(8)

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「亜樹、亜樹。来たわよ」


 良く通る声が午後の日溜りに反響する。


 何度目かの強めのノックのあとで、内側からぎぃ……と躊躇いがちに、扉が開かれた。


「そんなに激しく叩かなくても、聞こえてるよ」


「出て来るのが遅いのよ」


 外の日差しに何年か振りで当たったように眩し気に眼を瞬かせる亜樹は、大学に通っていた頃に比べて少しやつれたようだった。髪の毛も随分とぼさぼさで、少し目が充血しているようだ。髭は薄いので細面はそれほどむさ苦しくなってはいないが、よれた黒いTシャツとジーンズは、毎日着替えているものかどうか疑わしい。


「あら、良く来たわね麻衣乃ちゃん」


 奥から優しそうな笑顔を湛えて一人の老婆が現れた。


「久し振り、お婆ちゃん。はい、これ、父さんと母さんから差入れ」


 両手に抱えた派手な色の紙製の手提げ袋から、大量の缶詰や果物を取り出す。


「いつも悪いわねえ。あの子たちは元気でやってるの?」


「ええ、相変わらず海外暮らしであまり家に帰って来ないわ。たまにはこっちにも本人たちで行けって言ってるんだけど」


「仕方ないわ、忙しそうだから」


 終始柔和な笑顔を絶やさない老婆の背後から、白く長い髭を蓄えたこの家の主が現れた。


「おお、麻衣乃、来たか。ゆっくりしていってくれ」


「お爺ちゃん、あんまり亜樹を甘やかさないでよね。神話だか妖怪だか知らないけど変な本ばっかり読んでないで、いい加減戻って貰わないと、社会に出てから困るのよ」


 その光景は、宮浦家で毎年のように繰り返される風物詩のようなものだった。




         * * *




 どこか。どこでもない、どこか。


 大きな膜翼を拡げ、腕を組んで虚空に佇む黒き女の影。


 もはやその貌に、真鍮の眼鏡は掛けられていない。


「結局、あなたの願いは叶ったという訳ね……亜樹。まずはおめでとうと言うべきかしら」


 女のような姿だった影は、次第に煙のように、周囲の虚無に溶け込み始める。


「めでたしめでたし……なのかしらね。儚き定命のあなた達にとっては。でも……まあ、いいわ。〈黒点こくてん〉の……夥しき〈旧支配者〉のくびきをさえ逃れたかも知れないあなたの世界が、どのようになっていくか。私にさえ、分からないことだもの」


 でもね、亜樹、だからと言って、忘れてはいけないわよ。


 貴方の世界を形作る虹色のシャボン玉が、一体何で出来ているのかということを……


                               


                                   

(完)

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