(7)

 さらにどれほどの時が流れたのか、もはや全く分からない。あくまでも体感の上でだが、一年や二年でないのは確かだ。


 十年や二十年でもない。


 千年、万年ですらないだろう――。


 それだけの異常な年月を費やすならば、百パーセント不可能と言われる事柄も、あるいは可能となる――便宜上、成功率がゼロパーセントと断言して差し支えない事案でも、例えば小数点第一万位にして初めてゼロではない数字が現れるならば、厳密にはそこに確固たる可能性があるのだ。


 目の前に、何ともあやふやな「染み」があった。


 天文学的な歳月を掛け、魔力で塵をかき集めて、無理矢理のように作り出した、不格好で朧気な、今にも崩れてしまいそうな、人為的な「染み」である。寄せ集めても殆ど霧消してしまう黒煙の残滓を根強く集め続け、ようやく〈黒点とすら言えない黒点〉としての役割を、微弱ながらも示すことに成功したが――これだけの年月を経て、ここまで不格好で曖昧なものしか出来なかった。確かに常識的な意味の範疇では、作り出すことが「不可能な」代物なのだ。新生故に〈因果の霊糸〉もまた一つもない。


「人生の究極の無駄遣いね――やり遂げるとは思わなかったわ。でもここまでする意味は本当にあったのかしら? 何万回も言ったけど」


 亜樹は今やこの延長された時空間でさえ、白髭白髪が伸び放題、蝦のように背の丸まり老いさらばえた、人間の形骸たる老肉の塊となっていた。しかしその額には、今だ赤紫色の〈ナラトースの神蝕の眼角〉が燦然と青白く輝いている。


 マイノグーラは軽く肩をすくめ、おもむろに必要な術式を組んで、何時ぞや振りかも分らぬ入門の準備を施した。が、中々上手く行かない。邪神をして悪戦苦闘せしめた末、漸く穴の辺縁が青白く輝いたが、今にも消え入りそうだ。


「驚くべき不安定さだけど……辛うじて通じた。崩壊しない内に入りましょう。早く」




 あまりにも曖昧な世界だった。


 まず、真なる暗黒がベースとしてある。あると言うか、これは単なる虚無だろう。


 そこにうっすらと、廃屋に古い蜘蛛の巣の塊が幾つもぶら下がるようにして、半透明で薄紫色を帯びた、極めて朧げな、襤褸切れめいた膜らしきものが、規則性なく粗密のムラを作って延々と、縦横無尽に広がっている。触ってもすり抜けるだけで、殆ど何の手応えもない。取り分け濃密な部分でのみ、僅かに感じたことのない類の、模糊とした抵抗を感じるが、特に破れる訳でもなく、無視して突き進める。上も下もない。この異界を構成するものは、ただ、それだけだ。


 しばらく進むと、遥か彼方に何か丸いものが見えてきた。


 辺りの景色にはまったく変化がない。が、丸いものだけが、異物として在った。


 近付くと山さながらに巨大であると知れたそれは、矢張り周囲の襤褸切れ状の世界構成物と同様に、半ば透明で輪郭も曖昧な代物だった。その体は不定形で、時折周囲の薄紫の構造体に付着して、のろのろと意味もなく這い進む。頂部からややずれた場所に長短二本の太い触腕を生やすのみの、いかにもどうでも良さそうな外観を呈する塊であった。「眼角」無き常人には虚無としか映らずともおかしくはあるまい。


 虚ろなるNNGGEPPPEPPEI――そんな言葉を、マイノグーラが呟いた。


「何故、今しがた『成った』ばかりの存在が然様なる名をもつと言うのだ。戯れが過ぎる」


「私は有りの儘を神知し、それを言葉に載せただけ。その名には確かに如何なる意味ももたない――少なくとも今は。あなたが無い筈のものを作ったために、無作為に声音が並び、そもそも存在しなかった筈の神の名として、突然その名が存在するようになった……それだけのこと。亜樹、あなたの言うようにこの曖昧な神も、こうして我々が入り込み、実在を観測した瞬間、未来過去永劫、『在る』ことに『成った』わ。〈旧支配者〉として」


「シュレーディンガーの猫とでも言いたいようだな。いや、シュレーディンガーの〈旧支配者〉か」


「亜樹の〈旧支配者〉じゃないの、どちらかと言うと」


 亜樹はその言を無視し、痛風に震える手を掲げ、黒ずんだ襤褸切れと化しているローブの内側で結印する。額の眼角の発光が強まった。


 その瞬間、虚ろに過ぎたるNNGGEPPPEPPEIは可能性の箱から完全に解き放たれたが、あまりにも白痴、無関心、緩慢にして、依然として虚と実を行き交う曖昧さゆえに、何が変わって感ぜられることもなかった。だが、その随意性のなさゆえに、今や神に通ずる術に長けた亜樹はこの神の本質と同化し、その特質を引き出す所作を知り、そしてそれを己の望む結果に繋げるよう、指向性を与えることが出来た。


 定かなる意思のなき、虚ろなる神は亜樹の望む儘、申し訳程度に付いている二本だけの不揃いの触腕を超次元的に延ばして、今にも崩れそうな単なる染みに過ぎない〈黒点〉の外まで達すると、虹色の泡に包まれた夥しい「世界」の中から、過たず一つのそれを探り出し、触腕を巻き付けるように包み込んで、再び朧なる〈黒点〉の中へと手繰り寄せた。


 本来邪神の指先一本が軽く振れただけで弾け消えてしまう筈の「世界」は……この余りにも朧気なる神の虚ろなる御手ゆえに、極めて安全に保護された。


 無限と夢幻の狭間にはびこるこれらの泡が不定期に弾け消えてしまう、いつ訪れるとも知れぬ〈消泡期〉――すなわちアザトースの覚醒という、逃れ難き運命からさえも隔離されるに至った、たった一つの「世界」は、虚ろなる神に抱かれたまま、不思議な光輝に包まれていった……。




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