波紋
星雫々
Ⅰ 楽章
波紋【 はもん 】
水に石などを投げた時に広がる、波の輪のような模様。
転じて、動揺を与えるような影響。
「オマエダッタノカ」「タスケテ、タスケテ」
抽出された言葉をカタカタと無機質な画面に打ち込みながら、こんな狂気じみたキーワードを浮かび上がらせる自分自身に時折嫌気がさす。自らの能力に価値など自覚せず、かと言ってそれによって得た人の苦しみを分かち合えるほどの同情心も無い。
人間は元々冷えきった人工装置だ。どいつもこいつも。だが、そんな冷酷装置にも多少の温度が与えられてゆき、温度差で誰かと誰かの違いを見出そうとする。たかが誰しも、同一の個体であるのに。
人間が冷静になったら終わりなのだと理解したのは小学生の頃だった。校庭で鳥が死んでいたのだ。小さな雀だった。楕円型のせまぜまとした校庭、大人の力で強く衝突すれば安易に破壊できそうなフェンス。すっかり桜など溶け散って枝剥き出しの大木どもは、普段から生徒たちを見下すがごとく校庭を飲み込む。
ちゃちでパノラマじみた空間の片隅、雀は力なく転がっていた。その傍では紅い花が控えめに揺れ、人間が軽々しく形成したパノラマ世界には異質な光景で、僕はその個体に生命を感じた。
――生きていた。
廉価な空間のなかでこの雀だけに生命を感じた。新任でやってきた若い女の担任は恐る恐る個体に近寄り、声を震わせながら「老衰だわ」と僕達に説く。
保護者達からは役に立たないと蔑まれている新卒の女教師だ。肩あたりまでの髪の毛を後ろでひとつに結い、三つならんだ頬のホクロを化粧で隠している。数日に一度、涼やかな頭の学年主任が彼女に様々な容疑をでっちあげては説教し、涙を流す様子を見ては「次、気をつければいいから」の一言で終え、その一部始終を学年主任が盗撮して酒の肴にしているのを僕は知っている。そういった悪事を彼女がSNSでバラまいてはネタとして嘲笑っていることも。誰かが棄てざるを得なかった夏の気配が化けた鈍い風の匂い。生徒たちに蔓延る啜り声、中心に召された個体。水が音を共鳴させて震えるように小さな波は広がり続けた。
「さて、教室に戻りましょう」
先程まで声をふるわせていたとは思えない乾いた声で担任がそう呼びかけたことを皮切りに、波は穏やかになった。兎にも角にも早く授業を切り上げたい教師、放課後の塾やレッスンにしか興味の持てない生徒。
本当は誰にとっても、たった一羽の雀の生涯など興味の無い痴話話に過ぎないのだ。需要と供給の合致により穏やか極まりない海の如く普段の雑多かつ嫋やかな空気が戻りつつあったのだが、その空気に僕が一言の異物を投じたことにより、そこは凍てつくような脅威の空間へと推移した。
なんなら、最初に死んだ鳥を見つけたとおかっぱ頭の女子生徒が泣きながら担任を呼びに来たときの空気なんかよりも、よほど確実に強い冷却状態を作り出すことが出来た。どこかに冷凍されていた不協和音が解凍されただけのことなのだが。普段淡々と勉強に励み、無駄なことで口を開くことなど無い所謂利口な僕は、今日、今この瞬間、クラスメイトという湖にひとつの異物を投げかけた。
―― 「その鳥、殺されたんじゃないの」
ぼそりと呟いただけの僕の言葉は、その日に限ってクラスメイト全員に確実な伝達を遂げたようだった。僕への日常的な幽霊さながらの扱いとは雲泥の差である。国語の音読で絞り出した声に対しても手を挙げて聞こえないと嘲笑し、算数で黒板に答えを書いた時にも存在認識皆無だと僕への蔑んだ訴えを意気揚々と発する癖に、その瞬間に限ってはどうやら違うようだった。
道路を走る車の音やどこの教室からか聞こえてくるピアノの音、合唱の声などが静寂を妨げていたのだが、それらを無きものとして僕が放った一言は空気を凍らせた。解凍したはずの空気は急速冷凍され、僕はこの時、此処へ存在しているのだとやっと悟った。
「死ぬ直前まで鳴いてたみたいだし。いくら小さい鳥でも老衰なら黙ってるだろ」
己から発された言葉が空気を侵略していく。クラスメイトの体内を巡って、穢してゆく。自らの存在が皆に刻まれていたことに子供ながら優越感を得た瞬間だった。
あれは恍惚。ついに煩悩に侵された僕はそのまま言葉を淡々と続けた。冷えた視線が突き刺さるのは、他人の中に僕の存在が在るという確固たる証拠だ。気味悪く生暖かい汗が背中を伝う。僕がつめたい空気へと伝播し、やがてクラスメイトと担任は僕の周りを波紋のように囲み、ふんわりと離れていった。
広がりゆく波紋の中心に佇むのは僕と雀、そして数歩離れた先に一人の女子生徒。彼女だけは離れゆく波紋の模様として広がりゆくクラスメイトに反し、僕の正面で瞳を穿いた。広がりゆく波紋を切るようにして、彼女だけが此方へと足を進める。かくも揺蕩い、煌めく瞳に出逢ったのは初めてで、僕は不信感を視線として返した。
しかしこれは無意味極まりない行動のようで、僕の不信感を受け取ってか取らずか、この日から彼女は僕に付き纏うようになった。艶やかな黒髪の靡く女の子だった。煌めきというひと括りには、姉が瞼や爪の先に乗せるような華美なラメやグリッターなどといった光に反して、水分に満ちることで生まれるしなやかな光があるということは恐らく彼女に出会わなければ知ることは無かっただろう。
「ねえねえ。動物の死んじゃう前の発した鳴き声だけがわかるの?」
「……いや。人間も。」
「一言だけ?」
「……基本的には。その前の数言は微かに。」
「その能力って生まれた時から?」
「……物心ついた時にはもうこうだった」
「ニュース見るの怖くない?」
「……別に。もう慣れた。」
――僕は命を喪った者の最期の言葉が分かる能力を持つ。
幼い頃、事件を取り上げていたニュースを見た時画面から聞こえた苦し紛れの悲鳴で自らの能力に気が付いた。嘘だと思ったし、何度も瞳を瞬かせて、イヤホンを付けて、脳内を空っぽにして考えた。だが、それでも視覚から入ってきたニュース番組の事故現場やなにかから脳内へと呻き声や悲鳴が蔓延る。
他人の苦しみを受け取らなければならない運命を自覚したのである。家族には能力を知られた際に蔑まれ、以来、すでに小学生にして僕の存在は家庭内で無きものとして扱われている。机上に食事が置かれ、最低限の生活が保証されているだけマシなのかもしれないが。
女子生徒は飽きもせず日々僕に付き纏った。朝の挨拶、理科の実験中、小テストの採点中に至るまで、彼女は同じような質問を僕に向けて繰り返した。彼女は虐めを受けるような存在でも無かったが、クラスの中心人物として目立つ者でも無かった。
一人の女子生徒が僕のようなクラスの端切れの屑に声を掛ける姿は、他の生徒からすれば不気味に思えるようだった。ましてや、死んだ鳥の生前の様子など呟いた直後である。僕は今に限らずともクラスの輪からは常日頃外れていたが、雀の事件以降、更なる孤立を遂げた。僕へのクラスメイトからの粗雑な扱いは彼女にまで被害が及んだが、それでも彼女はお構い無しという様子で、毎日孤立した僕に声を掛け続けた。自分もクラスから省かれるという事実よりも僕のこの能力への方が興味を示しているようにも見えた。執拗な付きまといに初めこそ僕も無視をしていたが、やがて一言二言返事をすれば彼女は嬉々として様々な話題をこちらへ提供し続けた。数日経過したあたりからは一般的な雑談やなんかも交わすようになった。
「ねえ、この試薬混ぜたら燃えるかな」
「は、知らねえよやめとけよ」
「つまんないの。てか、このフラスコ濁ってるね」
「……そうか?」
「綺麗なものだけ見える世界がいいよ」
掃除当番の箒を吐き出しながら彼女はそのような事を言うので、僕は呆れて塵取で小さなゴミを集めて棄てた。この集塵物の中に僕の無駄削がれるべき感覚や何かも此処に一纏めにしてしまいたいと思った。小学生の幻想は全て、空気の読めない予鈴に在った。普通の感覚を持てない自分にもそれらには彼女らと同一の軽薄を備えている。
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