もわかっているだろうに。
「なら夫婦に代金以上のものを渡してみないか?」
「なんだって?」
魏遼が茶を注ぎ、一口飲んでから「小雀」と少女を呼んだ。少女が魏遼の横で膝をつく。
「は、はい」
「今の曲、どう思う」
「知らない曲でしたけど、懐かしいような、心が軽くなるような、優しい曲でした」
「舞いたいか?」
「できるなら」
こちらをおいて話が進んでいるようだ。「流卿」と声をかければ同門は楽しそうに言う。
「小雀はこの年ながらいい舞い手でな。すまんがもう一度弾いてくれるか」
「それはいいが、つまりどういうことなんだ」
「……琵琶の代金はいらんと老夫婦は言ったんだろう?」
「ああ」
「なら音楽の担い手にとって、金より価値あるものを渡せばいい」
「だから」
「自分の曲が世に広まって、喜ばない作り手がいるか?」
魏遼が房の入口をさす。
同門が指さしたほうを見れば、壁に隠れるようにしながらもこちらをうかがっている男女がいる。数は六人ほど。妓女だけでなく、宴のためにこの楼に呼ばれていたらしい楽人たちもいた。
「このにぎやかさでお前の音に気づくような者たちだ。きちんと曲の要は引き継ぐさ。そしてここで奏でられれば」
ようやく友の意図を解し、劉條の頬がゆるむ。
「ここから平康坊中に広まって、長安中に、か――」
遊里は、中でもこの平康坊は市井でもっとも楽を求められる場だ。それも質の高いものを。
いちいち喧伝することなどなくとも、ここで奏でられる曲というだけで、曲の価値は高まり、人は聞きたがり弾きたがるようになるだろう。
「そういうことだ。悪くない話だろう?」
「そうだな、悪くない話だ」
広まったものがどれだけ残るかはわからない。
けれども作り手にとって――また音楽というその場で消える者にすべてを託すような者にとって――その曲が奏でられる数日、数年、あるいは数十年の時は、千金を積んでもなお足りぬ価値のあるものだ。
「小雀、舞えるか」
魏遼が問えば、少女ははにかみながらも嬉しそうに「はい!」と立ちあがる。その所作から劉條にも彼女の技量は察しがついた。仕事柄、舞人の動きを見ることは多い。
養母――この楼の主から鍛えられたであろう、まっすぐな姿勢。それを見てうなずけば、一瞬で小雀の顔が切り替わった。
少女のものから、舞い手のものに。先ほどよりも憂いを帯びているのは曲に合わせてのものだろう。
劉條は撥を握りなおしてかまえた。背後の者たちが息を飲むのがわかる。
琵琶の音に合わせ、幼さを残した四肢がゆっくりと動いた。
――ああ、幸せだな。
舞い手は楽に親しみ音をなぞり、節をたどり旋律をかたどっていく。誰にも聞かれることのなかった曲が、よき舞い手に求められ、応えられている。
人に求められる曲は幸せだ。
あの夫婦がこの場にいたら、きっと満面の笑みだったろう。いつも笑っている二人でも。
劉條が手をおろすと、入口から、先ほど見たときとは倍くらいの人数になった聞き手がどっと押し寄せてきた。
さながら小さな宴が始まったかのように歓喜の顔をした者たちが。
※
それからも劉條は西市にむかってはあの老夫婦の姿を追った。だが、相変わらず手がかりさえない。
そんな劉條が再び藍往楼を訪れたのは翌月のこと。
一月ほどのあいだにあの曲はすっかり巷間に広まった。〈旋羽〉と呼ばれるようになったあの曲は宴を飾るだけでなく、街路を歩く子供も口ずさむようになっている。
あの日のように琴を背負い笛を腰にさげ、劉條は門前に立つ。
――まったく、なんだあいつは。
自分を呼びだした同門に内心で悪態をつき中に入ると、「まあ」と明るい声が劉條を迎えた。
声の主は――見覚えのある女だった。前回ここに来たときに案内してくれた、そしてあの後で〈旋羽〉を教えた妓女だ。
「劉さまじゃありませんか。魏三郎さまでしたらすでにお見えですよ。御案内いたしますね」
あの日のように劉條は女の後をついていく。
歩を進めるあいだも、どこからか〈旋羽〉が聞こえてくる。奏者の気性が出たのか、大海を渡るかのような雄大なおおらかさのある〈旋羽〉だ。
女が前と同じ房の前で足を止める。するりとさがる妓女に代わり、劉條は声をかけてみた。
「入るぞ、流卿」
今度は女はおらず、同門は一人、奥で窓にもたれながら茶を片手に外を眺めていた。
こういう場所で宴はおろか女も酒もやらないのはどうかと思うが――人の趣味は千差万別というものだ。
「今日は誰も呼んでいないのか」
いぶかしみながら劉條は前と同じ椅子に座る。卓には見覚えある酒瓶と杯。こちらは劉條のためのものだろう。
「呼んだのはお前だけだ。今日もおごりだから気にせず飲め」
「布衣の流卿におごられるのもな……」
「なに、前回と今回に関しては、ちゃんと目算あってのことだ」
「目算?」
窓にもたれていた体をこちらにむけ、魏遼は言う。この男らしからぬほどにこやかに。
「いい曲を奏でる奴が来るから二人分まからないかと言ったら、前と今日とがただになった」
「――た」
琵琶を数度弾いただけだぞ、と言いかけて劉條は口を閉じた。
この楼は〈旋羽〉発祥の地として名をさらに上げ、この一月で客がさらに増えたという。二人が一泊する分を立て替えても余りある儲けが出ているはずだ。
「成斎の楽はそこらのものとは比べ物にならん。いくらかはまかるはずだと見込んだが、お前がまた面白い話を持ちこんできたからな。ここの〝阿母〟も笑いが止まらぬだろうよ」
「そんなに客が来たのか……」
劉條は自分で杯に酒を注ぐ。それを見てから魏遼はこちらにやってきた。
「私は馴染みだから融通がきいたが、今は二月待ち、〝小藍雀〟の舞を見るなら三月待ちだそうだ」
「小藍雀とはあの、小雀か?」
「ああ。いい舞い手だったろう?」
あの調子ならば借金もずっと早く返せるだろうと言いながら、魏遼が劉條のむかいに座る。
小雀の年で借財などする理由がない。借金を作ったのは親だろうが――それを見越してこの男は彼女に舞わせたのかもしれない。
前回同様に美味い酒を飲み、劉條は尋ねる。
「それで、今回は何の用だ」
この楼の下働きの娘が劉家に来て言うには、「明晩、藍往楼へ」だけで、それ以上詳しいことは知らないようで、何も言ってこなかった。
「件の夫婦が見つかった」
「――え!?」
身をのりだし立ちあがりかけた劉條の前に、布包みが置かれる。
「胡人のような老夫婦、では見つからんし誰も知らんのは当然だ。――手がかりはちゃんと成斎のもとにあったんだがな」
「手がかり?」
魏遼がそっと布を開いていく。
中には数多の陶器の破片。
何かの衝撃で割れたというよりは、寿命がきて崩れたような古いものだ。
「……これは?」
「西市の隅で見つけた」
最初に記憶とつながったのはその色だった。――胡人の血をひいているような薄い色。
瞳も髪も肌も、色は薄かった。もうその身に彩は残っていなかったのだ。
「十年やそこらではない。数十どころか数百年は前の代物だ。特に名工の手によるようなものでもない品だが、大事にされていたんだろう」
劉條は破片の一つを手にとる。ああ、琵琶を奏でる媼の衣はこんな色をしていなかったか。
「ずっと二体……いや二人は一緒だったが、〝ただある〟にはあまりに時は長い。いつしか二人は手持ちのものを使って時間を潰した。素人でも数十年あればそれなりの音は出せる。ましてやこの二人は数百年だ」
魏遼の言葉はすんなりと劉條の臓腑に落ちた。
器物が楽を奏でるなど、と笑うには――彼らの音はあまりに美しかったからだ。人でないものが出した音であればああもなろうと、頭以外のところが納得している。
劉條は欠片を布上に戻し、別の欠片をつまむ。この褪せた緑のような色も記憶にあった。
――老父の頭にあった巾の色だ。
「延々と研鑽を積んで数百年。二人は人ならば名人か楽聖というに足る身となったが――悲しいかな、ただ一つのものがなかった」
劉條にもわかった。誰より楽を愛するがゆえに。
あの二人の心情も、痛いほどによくわかる。きっと自分が彼らの立場なら、同じことをしていただろう。
「お互い以外の知音、だな」
こちらの声に魏遼がうなずいた。
知音。音の機微をくみとれる深き友。――すなわち優れた聞き手。
「同じ世にあるといえ、人と器物の怪ではそう相通じるものではない。そうと知っても二人は奏で続けた。どれくらいそうしていたかは私にもわからないが――それでもあの日、お前の耳に届いたんだ。その音が神の域に達していたからかもしれないし、老夫婦の最後の執念の賜物かもしれない」
劉條は色褪せた欠片を置く。
二人はずっと笑っていた。そうするしかできなかったのだろうが、あの時心の底から喜んでいたのは確かだった。数百年の果てに訪れた成就の喜びに。知音を得た喜びに。
「――ならあの琵琶は」
渡された琵琶には重みがあり、弾けば濁りなく、こちらの心を映したような音を出した。あの琵琶は。
「老夫婦のよき相棒といったところだったんだろう。――お前に曲を伝えて二人は満足したんだろうが、ただ一つ媼の琵琶だけはもう少し欲を出したんだ」
「器物に、欲?」
卓に肘をつき、魏遼は積み重なった破片を眺めている。かすかな苦笑いを浮かべながら。
「『一度、名人に奏でられてみたい』と」
は、と劉條の腹から声が出た。
「名人だなんて、あの二人に比べたら」
「それは琵琶に言ってやれ。ともあれ、琵琶も満足したんだろう。曲が確かに伝わり、自分が認めた者に弾きこなされた――それで元に戻ったというわけだ」
眼前の欠片は色が褪せるほどに古く、いつ朽ちてもおかしくないものだった。
劉條は一つの欠片に目をとめる。
割れてはいるが、これは媼の顔だ。目と鼻と口。割れてもなお笑みを作る顔。
「……私は……どうすればいい」
「別に何もする必要はないだろう。この欠片も満足した果ての抜け殻のようなものだ」
「だがそれではつりあいがとれん」
二人と一台は満足であったろう。だが彼らから受け取った側の劉條には、対価なく財を与えられたような居心地の悪さがある。
「なら弾いてみればどうだ?」
「弾く?」
「〈旋羽〉だ。〝師〟に成果を見せるのも弟子の誉というものだろう?」
「――そうだな」
楼のあちこちから〈旋羽〉は聞こえてくるけれど――最初に教わったのは自分だ。
「今日は琵琶を持ってきていないが、ここなら誰かに借り――」
れもするだろう、というはずだった口が、開いたまま固まった。
劉條は目を下にむける。自分の膝の上に加わった重みのほうへ。
重みの主は少し古ぼけた琵琶だ。
「流卿、これは」
「懐に入れていたものが、『使え』といって出てきたんだろう」
色も飾り気のない姿も、間違いなくあの時に媼から渡された琵琶だ。御丁寧に撥も揃っている。
「……早く弾けと言われているようだ」
「たぶん。というか間違いなくそうだからさっさと弾いてやれ」
喉をかき流卿は言う。
「なら、御礼の曲だ」
劉條は琵琶をかまえる。細かな調整の必要すらないほどに、琵琶は万全の状態で、弦に撥を当てれば嫋と歓喜にむせぶような音を出した。
※
後日、劉條は知人のつてから道観にむかい、割れた人形を供養した。ただ一つ、割れずに残った琵琶だけは手元に残して。
藍往楼はその後も繁盛し続けた。特に客が喜んだのは、とある客間から琵琶の音が聞こえてくる晩だという。
それはいつのこととも決まってもいない。月に一度のこともあれば数月おいてのこともある。奏でられる曲も様々だ。まぎれもなき名手であるのにどんな宴にも出ず、誰が弾いているのかもわからない。
それでもその琵琶の音は老若男女の心を打ち、宴の楽も閨の慰めもかまわず手を止めさせた。
あらゆる楽がその音の前に止む、藍往楼の〈不見の琵琶〉は、それから数十年にわたり人々の心に添った。
「その響きは神仙の域」と言われた奏者について、楼の主はついに明かすことはなかったが、かの楼の舞い手である小藍雀が顔をほころばせて言うには、「あれは音を出したくてたまらないという御老なんです」ということである。
不見の楽仙 四號伊織 @shigou_iori
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