悪意の芥箱
@smileman
笑顔
耳障りな目覚まし音で目が覚める。遮光カーテンの隙間から差し込む光が部屋に舞うホコリを照らしていた。朝日が眩しい。じめっとした布団からむっくりと起き上がった。
薄暗く寒い廊下を歩き、黄ばんでひび割れた洗面所で顔を洗う。手も顔も水の冷たさで真っ赤に染まった。
腹を掻きながらキッチンへ向かうと、汚れてベタついたテーブルの上に冷めた目玉焼きと焼色のついた食パンが用意されていた。母は一足先に仕事に行ったようだ。
二十年近く同じ朝食を一人で食べ続けていれば、味などわからなくなる。黙々と目玉焼きと食パンを口に詰め込み、何度も洗濯されてカサついたパーカーとチノパンに着替えた。
時計をちらりと確認し、合皮が剥げた古びたバッグをのっそりと持つと、ヘタったダウンジャケットを羽織る。玄関を出ると冷えた空気に鍵を持つ手が震えた。
錆びた階段を慎重に降りて駅に向かう。昨日も一ヶ月前も二年前も、何も変わらぬ朝だった。
駅までは歩いて十分ほどである。ホームで電車を待っていると、高級な身なりをした奴らが談笑している姿が視界に入った。
どうせ実家が金持ちで、高い金を出して塾に通わせてもらっていたのだろう。そんなのはいい大学に行けて当たり前で、いい会社に就職出来るのも当然だ。親ガチャの運が良かっただけ。ただそれだけの奴らだ。こいつら自身には何の価値もない。
それなのに、こいつらはまるで自分は特別な人間であるかのように振る舞い他人を見下している。
イライラがこみ上げ、無表情でネットを漁る。ああ、出てくる出てくる。こいつらのような勘違い人間たちのご自慢の一日のルーティーン動画、丁寧な暮らしアピール、友達とのバーベキュー写真、優雅な海外旅行記録、高級マンションのルームツアー、ブランド品購入紹介。自己顕示欲の塊モンスターがうじゃうじゃと虫のように無限に湧いてくる。
一つ一つ低評価を押し、コメントを書き込む。「これ見せて何がしたいの?自分大好きアピール?」「周りの人間に陰でうざいと思われてそう」「金持ち馬鹿親からは、こんな馬鹿しか生まれてこないのかぁ」「お前みたいなブサイク日本人に使われるブランド品がかわいそう。全然似合ってない」。
一斉に信者の擁護が湧く。しかしその返信を確認することはない。こいつら自身がアンチコメントを見て傷ついてくれされすればいい。承認欲求の塊モンスターは、どれだけ信者の擁護が湧いても一人アンチがいるだけで不幸のどん底に落ちるのだ。
優越感に浸りながら電車に乗り、職場に着く。制服に着替えて、工場のつまらないライン作業を黙々と行う。昼になるとババア共が子供の話やら旦那の話で盛り上がる。耳障りだ。ヘッドホンをするとこちらをちらりと見てくる。気持ち悪い。こんなブスやデブでも結婚しているのに、既婚者は一律勝ち組という風潮は間違いだ。ゴミ同士で結婚しているなら結局は負け組。実家ぐらしの独身を見下せる立場ではない。少子化対策に貢献してるアピールも間違いだ。こいつらみたいなゴミの間に生まれた子供は将来何の役にも立たない。
イライラとネットを漁ると、出てくる出てくる。幸せ家族アピール、子育て大変アピール、うちの子供面白いアピール。
「幸せアピールしないと幸せって実感出来ないんだ」「こんな親絶対嫌だ。まともな子供に育たなそう」「子供が今からこんな状態って将来犯罪者になるんじゃね」「こいつの子供他の子いじめてそう」。
コメントへの返信通知が来ても一切無視。信者に向けて書いているわけではない。こいつら自身がコメントを読んで傷付いて、身の程を知ればそれでいい。
ネット上には身の程知らずな勘違いバカが溢れている。
カメラ目線のキメ顔ぶりっ子ダンス動画。なんだこいつらキメえ。子どものお遊戯会ですら痛々しいのに、自ら自分を公開処刑する罰ゲームでもやってんのかよ。頭湧いてる。
あらゆるものを塗りたくってドヤ顔するメイク動画。うわぁ厚化粧キッツ。こんな出来栄えが可愛い?キレイ?頭湧いてんのか。教祖様にでもなったつもりかよ。ドヤ顔で解説してるけど、九割は珍獣を笑うために見に来てるって気づけよ。
低評価を押してコメントを書いているうちに、昼休みが終わる。いつの間にか口元が笑っていたらしく、ババア共がヒソヒソとこちらを見ながら話している。口が臭いから喋らないでほしい。ムカムカとしながら持ち場に戻って流れ作業を始める。頭の中で馬鹿みたいな奴らの動画を思い出した。今度はもっと傷つく言葉を書き込んでやらなきゃな。
定時になると、作業の手を止めて着替えてタイムカードを押す。残業代は出ないので、どんなに作業が途中でも一分たりともやるつもりはない。以前は怒られたが、それなら労働局に確認していいか、と脅すと何も言われなくなった。
帰り道にもネットをチェック。承認欲求モンスターの新しい投稿がわんさかある。はは、一生こいつらで遊べるわ。
低評価を押してコメントを書き込む。アンチやめろって言う奴らがチラホラ。何を言っている。そっちが遊んでくださいってネタを提供しているのに。承認欲求モンスターの投稿がある限りやめるつもりはない。
錆びついた階段を登って帰宅すると、テーブルの上にラップで包まれた冷めたカレーライスが置いてあった。無言で部屋に持っていってPCの電源を入れる。水っぽいカレーを黙々と口に運びながらSNSチェック。デブのダイエット動画が流れてくる。出た出た。成功したならまだしも、食べるのがやめられないだのリバウンドしただの、さすがデブだな。デブ同士で慰め合って「そのままでかわいい」とか寒気するわ。デブはデブって教えてやらないと。
「デブは甘え。病気で仕方なく太っているとかいうけど、そもそもデブだから病気になったんだろ。被害者ヅラやめろ」「デブってだけで不潔だから化粧しても無駄」「痩せる以外の努力しなくていいよ」
デブ信者の発狂返信が来る。もちろん無視だ。ああ、楽しい。
風呂に入るまで承認欲求モンスターで遊び続ける。殴っても殴っても湧いてくるから止められない。まさか自分が殴られるなんて思わずに無防備で全世界に姿を晒している。もはやサンドバッグだ。
高揚感を味わいながらコメントを打ち込んでいく。すると、いつものように返信が来た。どうせ信者の擁護コメントだろう。一瞥し無視しようとしたが「工場勤務」という言葉が目に入り気まぐれに読んでみた。
「このキ◯ガイアンチ、色んなところに湧いてるけどコメントする時間規則正しくて笑うwwwガチ底辺の工場勤務で時間キッチリ決められた流れ作業やってそうwww」
…………は?
工場勤務がガチ底辺??規則正しい仕事は笑える??は??何様??こいつはなんの仕事してんだよ??
何か言い返さないと気が済まないのに、手が怒りでぶるぶると震え、心臓が冷えてくる。
ネットは実社会とは違う。ネット上では皆平等だ。匿名で芸能人にも攻撃出来て、自分が常にマウントを取れる。楽しそうなやつ、充実しているやつにも、好きなだけ冷水を浴びせかけられる。他人を平気で攻撃できる自分はネット上では強者であり、畏怖の念を抱かれているはずだった。
それなのに、笑いものにされた。怒りで耳の近くで心臓の音が大きく鳴り始める。
「ちょっと、アンタの荷物、届いてるわよ」
母親が玄関から叫んでいる。カーッと怒りが更に沸き上がる。なんでこんな時に声をかけてくるんだ。うるさい、うるさい。
「ねえ、聞こえてる?どうするの?代わりに受け取る?」
うるさい、うるさい、こっちは今すぐにでも返信しないと、必死に言い訳を考えていると思われる。なにか、こいつが傷付いて言い返せなくなるような攻撃をしないと。
母親が廊下をミシミシと言わせながら歩いてくる。うざい、忙しいんだ、話しかけるな。トントンと扉がノックされる。
「ねえ、受け取ればいいの?」
「当たり前だろ!聞かなきゃ分かんねえのか!」
顔が真っ赤になって目の前が暗くなるほど叫ぶ。全てに怒りが沸いて手の震えが止まらない。母親はしばらく黙っていたが、いつもどおりの口調で答えた。
「だって、勝手に送りつけられたものなら困るじゃない。じゃあ受け取るわね」
母親が立ち去っていく。なんでいちいち聞くんだよ。馬鹿なのか?
こうしている間にも、先程の返信にコメントが付いていく。
「ホントで草。コイツいつも同じ時間帯に出現してるっぽい」「暇なの?低収入おじさんwww」「工場の流れ作業って、人としての尊厳失われそうだから絶対やりたくない」
いつもはただただ擁護に必死だった信者たちが、最初の返信に乗っかり始める。なんだこいつら。集団で一斉に。
学生時代に教室を仕切っていた一軍陽キャの姿が画面の向こうにチラつく。そいつらに目を付けられたら、クラスメイト全員のおもちゃだ。話し方や歩き方、持ち物や見た目をからかわれ、ただ本を読んでいるだけで笑われる日々。
地面が崩れ落ちるような感覚に陥る。匿名で殴り放題していた強者の自分が、あっという間に集団に殴り続けられる弱者に成り下がった。
胃がぎゅっと痛くなりながら、震える手で文字を打ち込んで行く。落ち着け、ここは現実ではない。ネット世界で自分は強者だ。必ずやり返す。
「規則正しい社会人を馬鹿にするとかニート?それとも主婦?社会に貢献してないゴミがイキるなよwww」
書き込んで送信する。やってやった。ぶるぶると震えながらペットボトルの蓋を開け、コーラを一口飲む。味がしない。心臓のバクバクが止まらない。もしこれでも言い返されたら。すると、さっそく同じ奴から返信が来た。
「こいつニートと主婦にしかマウントとれないんだwwwまじで底辺工場勤務だろwww」
胃がぎゅっと縮こまり冷や汗が出てくる。ただただ画面を見つめていると、どんどん返信がついていく。
「工場でしか働けない底辺がアンチしてたってこと?リアルが充実してないんだねぇ」
「親も工場勤務?ロクな家庭で育ってなさそうw」
「俺も工場勤務なんだが何でこんなに馬鹿にされるんだ。下請けがいないと経済回らんよ」
「主婦のほうが下っておかしくない?子供産んで少子化に貢献してるんだけど」
「ヒステリーおばさんの子供なんて成長しても日本経済に貢献できない無能だからwwwデカい面すんなwww」
自分の肩書を見下された者同士の叩き合いが始まった。カオスな大乱闘状態になり、もはやこちらを攻撃するコメントはなくなった。少しだけ肩の荷が降り、ほっと息をついた。
残りのコーラを一気飲みすると、部屋の扉を開けた。廊下に先ほど母親が受け取ったのであろう八十サイズくらいの段ボールが置いてある。両手で抱えて部屋に戻り、伝票を見る。送り主は『AQUI』で、品名は『芥箱(ごみばこ)』だ。頼んだ記憶がない。懸賞か何かで当選したのだろうか。
ガムテープ部分にカッターを入れ、段ボールを開ける。段ボールと同じくらいのサイズの黒い重厚な箱が入っていた。
よっぽど良いものが当選したのかもしれない。先ほどの嫌な気持ちも忘れ、期待いっぱいに箱の蓋を開けた。
中には満面の笑みを浮かべた青白い男性の顔が入っていた。
「わっ」
大声で叫びそうになった瞬間、ぬるんっと手が飛び出してきて鼻と口をぴったりと塞がれた。息が出来ない。その手は異様に冷たかった。
男は人とは思えない動きで、小さな段ボールからぬるりと現れた。素っ裸で百八十センチほどある。
「芥(ごみ)の交代だ」
男性はにんまりと笑った顔を崩さずにぬうっと顔を近づけてくる。頭髪のない頭、目玉が見えないほどに笑った目元、気味が悪いほど口角が上がった口元。おそらく日本人だと思われるのに、日本人どころか人間とは思えないような奇妙な雰囲気を漂わせている。恐怖で全身が壊れた機械のようにガタガタと震える。
「ん゛っ!んん゛っ!」
「苦しいか?顔が赤黒いな」
「う゛う゛!ぐっ!」
「芥箱の中はもっと苦しい」
そう言うと、男は手をすっと上げた。身体がぶらりと持ち上げられる。鼻と口を塞いでいる手が吸盤のように顔に貼り付いているのだ。やはりこの男は人間でない。必死で男の手に爪を立て、剥ぎ取ろうともがく。しかし、男はにんまりとした気味の悪い笑みを浮かべたまま、バタバタと藻掻き続ける足を黒い箱の中にヒョイッと入れた。
途端、箱の底に足の裏がべたりとくっつきびくともしなくなった。男は鼻と口をふさいでいる手をゆっくりと下げていった。ふと、まるで自分の身体が布になったかのような感覚に陥る。その瞬間、足首がバキンという音を立てて折れた。
「ん゛ぐっ!ひぎゃっ!」
気を失いそうな激痛。しかし男は手を休
めずゆっくりと下げていく。、箱の中にピッタリ入るように、膝下の関節でない部分の骨がバキンボキンと大きな音を立てながら折れた。
「ぐうう!ぎょっ!」
ふくらはぎと太ももがぴたりとくっつく。何が起きているのかわからない。涙があふれると同時に、箱のサイズに合わせて太ももの途中で骨がバキンと折れた。
「ひぎいぃっ!」
血飛沫を上げながら腹と膝がくっつく。酷い痛みの中で、箱のサイズになるには腹の途中で折り曲がらなければいけないと思った。その瞬間、背骨の途中で骨がバキンと折れ、顔が天井を向いた。
「ふぐううっ!」
鮮血が飛び散り、骨が内臓に突き刺さり、皮膚を突き破って出てくる。もういっそ殺して欲しいと願うほどの激痛の中、気を失うことも出来ずもう一度背骨がボキンと折れた。
「お゛っ!お゛!」
もう死んでもおかしくないのに死ねない。目玉に血の飛沫が入ってくる。どんどん箱の中に入れられていく。だめだ、首を、真逆に折らないと、箱に入らない。
恐怖と痛みで涙が止まらない。誰か、助けてくれ。
「ぎょっ!」
バキンと首が折れた。激痛と共に目の前がどんどん暗くなっていく。ああ、やっと死ねる。
身体が完全に箱に収まると、男は手を離した。箱の中で、恐怖と絶望に歪んだ顔が天井を向いている。
「さて、もう一仕事」
気味の悪い笑顔を浮かべていた男は、パカリと口を開けた。口の中は真っ暗闇だ。部屋中に飛び散った血が男の口の中に吸い込まれていく。
ごくん、と大きな音がした。すべて飲み込んだ男は、たちまち血の持ち主の姿にぬるんと変化した。
「あー、あー。うん、完璧」
声まで同じになっている。意識が途切れる寸前、自分のニンマリと笑った顔が近づいてきた。
「じゃあな」
真っ黒な蓋が閉まっていく。
人生が終わるのを感じる。芥箱とやらに無理やり詰め込まれて死ぬなんて。こんなクソみたいな世界で、何も良いことがなかった。
「俺が代わりに生きてやるよ。クソみたいな世界でも、芥箱よりはマシだ」
思考がリンクしているようだ。こいつが代わりに生きるなら、残酷に箱詰めされた人間がいることなど、誰も気付かないということだ。しかし、どうでもいい。やっと楽になれる。
蓋が完全に閉まった。その瞬間、消えかけていた意識も痛みも苦しみも再発する。
「ぐぎぃぃっ!?なぜ、死ねないッ!?こ、殺してくれ!!」
「オマエは次に芥箱が開くまでそのままだ。何年、いや何百年後になるのかは知らん」
絶望的な答えだ。こんな激痛がいつ終わるか知れないだなんて。
「母さん!母さん!助けてくれ!」
「無駄だ。オマエの血を飲んだ俺にしか聞こえない」
「じゃあ、お前が助けてくれ!頼む!」
男が楽しそうに笑った。
「まさか。二百年ぶりに、芥箱から出られたのに」
箱に何かがぺたりと貼られる。すると強い力で引っ張られているかのように箱が急降下し始めた。あまりの引力に、箱の中で目玉が飛び出し舌が引っこ抜かれる。叫びたいのに血が詰まって声が出ない。
男の意識が流れてくる。
「それはマントルに到達するまで止まらない。マントルに到着したら一瞬で皮膚も骨も溶かされて液体になる。しかし、それでも死ねない。熱さと痛みにもがき苦しみ続けるのだ」
地獄とはこのことだろう。今以上の終わらない苦痛が待ち受けている。男ののんびりとした口調が流れてくる。
「さて、人生をやり直そう。まともに生きる。芥箱に戻るのだけは勘弁だ」
ああ、男が羨ましい。薄暗くつまらない人生でもここよりマシだった。
なぜこうなったのか、何がいけなかったのかなど、考える必要はなかった。もう自分は悪くないと言い聞かせることも、反省する必要もない。既に最低最悪の地獄に身を投じているのだから。
でももし、またあの日常に戻れたら、目一杯楽しく誠実に生きるだろう。
そしてその時はきっと、あの男のようにニンマリとした笑顔を浮かべるだろう。
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