(4)

「姉さん……何で……どうやってここに……」

「何でじゃないわよ、何やってんのあんた、こんな地下にいたら生き埋めになっちゃうでしょ、早く逃げて! ……なんてね」

 どこか様子がおかしい。言動と仕草が微妙に合っていない……口で言う割には全然急いでも慌ててもおらず、祖父と亜樹だけの秘密であった筈の地下室の入り口の扉の前に、ただ両腕を組んで突っ立っている。振動がさらに激しくなり、大量の書籍がぶちまけられ、『黒の教典』や『妖神乱舞』『東洋藝術に於けるオッココク崇拝の手引』抄録版など、貴重な魔導書の収まる棚が倒れてアクリル扉が割れ、堅固な天井や壁が剥落し始めているのに、よろけるどころか眉一つ動かさない。

「いいもの生やしてるじゃない。お似合いよ……でも、ぼうっとしてたらあなた、シャッド=メルとクトーニアンたちの怒震に呑まれて本当にここで死ぬわよ。ここまで世界をあなた向きに〈調整〉しておいて、行かないの?〈向こう〉。そいつもくたびれ損ね。ま、別に私はどうでもいいけど」

「あ……」

 やっと頭の回転が追い付いてきて、亜樹は弱々しく、訳も分からず返事をする。

「行くさ……行かない訳がないだろう。とにかく全ては、向うに行ってからだ……」

〈キシュの印〉を描きながら、然るべき所作を施し、力ある言葉を唱えた。次第に、部屋の奥側に、薄ら明るい灰色の、楕円形をした朧げな開口部が現れてくる。

「さあ、姉さん、姉さんは早く逃げ――」

「じゃあ、行くわよ」

「は――」

 言うが早いか、真衣乃は十メートルはあろう入り口から亜樹のいる魔法円の辺りまでの距離を、殆ど一瞬にして滑るように切り詰めた。

 亜樹は姉の背に信じられないものを見た。

 黒い、一対の膜翼。

「ね、姉さん……これは……」

「とりあえず早く抜けちゃいましょ、向こうに」

 真衣乃は近付くままの勢いで亜樹を正面から抱え込み、そのまま低空飛行で楕円形に開く異界の門の方に突っ込んでいく。

 同時に恐ろしいことが起こった。姉の着ていたジャケットがバリバリと裂け、本来の細身な姉とは似ても似つかぬ、紫色をした肉感的なボディが出現した。歌舞伎でもあるまいに、露出度の高い黒い衣装を身に着けている。シルクのような、ベルベットのような……いや、本当に服なのか。毛皮のような部分もあるが、何やら独自に蠢いているようにも……。

 亜樹は門を通過する際の次元壁の衝撃と、続く次元圧の急激な変化に耐え切れず、再び束の間の闇に包まれたのだった。


                 * * *


 ゆらゆらと、揺れている。まるで揺り籠の中にいるようだ。

(ここは……)

 亜樹はうっすらと目を覚ました。まだ視界が、半透明の膜を張ったようにぼやけている。薄暗い。が、真っ暗ではない……ようだ。薄曇りというか……

「気付いたようね」

 近くで声が聞こえた。耳に馴染んだ声だ。それこそ子供の頃から……

「姉さん……」

 上体を起こす。一体どうやったものか、全身に塗りこめた青い膏薬や血痕は跡形もなく綺麗に落とされ、灰色のローブのような、無地の粗雑な布切れを纏わされている。顔を上げると、果たして目の前にいたのは――

「――!!」

「あら、どうしたの? 鳩につままれたような顔をして」

「だ、誰だ、お前は!」

「誰って――あなたの姉じゃない」

「違う!」

「違わないわよ……ん? 違わなかった、のほうがいいのかしら?」

 女は尖った黒い爪のある人差し指を頬にあて、小首を傾げた。

「姉さんを、一体どうしたんだ! 姉さんを返せ!」

「分からない子ね。だからわたしが姉さん……ええと、姉さんだったんじゃない?」

「ふざけるな、お前のどこが――」

 言いかけるも、亜樹は否定し切れないでいた。悪魔のような姿……漆黒の翼、緑の瞳、胸元の開けた黒いドレス。腰から足首までのスリットから覗く細長い脚や肉付きの良い胸元、妖艶な笑みを湛える切れ長の目をした美貌はチアノーゼの紫色だ。姉には鋭い牙もなかったし、美人には違いなかったが、鼻ももっと低かった。目元もこれほど釣り上がってはいなかったし、口紅はいつも赤で決め、黒など使うことは決してなかった。髪だって肩口までの栗色で、こんなウェーブの掛かった腰まである漆黒だったのも、それが触手のように蠢くのも見たことがない。にも拘わらず、真鍮色のフレームの眼鏡だけはなぜかそのままで、例えそれを差し置いても、漠然としていながら、無視の出来ない面影が……

 そして面影以前に、その声は紛れもなく姉のもので……。

「コスプレじゃないわよ」

 訊かれてもいないことを言う。

「どういうことなんだ……」

「うーん……すべてはあなたの選択の結果」

「僕の……?」

「そう。今のわたしは、あなたの姉であって姉ではない。聞いたことあるんじゃないかしら。わたしの〈本来〉の名は、影を司る暗黒の女神たる〈旧支配者〉が一――」

「……マ――」

 マイノグーラ。

 その名が唱えられた瞬間、辺りが一瞬暗くなり、訳もなく背筋を冷気が走った。どこか遠くで、地獄の猟犬が遠吠えする声が聞こえた。

「這い寄る混沌の……従姉妹」

「その通りよ」

「姉さんの身体を乗っ取ったのか」

「違うわね。わたしは正真正銘あなたの姉、宮浦麻衣乃みやうらまいのだったわ」

「だった」

「そう。だった」

「それが、なぜ〈旧支配者〉なんかに……」

「世界は様々な可能性をはらんでる。それらの可能性の一つを選択肢として選ぶことで、別の選択肢に進んだ時とは異なる未来が待っている――もっとも、そんなものを見比べることが出来るのは、神ならざる者には普通、無理だけど」

 姉は――自称・元姉は、繊細な触手的意匠の施された黄金の多重ブレスレットをしゃらしゃらと鳴らしながら、右手で軽く前髪を掻き上げた。

「何が言いたいかと言うと、特殊な運命的要素が絡んでいるとは言え、あなたは神々の世界の理に深く干渉した。それも、あまり前例の無いような、独自の方法で。あなたはそういう意味で言わば特異点であり、ゆえにその行い如何で世界が劇的に変わるのよ。世界というのは何も、空とか海とか文明とか、そんな大きなものばかりじゃない。個人という『世界』だって、変わるときは変わる」

「僕の魔導実験が、姉さんを邪神にしたと?」

「言い方によってはそう。全てはあなたがその、何だっけ。角。厨二病的な名前の角を完成させ、額に刺し込んだ時に最終確定したのよ」

「もし、僕が『角』を使わなかったらどうなった?」

「私はあくまであなたの姉……宮浦麻衣乃として、何も知らずに人の生を終えたでしょうね」

「お前が覚醒することは、万が一にもないままだったと」

「覚醒……というのとは違うわ。あなたの姉はあくまで、あなたの姉なの。中に私が眠っていたわけではない。最初から、私とは何の関係もない人間として在り続けたということよ。もっとも、どのような事象の改変があろうと、私たち〈旧支配者〉は、元より理の外なる存在ゆえに、人智を越えて常に存在しているけれど。だから麻衣乃が麻衣乃のままならば、私はあなたの姉とは別個に存在していたことになるでしょう」

「僕は祖父の夢を引き継ぎ、智の探索者として魔導を安全かつ自在に操る術を得たかった。けれど、その祖父という家族の夢を叶えるために、姉という家族の別の一人を犠牲にしたというのか……」

「だから、犠牲ではないわよ。私、マイノグーラがあなたの姉に代わって存在する世界においては、もとからあなたの姉なんて存在しなかったことになるんだから。あなたが麻衣乃という、存在しない者の記憶をもっているのは、特異点であるが故の人としての例外」

「だけど! なんで姉さんが! 姉さんを元通りに――」

「だけどもやけどもないの。別にあなたの姉が特別な何かだったわけじゃないわ。運命の分岐点はあらゆる所に無数に散在するの。例えば麻衣乃が私になるという可能性は、麻衣乃が祖父の家で同居することを、あなたが断らなかった時点で決定した」

「それならやっぱり僕が――」

「いいえ。直近の選択肢のもう一つの例。もしあなたが同居を拒絶した場合、麻衣乃は最後まで人間で、マイノグーラたりえなかった代わりに、あなたが邪神となる運命に置き換わっていたわ。その場合、あなたは『角』を作って次元の門を通過するどころではなく、下手をしたら地球を滅ぼして終わってたでしょうね」

「なん……」

「その選択肢を選ばなかったために、あなたは一応人間で、いみじくも私がナラトースに次ぐ第二の導き手となって、今ここにいるのよ。そうでなければあなたという存在は、セヴァーン渓谷の湖底に眠れる、かの……ああ、もう、いいでしょ」

 麻衣乃は……いや、マイノグーラは面倒くさそうに手を振った。

「そんなことより、周りを確認したらどう? ここは、あなたのためにお膳立てされたような場所なのよ」

 言われて亜樹は初めて気付いた。

 自分が今、断続的に朧に光る丸い透明な何か――力場というか、名状し難いバリア状のものの中にいて、どうやらそれがマイノグーラの作った結界の類いらしいということ。

 辺り一帯に、どこまでも続く……玉砂利? 泡? 何か様々な色合いからなるやはり透明の、大小様々の歪なシャボン玉のようなものが夥しく存在しており、眼下にはそれが海原のように密集して果てなく続き、上を見上げれば表面のそれらが海原を離れふわふわと無数に漂っている。その向こうに覗き見える空――と言って良いものか、微妙に判断し兼ねる背景は、赤いようでも灰色のようでも、はたまた青紫のようでもある、不確かで淀んだ曇天の如く見えた。

 そして、その曇天に、たくさんの不気味な黒い「穴」が空いていた。

 蟻の巣が果てしなくも不必要に密集している様を連想させる……あるいは病的な肌に浮かんだ致死性の黒い斑紋めいたそれらは、発狂した銀河の中心に蠢く巨大ブラックホール群さながらに、ゆっくりと渦巻いている風にも見える。

 その穴に向かって、周囲の七色の泡沫のあちこちから、細い何かが伸びていた。いや、穴のほうから泡に向かって伸びているのだろうか。いずれにしてもその細い何かは、ギザギザとして様々な色に瞬いており、糸というよりも、決して途切れることのなき、稲妻の細い線条めいて見えた。その様は虹色の泡と暗黒の穴の狭間に蔓延り不気味に輝く黴の菌糸のようで……。

「あれは……なんだ?」

 本能的な畏怖の念に駆られて黒き穴に目を釘付けにしていた亜樹は、おもむろに呟いた。

「あなたの望む世界へのさらなる扉よ」

「扉……?」

「扉と言うか、染みというか、窓と言うか、穴と言うか……光の線が見える? 見えるわよね。それが見えることこそが、あなたの『角』の大きな存在意義なのだから」

 亜樹の額に埋め込まれた今や赤紫色を呈したそれが、淡く青白い光を発しながら、何がしかの妖素を周囲から取り込んでいるようだった。その不可知の妖素は結晶を通じて視神経に伝達され、一連の光景……取り分け暗黒の穴へと通ずる件の光条を可視のものとしているらしい。

「ここはあなたの目的に最適化された疑似空間。無にして有なる混沌世界よ。強大な諸力が混然と渦巻いていながらも、便宜的な図表的空間に過ぎない」

 亜樹の眼には現実のようにしか見えなかった。もっともこの世界を構成する個々の因子が、いわば超常的現実の「引用」であってみれば、それもあながち間違った感覚ではないのだろう。

「あの黒い穴――もう〈黒点こくてん〉でいいわよね――は、万象の廃物たるアスタラツァールという暗黒塵の凝集で出来ている。廃物でしかないそれらがこの空間の理によって凝集し、数多の〈旧支配者〉の住まう次元へと直結する回廊の入り口を形象化しているの」

 マイノグーラは誇示するように、両手と両翼を広げて言った。

「そしてその下に沈積しているこれらの泡、この一つ一つが〈世界〉よ」

「世界?」

「そう。この中の一つに、あなたの元居た世界もある。あなたが邪神となった世界も、あなたが生まれなかった世界もある。あるいは全く異なる次元や時空という意味での世界……ティンダロスやベル=ヤルナク、ユゴス、トンド、ゲイハーニーやカダスやルルイエ……ルルイエ一つだけでも、並行世界的に無数にある」

「言っていることが良く分からない……ルルイエが無数? ゲイハーニーにユゴス? トンド? それらは一つの星であったり都市であったりで、空間的には同一の世界にあり得るものじゃないか。それらがなぜ別個の泡になる?」

「何もおかしくはないわ。さっき言ったばかりよね。『個人』という世界だってあるんだって。泡は世界を包含するものにして、象徴でもあるのよ。一つの世界を確立し得るものが泡となる。そしてその泡の中に互いを包含し合っている――幾重にも、複雑に。ゆえにそれらは究極的には、一つにして全てを成し、全てにして一つを成すの」

 そこまで聞いた亜樹は全身に戦慄が走り抜けるのを感じた。己の浅はかさに恥じ入る暇もなく恐懼した。自分が、自分たちの世界が何物の上に成り立っているかを、知識としてではなく、体感したのだ。

「ヨグ=ソトース!」

 亜樹は畏怖のあまりへなへなと腰を抜かし、膝をついてへたり込んでしまった。

「全てを内包するヨグ=ソトースの中に、人や星や宇宙とともに〈旧支配者〉たち自身もまた存在する――けれど、上空の〈黒点〉の凝集はどう? 何故泡を逸脱しているの? 包含されると同時に、そこから逸脱した象形をも呈し得る形而上的規格外要素。これこそ白痴の覚醒によりもたらされ得る〈消泡期しょうほうき〉すらも傍観する〈旧支配者〉の超越性の顕れの一つと知るといいわ」

 亜樹はその難解な言葉にも呆然と聞き入るしかなかった。人智の外。その体感。それは禁断の書物を読むだけでも十分狂的である事象を、何のフィルターも無しに直視するのと同様の脅威……いや、狂威だった。恐らくは額の衝角の脳髄への神蝕がなければ、生身の人間でしかない亜樹は細胞レベルで発狂していただろう。

「呆けている場合ではないわよ。あなたの欲するものを見極めなさい、あれら光の筋道から」

 マイノグーラは世界の泡から黒き虚へと吸い込まれゆく光の条糸を指し示した。

「察しは付いていると思うけれど。あれらの光条こそが、世界と邪神とを繋ぐ『因果』――〈因果いんが霊糸れいし〉とでも言うべきもの」

 光の線条の一本に目を遣り、やや目を眇めながら呟く。

「よく見てみなさい。〈黒点〉の方よ。あれらの中には〈因果の霊糸〉を無数に集めているものや、それほどでもないものがある。数本しかないものも、探せばあるし、全く線条のないものすらあるかも知れない。つまり、神々の側でも、未だ殆ど〈世界〉に接触していない者たちがいる」 

「――!」

 亜樹は上空に凝れる黒き渦孔の群れを改めて眺めた。亜樹の目的からして、この中から〈世界〉との縁――因果が、理想的に希薄なものを選ぶ必要があるのだ。

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