Ⅱ 楽章



 罅割れたビー玉のように日々を過ごすその破片一粒一欠片にその日常を詰め込んでいるというのならば、それらはたかがコンクリートの坂道に打ち付けてしまえば刹那、誰かを傷つけてしまう破片になりうるものだ。


 日々を溶かして形にしたその塊が立派な刃物になってしまうだなんてそんな苦悩に満ちた生命など、もはや手元に置いておくことさえ憚られる。それでもまだこの生命を惜しいだなんだと未練を練り上げることしか出来ない。なぜだろう。




 二十五を迎えた頃、僕は大学を出て放浪の末に小さな個人事務所を立ち上げた。新宿裏路地に構える廃ビルの一角。社員は自分しかおらず感情としては広々としているが、敷地面積はコピー機とソファひとつとベッドサイドテーブルが占領してしまえばもう余裕は感じられない程度の広さしかない。


窓から外を眺めるとガラスをかち割る如きネオンが広がっていて、歌舞伎町をとぼとぼと闊歩する女が代わる代わる見える。足元もおぼつかず体も右往左往、ふらついているのにそれでもどっしりとした様子で闊歩しているようにこそ見えるのは恐らく彼女たちが堂々たるさまで生きているからだろう。僕はライターの廉価な火さえあれば簡単に、たかが液体廃棄物に化かせる気がする。


 糸のほつれた臙脂色のソファは初めにこの場所を見つけた時すでに先約として鎮座していた代物だ。煙草の匂いが染み付き、経年により綿は萎び廃れ、色が程よく抜けているこのソファこそが今の僕の相棒である。


 壁は煤け、床にも埃が蓄積した、こんな狭ぜまとした空間にわざわざ出向いえまで僕に依頼する者たちはそれぞれ「本当に自殺だったのか教えて欲しい」と懇願する屈折した要望を手にして現れる。

 


 【至急】調査対象者に関して

 年齢:二十代

 性別:男

 遺書:無し

 金額:三百万(場合により増額可能)

 


 何処からこの電話番号を得たのか、スマホにいつの間にか見知らぬ人物からの依頼内容におけるSMSが貯まりゆく。何度電話番号を変えても結果的に事務所の場所が不変なのだから意味が無いのかもしれない。金額順に並べ、高額者から順に対応する。所謂その程度でしか格差の付けようがない。

 

 評判は秘やかではあるが着実に広まってゆき、たった数ヶ月程度で生活に困らない程度の金が保証された。幾ら手にしようが無限に欲する対価こそが金だが、こぼれ落ちれば価値なきたかが紙、塵だ。紙や金属やなんかの塊のためにこの世は身を売る人々が蔓延るものなのだと思うと馬鹿馬鹿しささえ覚える。


 山積みになった案件の依頼主が時間を惜しむのは、彼らがそれぞれに復讐の遂行を間もなくに控えているからだ。故、彼らは多額の金を用意し、依頼に替える。憎しみを糧にして。調査対象者が命途絶える瞬間に発した「タスケテ」も「オマエダッタノカ」も、その後どの道を辿ったか僕は知らない。


 こんなゴミのような人生のオプション――人が息絶える前の言葉を把握出来るなどといった愚かな事実は、子供の頃から僕をちっとも豊かになどしなかった。当然と言えばそうだが、クラスメイトも友達も、とりわけ僕の周りに在る人という人を遠ざけ、生活に腐敗した泥濘を与える。大人になろうがなんだろうが同じだ。反して、泥水で異物が硝化されてゆくように金は溜まった。



 「今週中に、なるべく早く頼むわ」

 「報酬乗せられるなら」

 「もう十分払ったやろ」

 「なら来月末だ。依頼はお前だけじゃない。」

 「お前ほんま最低やな。……で、幾らよ。」



 依頼主には蔑まれるに越したことない。


 たかが所詮、調査対象者の命が尽きる瞬間の一言二言が打ち出せる程度のことで、不確かな記憶の形ない売り物。仮にそれで対象者を殺めた犯人に繋がる言葉が分かったとしても僕が犯人に復讐してやることは出来ない。それなのに大金を出すのは恐らく確証のない証拠が欲しいからなのだと、彼らを見ていると思う。人間が欲しているのは事実なんかじゃなく、事実に繋がる糸口であり、手掛かりなのだと。依頼主はそれゆえか底なしに金を用意するが、するもせぬも胸が痛むという。課金すればするほどに。五億だろうが十億だろうがなんだろうが、価値を競りとする罪悪感なのだろうか。


 子供の頃あの鳥の死体が老衰ではなく、死ぬ直前までピィピィ鳴いていた事実を僕が呟いたあの瞬間、人間という人間が僕というおぞましき廃棄物を排除することを覚えたように、僕自身もゴミを金に硝化し、自分で処理する方法しか実演のしようが無かったのだ。


 生まれつき持ち合わせてしまった能力たる必要のないオプションを売り、金にすること。ここに依頼する者は皆、世間から最愛の者の死を自死だと判断されてしまい、それらの結果に肯けぬ者たちだ。納得できないまま、消化できぬまま生きて行くことの苦しみを噛み潰す方法が欲しいのだ。


 依頼者となる彼らは命を落とさざるを得なかった見知らぬ誰かにとっての最愛の相手であり、憎しみと怒りに支配され最大の凶器と化した者。恋人や親、友人。ストーキングしていた相手が他の者に傷つけられたという依頼者もいた。依頼者とは報酬でしか繋がらない関係。情など動かしてたまるか。


 唯一、僕の情が俄にも存在しているというのならば、もう二度と依頼者たちと顔を合わせぬことを願う程度だ。依頼者達の違和感や不信感は九十九パーセント的中しており、それらは自死とは考え難い案件だった。意思なく喪わざるを得なかった人生の塊。


 事実という事実が閉じ込められた一粒一粒の瀟洒な硝子玉を、依頼者は刃に変えることだけを糧にした。打ち付けて、割って、破片にして、自分で練り上げた鋭利な凶器だけが味方になる気がするのだと、いつか依頼者のひとりがベランダで桃の皮を剥きながら云っていた。


 此方からすればコピー機が吐き出したただ一枚の資料でしかないそれは、依頼者にとっては人間の人生を一粒にまとめたビー玉と同一なのだ。勧められた桃を煙草の煙を吐き出してからひとつ含むと、噎せ返るような果汁が口内を支配した。舌に絡みついた酸味は灰の奥を焼き尽くすような痛みに変える。

 


「復讐が何も生まないなんて、それも幻想」

「……とは」

「復讐したって何も変わらないとか、生まないとか、そんなの被害者だって望んでないとか、そういうことドラマのお決まりセリフでよく見るだろ?」

「……」

「でも変化なんか求めてないし、常套句なんか聞いてなくて、何か生まれるかどうかなんてどうでもいいし、望んでる望んでないの問題じゃない。ただ憎い。」


 

 依頼者が剥いた桃は滴る果汁がベランダの苔だらけのコンクリートへ染みを作りながら、つるんとした美しき弧を描いた。手早いが歪な八等分を作った依頼者に依頼結果を渡すと男は本の吸殻を灰皿へ擦り付けて、静かに受け取り目を通すと「そっか」とだけ呟き、自分で剥いた桃をひとつ口へ運んで脱ぎ散らかしていた革靴を履き直す。そして一粒、涙を床へポタリと落として去っていった。


 調査結果で打ち出された言葉は当時脅えた調査対象者から発された一言だった。調査結果が綴られた紙切れ一枚を握りしめる依頼者たちとは目を合わすこともなく今生の別れとなる。僕がかける声など見当たらず、向こうも求めてなどおらず、鉄製のドアが無駄に大きな金属音を立てて閉まるのを聞くだけ。皿に二つ残された桃をフォークに刺した。


 これまで正当性の高い確率で依頼を遂行しているにも関わらず、ただ一人の依頼者だけがたった一割に分類されていた。九十九パーセントの確率で人生の中でただ一人だった。

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