(3)

 蝋燭に照らされた四隅で香が炊かれ,その内側五か所に甲殻類の殻を砕いた細片と深皿に湛えた獣血、中央には三角形に近い特定の形状をした薄桃色や白色の、ある種の布片が呪物として捧げられている。その周囲には既に紫めいた色合いの霧のような、淀みのようなものが渦巻き始めているのが見えた。

 亜樹は白墨を練り込んだ塗料でコンクリの床に描いた魔法円に立ち〈ヴーアの印〉を結んだ。その左手を淀みの方向……呪物たる供物の配されたその上方へと掲げ、長々と唱え続けていた祝詞の締めにこう叫んだ。

「いあ・いあ・ならとーす・ふたぐん!!」

 瞬間、地下室全体が緑色に輝き、すぐに闇に帰った。蝋燭の炎さえもが消し飛んでいた。

 だが、それにとって代わるように、たゆたっていた前方の紫色の淀みが、今や燐光のように朧な光を放って、人型の巨大な何かに変貌していた。徐々に白んでゆき、それと共に刻一刻と形が定まっていく。

(せ、成功した……!?)

 亜樹は眼を見張った。が、ここからが正念場だ。

〈我を呼び出だせしは汝なりや〉

 その分厚い唇は動いていない。言語ではない何か歪なものが、亜樹の脳裏に響き渡った。

 巨人の右腕が上がり、亜樹を指す。白くざらざらした異形の表皮である。指し示したその手は蟹の鋏のような形状となって、亜樹の首を切り落とさんとする様子で開閉を繰り返した。

〈我を呼び出だせしは汝なりや〉

 同じ問いが繰り返された。脂汗を額に浮かべた亜樹は相手の顔を見据えられずにいたが、突如として説明のつかない力で強引に視線を巨人のそれに縫い付けられた。

 狂おしくも人間の想像の及ばぬ異次元の思惟を湛える三つに分かれた単眼が備わっていた。言い知れぬ怖気に、悲鳴を上げずに済んだのが不思議である。ここでパニックを起こし、下手に相手を刺激すれば、それこそ命運が尽きる……それを本能で悟っていたのかも知れない。

「そ…………うだ……」

 ほうほうのていで、やっとそれだけを答えた。日本語で通じるのかなどといった些末な事柄は、完全に思慮の外であった。

〈望みを言うが良い〉

 異界の超存在……ナラトースは問うた。亜樹は今だに逡巡していたが、やがて唇を舐め、意を決して口を開いた。

「……お前は……神々へと至る〈道〉を知っているのか。〈旧支配者〉と呼ばれる者達の世界へと、僕を導く力はあるのか」

〈愚問なり。我とて末席と雖も、汝の申す処の旧支配者に属する者なり〉

「それは、分かっている、つもりだ……だが、知っているというだけなら『アル・アジフ』を記したアルハザードも、その内容に目を通した禁断の知識の探索者も同じだ。僕が知りたいのは〈旧支配者〉の世界と、こちらの世界との橋渡しを、お前が実際に出来るのかということだ。物理的に……という言葉を使って良いのかは分からない。ただ、向こうの世界の智慧を、知識を、魔力を得るためには、何らかの具体的な力の経路を確立する必要がある筈だ……違うか」

 しばしの沈黙ののち、ナラトースは答えた。

〈その質問の答えは状況に左右される。我は旧支配者の同胞なれば、彼等の世界を去来し、汝の欲するものをもたらすことが出来るやも知れぬが、偉大なる古き神々はしばしば望む望まざるに依らず、強き結界に阻まれ、あるいは永劫の幽閉と休眠を強いられておる。如何な我とて必ずしも全ての封印の間隙を縫うこと能わず、故に未だ至らぬ境もあり。なれば汝が供儀の有り様をも加味し、我より与え得るは初手なる道標のみ。然あれど尚、その先の光明我が助力無くして得られずと心得るならば、汝の欲する処を詳らかにするが良い〉

「ならば……」亜樹は大きく息を吸い込んだ。

「僕は、偉大な魔導士アルハザードやフォン・ユンツト、あるいはエイボンやザントゥーにも劣らない知識と力……彼等の誰も知らない未発掘の智慧と力が欲しい。死者を蘇らせるとか、金持ちになるとか言った、具体的・直接的な『望み』が当面の目的ではないんだ。だけどそういった様々な『望み』を結果的にはもたらすことの出来るような、今まで知られていない過程、道程、手法、ツール……なんと言ってもいい、望む結果に至る『新規の』プロトコールを開拓したい。まさしく標だ。それを得るための道標が欲しいんだ」

 

                 * * *


 それからしばらく、亜樹は儀式を何度かに分けて実践し、ナラトースの神託を受け、一言一句余すことなく慎重にネット未接続のPCで記録し、自分の望むものを得るための準備に邁進した。儀式については万一にも姉に勘付かれて怪しまれるのを避けたかったので、期日的な制約がない限りは、彼女の不在とする昼間に地下室で行った。

 ナラトースは数多の異界的存在の中にあって、人類の脳にも比較的理解可能なコミュニケーション能力をもち、その人外の智をどの神性にもまして――語弊を恐れずに言うならば「安易に」乞うことの出来る稀有な存在である。

 そもそも、亜樹が先達である魔導師たちから学んだ最大の懸念は、どんな達人でも、相応の望みを叶えるために多大なる危険を冒し、結果として死すらも死するような運命に見舞われることが珍しくないという事実である。これをいかにして避けるかということが、今回の計画全体を通しての大きな課題となっていた。

 最終的にはそうした危険性を限りなくゼロに近付けたい。最初の一歩はしかし、幾許なりとも危険をはらんだ手段を取らざるを得なかった。この初手の危険性を少しでも軽減させようと思案した結果、選んだのがナラトース召喚儀式だった。ここでしくじる程度では本末転倒、結局何も始めることなど出来ないばかりか、計画に関わる全ての意味と意義を、己の命と共に失うことにもなり兼ねない。


 かくして全ての準備が整うまでに掛かった年月、都合三年――。

 世界中から集めた様々な鉱物、薬物、その他の天然素材。科学的、工業的、魔術的に生成した物質。自身の目的に魔神の導きを採り入れた、独創性の高い術式と複雑な工程に従い、これらを調合、合成、錬成、純化、精製した結果に完成したのは――全長は二十センチほど、両端の異様に尖った歪な紡錘形をなす、青く半透明な結晶体であった。まさにこれまでの全ての行為の結晶であり、始まりの鍵である。

 亜樹はこの結晶体を〈ナラトースの神蝕しんしょく眼角がんかく〉と名付け、実験記録に記した。


〈ナラトースの神蝕の眼角〉は、長年亜樹の求めてきた「人外の智への道標」を、亜樹の望む様に可視化し、同時に予想される名状し難き破滅の危険を回避するための、画期的な魔道具であった。

 神々と呼ばれるものの多くは無論、元より人など視野に入れてはいない。例え視野に入ろうと、そこに在る人間のような矮小なる定命者を、敢えて意識・認識する心がない。

 だが、意識、無意識に拘わらず、より形而上の本能として、神は神に畏怖し恐懼する人を、餌として無知覚的に感知することがある。人間というものがあることを知らずして知り、人間という贄を欲さずして欲する。ここに、邪神と人との望まれざる絆という意味での〈因果〉が生ずるのである。亜樹はこの特殊な〈因果〉を、神性の念や力場を元にして可視化しようとしていたのだ。

〈因果〉が多く結ばれているということは〈旧支配者〉由来の術や知識の獲得に対する忌まわしき対価、代償を、それだけ多く要求される危険性が大ということである――多くの場合、贄や犠牲を通じて、神が「味を占めている」と言っても良い。故にこれらを避け、〈因果〉の未だ希薄な存在から、見返りを求められることなきまま神智を得ることが出来れば……さらにそこから、彼等の注意を恒久的に引かずに用いることの出来る妖素だけをスクリーニングすることが出来れば、それを以て破滅に至らぬ世界を導ける……これが亜樹の目指す所だった。


〈良くぞ此処まで成し遂げたるものよ。いざ、儀の末を締め括らん〉

 ナラトースはそう言うと、蟹鋏状に変じた右手で、己の首を挟み込み、一気に切断した。ごりゅっという異様な音と共に首が根元より切断され、その頭部が床に落ちるか落ちないかの内に、様々な色合いの体液が切断面から吹き上がり、やがて蛍光オレンジの色彩に安定する。あたりに腐敗臭のような、芳香のような臭気が漂う。

〈我が体液二合を飲み干したる後、額にネシュキバの飛翔と咆哮の印を描きて鑰穴とせよ〉

 全裸になってラピスラズリの膏薬を全身に塗りつけた亜樹は、切断面より祭器に降り注ぐ酷い味のナラトースの体液を半狂乱で啜り、方々飛び散るそれで額に古の印形を描いた。そして両手でしっかりと握った結晶の切っ先を頭上に翳し……狙い過たず、渾身の力と勢いを込めて、自分の額に突き刺した!

「ぐえええええっ!!」

 上体をのけぞらせた亜樹が、断末魔めく異様な叫び声をあげた。

 結晶の切っ先は亜樹の額に深々と刺さっていた。予想外の異様な腕力が働いたのだ。表皮は愚か頭骨を刺し砕いて、切っ先が脳に達していた。血と脳漿が結晶体内部に細かな網目状に吸い上げられて行き、青かった結晶体が徐々に赤紫色を帯びてゆく。傷口の隙間からも凄まじい血飛沫が全身に鮮やかに吹き零れた。頭痛と言うには生ぬるい凄まじい激痛が頭蓋の内外を駆け巡り、激しく嘔吐する。

 視界には迷走神経反射のそれのように暗い斑模様が生じ、たちまち目の前が真っ暗になると共に、聴覚も味覚も嗅覚も触角も遠のいていった……。


 それからどれくらいの時間が経ったものか、気絶状態から立ち直る頃には、結晶の三分の一以上が脳内に食い込んでいた。

 ナラトースはドロドロになって悪臭を放ち、溶解しかけている。眼窩から零れ落ちた眼球がぶよぶよと蠢いていた。

「おお、ナラトース……」

〈小康に至りしか。なればクトーニアンの卵酒たまござけの封を解きて中身を飲み干し、然る後にキシュの印にて開門せよ。ウムル・アト=タウィルの加護のもと、魔震の到る前に門を抜け「向こう側」へと赴くが良い〉

 言われるままに予め用意をしておいた小瓶の呪符を剥がして栓を抜き、アルコール度数の高いどろりとした薄緑色の液体を一気に喉に流し込むが、そこで手が止まる。

「お、お前はどうなるんだ。僕はこれから向こうでどうすればいい。今もってこの計画の行程には、未知の部分が山ほどあるじゃないか。どこへ向かい、何をすればいいか――」

〈初めに我は標を示すのみと言った筈。汝が魔法陣の使用を過ち、我を不注意に解き放つことが遂に無かったのが惜しまれてならぬ。いずれにせよ我が導きはここまでだ。我に死滅は無いが、汝に喚び出だされての此度の仮初の躯殻、その使用の刻限は疾うに過ぎている。我は再び無形の魔渦の内に、暫し還らせて貰おう〉

「だがそれでは……」

 突如、地響きが生じた。地の奥底から沸き起こってくるようなそれは、徐々に強くなる。机の上に積み重ねられた今や血濡れの書物や水差しがカタカタと揺れ出し、しまいにはどさどさ、がしゃんと、あちこちで物が割れたり落ちたりする音が相次ぐ。かなり大きい!

「その無計画性は何かしら。あんただんだん、そいつにおんぶにだっこになってたんじゃないの? 昔からそうよね、頭良さそうなこと言う癖に、最後はグダグダで私に甘えてばかり。そんなんだから安心出来なかったのよ」

 そこに立っていたのは、亜樹の良く知る顔……姉の麻衣乃の姿だった。

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