(2)

 亜樹は――亜樹少年は、上階と同じくらいに広い地下室の四隅あずまやめいた天蓋付きのスペースに据えられた、柔らかな革張りのソファの一つに埋もれ、部屋の中央を眺めていた。

 目眩く七色の光輝があった。祖父の詠唱と共に現れる、半人半妖半透明の魔人の姿があった。それらは決して室内に炊かれた奇妙な薫香や、ある種の薬物、あるいは神秘的行為に没頭することによるトランス状態が生み出す幻ばかりとは言い切れないように思えた。

 最早それらが夢まぼろしだと思うこと自体が、無識者の愚かな妄想でしかないとの信念を抱くようになった頃、祖父は「遺灰塩いかいえんへの生命エネルギーの再添加と蘇生」という、秘密の計画を亜樹にだけ打ち明けた。

 祖父の異端研究にも理解のあった祖母は、若かりし時分に原因不明の熱病に倒れ身罷っていた。医者は病原を特定出来なかったが、それが超古代大陸の邪神崇拝に関わり言及される〈黒熱病〉であると、祖父はすぐに気付いたそうだ――自身が収集したアトランティス由来の呪物という、世間一般には無視される真の感染源と共に。おのが浅慮に端を発する超常のせきによる、最愛の者の死であれば、超常のわざをもってこれを精算せん……その衝動が、晩年の祖父の活動に度々影響を与えていたようだ。

 自身の過ちを悔いてか、彼は儀式の準備や術の行使に関して異常なほどに慎重を期していた。特に大事な作業の最中には、亜樹とても離れた安全な位置からの見学が許されるのみだった。ともあれ、そうした実験と実技を通じて、少年は数々の不思議を実際に目にしたが、一方で祖母の復活という最大の偉業を目にすることは遂になかった。

 その奇跡を待たずして、ある日、祖父は死んだ。書斎に伏して倒れていた祖父は検死の結果、脱水症状からの衰弱死と診断された。

 だが、亜樹にはそうではないことが分かっていた。医師が敢えて見逃したのか、それとも診断の時点で消失していたのか……第一発見者であった亜樹は、脱水症状と言うには水分の失われ過ぎている遺体の表面に、不可解な幾何学模様が走っているのを確かに目にしていたのだ。

「アドゥムブラリに目をつけられた」そう書き記された祖父の日記を秘密の地下室で発見するまでもなく、亜樹はそれが二次元世界に生息するという漆黒不定形の魔性に関わりのあることを見抜いていたが、敢えて死亡診断の結果に異を唱える気はなかった。そんなことをしても子供の戯言で済まされると、分かっていたからだ。

 留意すべき点は他にあった。それは、祖父ほど慎重に慎重を重ねた魔術の実践者でさえも、何が切っ掛けであるにしろ、こうもあっさりと死の陥穽かんせいに落ち込んでしまうという事実だ。


                 * * *


 一体どこに落ち度があったのだろう。

 石橋を叩き過ぎたのが、そもそもの間違いではなかったのか――後で知ったことだが、祖父の魔術実践における慎重さは些か度を越したところがあり、例えて言うならば、早朝外出時の戸締りが気になって、確認に戻る行為を繰り返した挙句、夕方になってしまうようなものであった。

 迷信絡みの祖父の仕事に元より全く理解と関心を示さなかった両親に代わって、亜樹は祖父の遺産を受け継いだ。その一見周到に用意され、実践され続けてきた研究資料を見るにつけ、どうしても頭にこびりついて離れない思いがある。

 そう、そもそもの話。

 幾ら慎重を期した所で。いくら常識を凌駕した力を本当に振るえた所で。

 それをもって、祖父が世界最大の魔術師、魔導師であるということには、きっとならないのだ。

 では、より高名な魔導師は? あるいは超自然的事象に関わる権威と評される者たちのそれは? その一生は、行き着く先はどうだったのか? 

 その筋の人間には、明白なことだった。

『無名祭祀書』の著者フォン・ユンツトは、密室で鉤爪跡の残る絞殺死体となり発見された。

〈這い寄る混沌〉の神僕ゲゼリンは、主への不相応な望みの果てに両眼と魂を焼かれ、永遠に苦悶する妖蛆と化した。

 魔導士エイボンの師である大魔術師ザイラックは、蛇妖の探求に溺れ、忌まわしき姿になり果て死んだ。

 そして、悪名高き『アル・アジフ』の著者、アブドゥル・アルハザードは、ダマスカスの市場で昼日中、目に見えぬ怪物に貪り喰われて死んだのだ……。

 最大最強と謳われる魔術師でさえ、この有様なのである。

 どうして極東に住む一介の、少し魔術に秀でた程度の老人が、彼等の二の舞を避けて事を成し遂げられる僥倖に、安易に縋ることが出来ようか。

 駄目なのだ。彼等の軌跡をなぞるだけでは。あるいは、彼等の軌跡を徒にいじくり回し、多少の色を付ける程度では。もっと何か、今までにない視点が必要だ。

 そう。新しい視点が――。


 亜樹は屋敷と共に、祖父の研究をも継いだ。祖母の復活という限定した目的を、ではない。そうした術をも包括した、祖父の探求した神智を――安全確実に――自在とする道、そのものを継いだのだ。

 その上で、祖父を踏襲しつつも、最終的に異なる道を歩まねばならなかった。そうでなければ単に、祖父の二の轍を踏むだけに違いない。

 だが、いくらその道の研究と実践を重ねても、必然的に行きつく先は現状、祖父と変わらぬ道のように思えた。難解な章句の謎めいた暗示の裏に隠された知識は、必ずしも行き詰まりを示すものではないかも知れない。しかし既にそこは、宇宙的魔界、大いなる〈旧支配者〉と呼ばれる者共の領土なのである。要するに、いつ道を踏み外してもおかしくはないのだ。行き詰まりではないが、茨の道、それも宇宙茨の道なのだ。偉大なる先達は結局皆、その危険を承知で顧みず、禁断の知識を求めていた。だが、亜樹の探求の道としては、それではあまりにも意義を失い過ぎる。

 心が折れかけた時、ふと、地下室の書棚にあった和妖書『根倉巫女譜ねくらのみことのり』の断片が目に入った。既に何度も目を通したものだったが、疲弊と諦念に打ちひしがれていた亜樹の脳髄は、健常なる時分とは不思議と異なる色合いでその断章を眺め、ちょっとした思い付きを得た。

 別に大したことではない。が、試してみる価値はありそうだ。

 亜樹一人、孤独に蟄居していたのならば、必要な品々の調達に難儀したかも知れない。しかし、この屋敷にいるのは既に彼一人だけではなかった。姉が同居しているのだ。何とかなる筈だ……。


                 * * *

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