(5)

 女妖魔の力で、彼等を丸く囲んだ透明の結界は亜樹の望む方向に進んだ。彼方にひと際強烈な光を放つ〈因果いんが霊糸れいし〉の束が、もはや捩れた綱となって何本も入り込んでいる〈黒点こくてん〉が見えた。実際に入り込まないことには、ある〈黒点〉がいかなる存在に通じているのか、マイノグーラにも基本的には分からないようだが、ここまで強烈に〈因果の霊糸〉を集める〈黒点〉と言えば、あまねく狂信者どもの崇拝をほしいままとし、宇宙的にも極めて名の知れた邪神、大いなるクトゥルーの窖に違いないとのことだった。なれば自ずとその居城、古代石像都市ルルイエ……に通じていることにもなる。まかり間違ってもあの〈黒点〉を選んではいけない。ここまでやって来た意味がまるで無いままに、虚しく破滅するばかりだ。


 どれほど彷徨い続けたのか。時の流れが現実とは全く異なるというその影響か、麻薬でもやらかしたようにそのあたりの感覚が妙に曖昧だった。が、ふと気付くと目の前に、殆ど〈因果の霊糸〉の見られない――消え入りそうな一本を除いて――〈黒点〉が、いかにも弱々しく、控えめな渦口を開いていた。 


 反射的に、これだ、と亜樹は思った。


 ただ一本の弱々しい〈因果の霊糸〉は、果たしてどのような経緯で結ばれたものなのか。


「たまたま未知なる神との接点に触れた魔導士でもいたのか……少なくとも教団や組織、グループ単位で結ばれたような『えにし』ではないでしょうね。知的生命によるものですらないかも知れない。泥の中に棲んでいる知能も何もない長虫が、理想的な星辰のもとで、偶然何かを呼び出す正確な印をかたどってしまったなんてことだって、無限の可能性の中では無いわけじゃないわよ」


 心を読んだようにマイノグーラが言う。


「そんな馬鹿なこと、いくら何だって……」


「まあ、無駄口はいいわ。ここにするの?」


「……ああ、妥当な所だろうな」


「じゃあ、入るわよ」マイノグーラは人間には到底発音不可能な、極めて不快な悲鳴と苦悶の入り混じったような呪文を詠唱し、両手と触手のように蠢く黒髪で、人の目には追えない混沌とした印を結んだ。黒き渦の辺縁が僅かに青緑色の極光めいた淡い光を帯びる。そのまま彼女は亜樹を引き連れ、結界ごと〈黒点〉の中に入り込んで行った。




 そこは地球とは似ても似つかぬ不気味な異世界だった。


 何か良く分からない、灰色の饂飩うどんのような細長いものが、紫と黄色のまだら模様をなす空の至る所を覆っている。空、と言って良いのかも分からない。この世界には地上がなかった。


 灰色の饂飩には弾力があるが、決して引き千切れそうではなかった。太さはそれこそ素麺そうめん程度のものから高層ビルの外周ほどもあろうかというものまで様々で、それらが一つ残らず上下縦並びに、決して交差することなく並行に浮かんでいた。但し、浮かんでいるというのが正確な表現かどうかはやはり分からない。弱い重力を感じるので上下はあるようだが、上も下も果ては見えず、饂飩の端もまた果てしなく平行に伸びているので、浮いているのか、あるいは基物状のものからぶら下がったり生えたりしているのか、判然としないのだ。


 饂飩の上を、血玉のような大小の歪な球が上下に這っている。


「すぇんぐぉうのぁ・んいげとんゔぽぅ」


 マイノグーラが訳の解らないことを言った。問い質すと、この世界の名であるという。


「ここはあなたのいる宇宙に属する世界ではないわ。私も実際に来るのは初めてかしらね」


「この灰色の紐は一体?」


「海よ」


「海って……」


「海なのよ」


「……」


 血玉が忙しなく線上を滑り抜けていく。


「どこまで続いてるんだ」


「どこまでも……というべきかしら。でも、永遠に登っていくと、下から出て来ることになるわね」


 頭がおかしくなりそうだ。


「赤いのはこの世界唯一の住人ね。触らないほうがいいわよ。結界越しからでも、一瞬で昇華することになるから。もちろんあなたの肉体が」


「…………」


 人が普通に言う意味での知的生物ではないのだろう。人間には大変有害らしいが、〈黒点〉に達する〈因果の霊糸〉が殆どなかった事実を考えると、これらが特段に神の関心を引くような存在という訳でもないのだろう。


 肝心の「神」の御座所は遠からぬ場所にある筈だった。〈黒点〉は神、すなわち〈旧支配者〉の在拠を核に渦巻き凝るのであって、的外れな座標にしか達しないのでは、虹色の泡の一つを経由して、件の世界に侵入するのと大差がないことにもなる。


 とは言え〈黒点〉を抜けたとて、いきなり眼前一メートルの距離に至るほどの精度で、神の御前に至るというわけではない。マイノグーラは距離を詰めるように、結界ごと何度か空間跳躍をした。


 すると、今まで全く変化のなかった「垂れ紐」の世界に、殆ど唯一と言って良いかと思えるほどの変化が現れた。


「並行ではない」紐のひと塊があった。目が不揃いかつ、すかすかになっている、形の歪な超巨大繭玉を思わせる。内部に覗く空間が青黒く淀んでおり、何がしかの結界があるように見える。その影響か、繭玉を構成する紐と、その周辺にあって未だ平行な配列を保っている紐の幾許かは、灰色から薄い褐色へと微妙に変色していた。血玉の数も心なしか少ない。紐の配置を含めて、この世界唯一の変化のようである。


「この繭状体とその内部が、ダゥスドフスヅヌと呼ばれる神域。そして内部に封じられているのが〈巡廻するもの〉ニハーミ――あの存在から如何にして、何を会得するのかしら」


 既にして退路などない。ともかくも、目前の未知なる神性の神素しんそ、生データとでもいうべきそれを〈ナラトースの神蝕の眼角〉の高徳を以て集めねばならない。


 結界同士を干渉させつつ、繭の内部に侵入する。やがて青黒き宇宙空間の如き深淵のただ中に、恐らく地球人類にとっても――人類以外の、神ならざる何者にとっても、ほとんど未知と言って良い無名なる神性「ニハーミ」の顕現が感知されてくる。それは灰緑色じみた巨大に膨れ上がる紡錘体……檸檬レモン型の何かであり、表面の数か所に疎らな配置で、発育不全の触手の不規則かつ貧弱な束が生えていた。本体には他には、所々疣めいた隆起が見られるのみ――だが、檸檬型の周囲に十前後の細長い肉の壺のような小体しょうたいの群が、円軌道を描いて巡っていた……視覚では追えない形で、いつの間にかその数を±数個程度の振り幅で変化させている。


 意識を集中し、その神素を角に集積する中――ふと気付くと、複数の衛星状の小体たちの暗き開口部のそれぞれに、赤紫めいた色合いの妖光の蓄積が見て取れた。それらの光は次第に輝度を増してゆき……




「駄目だったみたいね」




「――え?」唐突な諦観の響きを孕むマイノグーラの言葉に、亜樹は咄嗟の理解が及ばず訊き返した。


「何が――駄目だって?」


「ねえ、亜樹、あなたまだ〈神理しんり〉の追及は望んでいるわよね」


「……勿論だ、何を今さら――」


「是が非にも得たいわよね」


「ああ」


 質問の意図が分からないまま答える。


「じゃあ、継続契約成立ね。生憎やっぱり相手は〈旧支配者〉だから――いくら『因果』が希薄でもね……あなたの望むような展開だって確かにあるかも知れないんだけど、そう上手いこといかない場合も、どうしたってあるのよ。だから……」


 どこか申し訳なさそうな表情でそう語ったマイノグーラが真鍮の丸眼鏡をはずす。やにわに、その顔貌が混沌と暗闇に崩れていった。


 妖艶な緑の流し目も、赤光放つ燃えるような狂える邪眼と化した。大きく引き裂かれた不気味な口……糸蚯蚓の如く蠢く黒いドレス……今まで亜樹と共にあった姿もまた、人の目に堪え得る姿に化身したものであったに過ぎないのだと、亜樹は今さら悟った。


 無慈悲なる宇宙の深淵を湛えた女妖の狂気の肢体が亜樹に覆い被さる。触手めいた何かに身体を撫で回され、頭から――生暖かい粘膜質……彼女の口に違いないものに呑み込まれた。


 鋭利な牙が、亜樹の手足を、胴体を――噛み千切る。神契る。


「ぎゃあああああ!!」


 炎獄の激痛に亜樹が叫び声をあげた時、回転するニハーミの各〈砲門〉から、万象を殲滅する狂烈な幾本もの魔光線が放たれ、破壊不能の紐状世界をどこまでも貫き、壊し、溶かしていった……。




         * * *

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