(6)

 しばらくして、はっ、と亜樹は気付いた。

「一体……何が……!?」

 目の前には――混沌の顎と化して自分を咀嚼した筈のものの姿があった。

「ど、どういうことだっ……! なぜ、僕は……!」

「さすがに気付くか」

 マイノグーラは微妙に姉の面影の残る、眼鏡を掛けた例の悪魔的な姿に戻っている。

「……何度も失敗して、振出しに戻ってるだけよ。前回の失敗は無かったことになった。『本質』を過去のタイムラインに戻すことで、リセットを掛けたのよ……あなたの存在は既にして特殊だから、やっぱり改変前の記憶が除去し切れなくなってるみたいね――これでもう何度目だったかしら」

 平然と嘯く。

「気休めだけど、あなたの選択は決して悪くはないのよ――でも、やっぱりクトゥルーやハスターを選ぶよりはまし、っていう程度の問題でしかないから、いくら〈因果いんが霊糸れいし〉に乏しくても、運が悪ければ向うはあなたを平然と手に掛ける訳。何となく理解出来るでしょ」

「それじゃあやっぱり、これまで僕のやってきたことは無意味ということなのか……」

「だから、選択の仕方としては悪くないって言ってるでしょ。何度もやってれば、そのうち運良く素晴らしい何かを体得して生還出来るかもよ」

 マイノグーラの適当な励ましに、亜樹は安堵の表情を作れない。自分の目指すものが容易ではないということを再認識させられたというだけではなかった。マイノグーラの真意に気付いたのだ。この邪神は最初からこの「繰り返し」が目的だったのではないか。

「解っちゃったみたいね――霊力の沁みた血肉ごと頂く生命エネルギーも悪くないのよ」

 マイノグーラは悪びれもせず妖しく微笑んだ。その瞳には貪欲なる狂気が孕まれていた。

「――あなたへの助力の代償よ。安いもんでしょう」

 まさしく悪魔さながらだ。否、悪魔神か。何でもいい。

「まあ、任意の〈旧支配者〉のもとへと導いて、成否を見極め、継続の意思を聞き……その後でないと、ご馳走にあり付けないものだから。残念ながらこの一連の特殊な系で、私もその程度の制約を受けててね」

「騙していたということか」

「騙すも何もないわよ。この世界線はあくまであなたが望んだものなのだから。あなたがある種の特異点と言うべきものであればこそ、『たまたま』私もあなたの姉の転身たり得――こんなご馳走にもあり付けたというだけ。まさしく何の作為もない、運命よ。だからあなたの望むまま、あなたの目的が達成するまで、協力するわよ……今まで通り、ね」

 亜樹は何と返せば良いか分からず、彼女を睨んだまま黙り込んだ。

「まあ、方向性は良くても、あとは運次第だからね――初回は黒い渦に入り込む〈因果の霊糸〉が多過ぎたわ……言っても三本ばかりなんだけど。もう思い出しているのかしら、葛色の虚空世界ワボに漂うぶよぶよした神塊……ムハリゲ=プの表面にたくさん生えた蛭みたいな管に吸引されて、空間をも引き裂く剪断力で細かい真っ赤な千切りになって終わったこととか。〈永劫に黒き地平〉しかない薄明の世界に行ったことは? あの世界に唯一存在する神肉かむじしの石筍、イラネーのもつ数本足らずの貧相な触腕に絡め取られて、肉筍の表面に空いた幾つかの大きな穴に均等に千切られて放り込まれたのは? あの時なんか〈因果の霊糸〉は一本もなかったのに……」

 思い出したくもない諸々の悲惨な結末が、マイノグーラの言葉に引き寄せられるようにして、亜樹の脳裏に蘇ってくる。反面、自らの惨状にも妙に冷めた態度であるのは、やはり『角』のもたらす説明し難い麻薬性・麻痺性の影響力のためなのか――。

「計画が詰むたびに――邪神に燃やされたり、食われたり、すり潰されたりする運命が見えるたびに、私はあなたに尋ねた。『まだ続けるか?』と。あなたはその都度、続ける旨を意思表示をした。だからそのたびに私はあなたを食べて、それで得た力の一端で、未来が未確定である過去の、ある時点まで戻してあげた」

 その「時点」というのは狡猾にも、再び亜樹が同じことを繰り返すことになるであろう時点だった。

「やめてもいいわけよ。そこで全ては終わる――あなたは邪神のいずれかに惨たらしく食われるか何かして終わるだろうけど、世界はそんなことお構い無しに続いていくだけ」

 諦める気がないのを分かっていての言い草だった。

(このままでは下手をすれば、マイノグーラの言うように見ず知らずの邪神どもに恐ろしい目に遭わされ続けて、なおかつこいつにも食われ続ける……最悪という言葉では到底いい表されないような、邪神の世界に閉じた輪廻転生を繰り返す羽目にもなり得る……それはつまり、これまで必死に排除しようと画策してきた邪神との因果……どんな呪いよりも恐ろしい呪いとも言える因果に、逆にどっぷりと嵌り込んでいることになるではないか)

 あるいはそれは、マイノグーラの呪いと言っても良かったかも知れない。畢竟、最も恐るべき元凶は、常に亜樹と共にいたのだ。

(そんな皮肉な結末は、絶対に避けねばならない……)亜樹は時の歪んだ空間で、これまで以上の思案思索に耽った。


                 * * *


 方々探し回っても、なかなか〈因果の霊糸〉に乏しい〈黒点〉は見つからない。件の黒き渦口そのものは星の数ほどあるのだが、亜樹の目的に見合った〈黒点〉など、そもそも非常な低確率でしか存在し得ないのだ。しかもそれを見付けられたとしても、今までと同様に、虚しい結果が待っている可能性が大いにある。

 そんな落ち込んだ心境で、無数の世界を構成する玉虫色の泡と、宙に浮かぶ黒死の如き穴、そしてそれら二要素を明滅しながら連結する形而上の菌糸を眺めた。〈黒点〉は位置を換えこそしないが、どれもゆっくりと渦巻いており、渦と渦のあわいには、時折渦に取り込まれそこなった黒き塵煙の、うっすらとした不均一な淀みが汚らしく浮き出てきていた。

 それは、何気ない質問に過ぎなかった。

「あの黒い煙の淀みは、あの後どうなるんだ」

 マイノグーラは亜樹の指す方を向く。

「どうなるも何も、周りの渦に取り込まれるか、勝手に散り散りに霧散して消えるかでしょ。地球の雲と同じよ」

「塵が集まって惑星が出来るように、そのうち自分で凝集していって新たな〈黒点〉を形成したりはしないのか」

「〈旧支配者〉が新生すれば、それに照応した〈黒点〉が新たに凝って顕れることはあり得るけれど。新生無垢の〈黒点〉狙いなら、恐らく当てにするだけ無意味よ。空間的にも時間的にも、そんなものに出くわす確率は限りなくゼロに近い」

 亜樹は押し黙ったが、思案は今だ続いていた。半瞑想状態に、意図的に入り込む。何かが掴めそうだった。

 

                 * * *

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