(6)
しばらくして、はっ、と亜樹は気付いた。
「一体……何が……!?」
目の前には――混沌の顎と化して自分を咀嚼した筈のものの姿があった。
「ど、どういうことだっ……! なぜ、僕は……!」
「さすがに気付くか――」
マイノグーラは微妙に姉の面影の残る、眼鏡を掛けた元の悪魔的な姿に戻っていた。その口から諦めたような、気怠げでやや投げやりな調子の言葉が漏れる。
「……何度も失敗して、振出しに戻ってるだけよ。前回の失敗は無かったことになった。亜樹の『本質』を過去のタイムラインに戻すことで、リセットを掛けたのよ……あなたの存在は既にして特殊だから、やっぱり改変前の記憶が除去し切れなくなってるみたいね――これでもう何度目だったかしら」
平然と嘯く。
「気休めだけど、あなたの選択は決して悪くはないのよ――でも、やっぱりクトゥルーやハスターを選ぶよりはまし、っていう程度の問題でしかないから、いくら〈
「それじゃあやっぱり、これまで僕のやってきたことは無意味ということなのか……」
「だから、選択の仕方としては悪くないって言ってるじゃない。何度もやってれば、そのうち運良く素晴らしい何かを体得して生還出来るかもよ」
マイノグーラの適当な励ましに、亜樹は安堵の表情を作れない。自分の目指すものが容易ではないということを再認識させられたというだけではなかった。マイノグーラの真意に気付いたのだ。この邪神は最初からこの「繰り返し」が目的だったのではないか……。なぜなら、さきの彼女が最後に示した行為は――
亜樹の疑念を目ざとく見抜いたマイノグーラが、冷笑的な視線を投げかける。
「誤解しないでよ。永劫の探求を望んでいるのは常にあなただし、それを成すためには、あなたの血肉が少しだけ必要なの……前回は思わずほとんど食べちゃったけど……いつもなら、指一本とか、腕一本とか、脚一本とか、脇腹だけとか、頭だけとか……? ふふ、霊力の沁みた血肉ごと頂く生命エネルギーというのも悪くはない……」
マイノグーラは悪びれもせず舌舐めずりした。異様に赤い舌先が、黒い唇の間から妖しく覗く。
「……そう。悪くはないのだけど。でもね、特異点と未知なる〈旧支配者〉が新たに奏でる不協和音……あなたという存在が、数多の邪神に様々な酷たらしい方法で『処理』される時の、絶望と苦悶と混沌の不協和音は、それ以上に格別な……滅多に味わえない極上のヌガラゴルゲ――神霊的エッセンスを大量に放出するの。だから――その極上をいただくために、わたしはちょっぴりしかあなたの血肉を貰わない。亜樹の生きた体のほとんどを、邪神に残してあげるの」
その瞳には、貪欲なる狂気が孕まれていた。
「――そのエッセンスから得られる特殊な魔力もまた、亜樹を『戻す』ために必要な要素なのだから。これはあなたへの助力の代償よ。安いもんでしょう」
どこまでが真実なのか分からない。まさしく悪魔さながらだ。否、悪魔神か――。
「騙していたということか……」
「騙すも何もないわよ。この世界線はあくまであなたが望んだものなのだから。あなたがある種の特異点と言うべきものであればこそ、『たまたま』私もあなたの姉の転身たり得――こんなご馳走にもあり付けたというだけ。まさしく何の作為もない、運命よ。だからあなたの望むまま、あなたの目的が達成するまで、協力するわよ……今まで通り、ね」
亜樹は何と返せば良いか分からず、彼女を睨んだまま黙り込んだ。
「まあ、方向性は良くても、あとは運次第だからね――初回は黒い渦に入り込む〈因果の霊糸〉が多過ぎたわ……言っても三本ばかりなんだけど。もう思い出したかしら、葛色の虚空世界ワボに漂うぶよぶよした神塊……ムハリゲ=プの表面にたくさん生えた蛭みたいな管に吸引されて、空間も引き裂く剪断力で真っ赤なミンチになって終わったこととか。〈永劫に黒き地平〉しかない薄明の世界に行ったことは? そこに唯一存在する
思い出したくもない諸々の悲惨な結末が、マイノグーラの言葉に引き寄せられるようにして、亜樹の脳裏に蘇ってくる。反面、自らの惨状にも妙に冷めた態度であるのは、やはり『角』のもたらす説明し難い麻薬性・麻痺性の影響力のためなのか――。
「計画が詰むたびに――邪神に燃やされたり、消し飛ばされたり、食われたり、すり潰されたりする運命が見えるたびに、私はあなたに尋ねた。『まだ続けるか?』と。あなたはその都度、続ける旨を意思表示した。この一連の流れは、わたしをある種の封神的制約から解き放つの。だからあなたの承認を得るたびに、私はあなたを食べてその生命エネルギーを霊的外標とし、〈旧支配者〉との稀有なる因果により得られた、涜神的な力の移動相に乗せて、未来が未確定である過去の、ある時点まで戻してやった」
その「時点」というのは狡猾にも、再び亜樹が同じことを繰り返すことになるであろう時点だった。
「やめてもいいわけよ。そこで全ては終わる――あなたは邪神のいずれかに惨たらしく食われるか何かして終わるだろうけど、世界はそんなことお構い無しに続いていくだけ」
諦める気がないのを分かっていての言い草だった。
(このままでは下手をすれば、マイノグーラの言うように見ず知らずの邪神どもに恐ろしい目に遭わされ続けて、なおかつこいつにも食われ続ける……最悪という言葉では到底いい表されないような、邪神の世界に閉じた輪廻転生を繰り返す羽目にもなり得る……それはつまり、これまで必死に排除しようと画策してきた邪神との因果……どんな呪いよりも恐ろしい呪いとも言える因果に、逆にどっぷりと嵌り込んでいることになるではないか)
あるいはそれは、マイノグーラの呪いと言っても良かったかも知れない。畢竟、最も恐るべき元凶は、常に亜樹と共にいたのだ。
(そんな皮肉な結末は、絶対に避けねばならない……)亜樹は時の歪んだ空間で、これまで以上の思案思索に耽った
* * *
方々探し回っても、なかなか〈因果の霊糸〉に乏しい〈黒点〉は見つからない。件の黒き渦口そのものは星の数ほどあるのだが、亜樹の目的に見合った〈黒点〉など、そもそも非常な低確率でしか存在し得ないのだ。しかもそれを見付けられたとしても、今までと同様に、虚しい結果が待っている可能性が大いにある。
そんな落ち込んだ心境で、無数の世界を構成する玉虫色の泡と、宙に浮かぶ黒死の如き穴、そしてそれら二要素を明滅しながら連結する形而上の菌糸を眺めた。〈黒点〉は位置を換えこそしないが、どれもゆっくりと渦巻いており、渦と渦のあわいには、時折渦に取り込まれそこなった黒き塵煙の、うっすらとした不均一な淀みが汚らしく浮き出てきていた。
それは、何気ない質問に過ぎなかった。
「あの黒い煙の淀みは、あの後どうなるんだ」
マイノグーラは亜樹の指す方を向く。
「どうなるも何も、周りの渦に取り込まれるか、勝手に散り散りに霧散して消えるかでしょ。地球の雲と同じよ」
「塵が集まって惑星が出来るように、そのうち自分で凝集していって新たな〈黒点〉を形成したりはしないのか」
「〈旧支配者〉が新生すれば、それに照応した〈黒点〉が新たに凝って顕れることはあり得るけれど。新生無垢の〈黒点〉狙いなら、恐らく当てにするだけ無意味よ。空間的にも時間的にも、そんなものに出くわす確率は限りなくゼロに近い」
亜樹は押し黙ったが、思案は今だ続いていた。半瞑想状態に、意図的に入り込む。何かが掴めそうだった。
* * *
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