因果の霊糸

豚蛇

(1)

亜樹あき、亜樹。来たわよ」


 良く通る高い声が午後の日溜りに反響する。


 声の主は年季の入った古びた褐色のオーク扉を拳でどんどんと叩いた。ノッカーは壊れて久しく、金具を受ける獅子の意匠の虚ろな瞳が空しく宙を見据えている。インターホンの類はない。


 二十代後半から三十代前半か、すらりとした紺色のパンツスーツを着こなして、胸元には赤色のルビーが瞬くループタイを留めた、フリル付きの白地シャツが覗いている。控え目にアイシャドウを施した二重瞼の双眼に、真鍮めいた色合いの細フレームの丸眼鏡が似合っていた。


 何度目かの強めのノックのあとで、内側からギィ……と躊躇ためらいがちに、扉が開かれた。


「そんなに激しく叩かなくても、聞こえてるよ」


「出て来るのが遅い」


 外の日差しに何年か振りで当たったように眩し気に目を瞬かせる亜樹は、大学に通っていた頃に比べて少しやつれたようだった。髪の毛も随分とぼさぼさで、少し目が充血しているようだ。髭は薄いので細面はそれほどむさ苦しくなってはいないが、よれた黒いTシャツとジーンズは、毎日着替えているものかどうか疑わしい。


「何よ、ちゃんと寝てるの?」


「寝てるよ」


「適度に体も動かさなきゃ駄目よ」


「分かってるよ」


「食事は? レトルトやカップラーメンばかりでは駄目よ」


「会って早々うるさいな。だから来なくていいって言ったんだ」


「何よ迷惑そうに」


「迷惑だし」


「とにかく荷物入れるの、手伝って。台車二つあるから」


 しぶしぶという感じで追従した亜樹は、中庭に停めてあるミニバンの後ろに山積みの家財道具やオーディオ、大型PCといった電子機器、衣類の収納されたプラスチックケース、書籍やファイル、その他様々の小物が詰め込んであるらしき大小の段ボール類を、苦労しながら数度に分けて玄関ホールに運び込んだ。


「二階の客間と寝室のどれか、昔から使ってないやつ、空いてるから、好きに使ってよ」


「運ぶのが大変だから、一階がいいんだけど」


「悪いけど書庫や物置にしちゃったよ。爺ちゃんの書斎に近いしね」


「えー」




 麻衣乃まいのは亜樹の三つ年上の姉だ。


 齢二十八にして凄腕の社会保険労務士として活躍中で、オフィス作業が多いものの、上場企業を複数顧問先に持っている。説明会や労務監査など、必要とあらば愛用のミニバンで日本全国自由自在に駆け回っていた。


 昔からお節介過ぎるほどの世話好きだった。実家に殆どいない両親――こちらは揃って海外駐在の司法書士だ――の分も、自分が頑張らないといけないという意識があったのだろう。


 亜樹にとっては有難迷惑でしかない発想だったが、陰須磨いんすま大学卒業後、定職にも就かず、祖父譲りの洋館別荘を我が家と蟄居する現状である。荒みかけた生活習慣を考えると(姉がいたほうが助かる部分もきっと……)などと、調子の良いことを考える部分がなくはないのだった。




 荷物の運搬がひと段落した頃には夜だった。そのまま宅配ピザをつつきながら久々に近況を語り合い、紅茶を啜ってしばらくくつろいだ後、麻衣乃は二階の部屋に引っ込んで荷物整理の続きを始め、亜樹はいつものように書斎へと読書に向かう。


 祖父が若い頃より収集した膨大な書物で、書斎は満たされていた。自然科学や歴史宗教の他、隠秘学や錬金術などを扱った本が異様に多い。子供の頃、外で遊ぶよりも一人で本を読んでいる方が好きだった亜樹は足繫く祖父宅に通い、神話伝承、魔術妖術の不思議を読み、聞き、学び、知り、秘められた世界に思いを馳せるようになっていったのだ。


 亜樹の祖父、宮浦鮨武二みやうらしぶじは優れた民俗・考古学者だったが、その現実離れした主義主張が災いし、学会から追放されたと噂されていた。だが、彼は単なる夢想家ではなかったし、亜樹自身とて、祖父の夢想に洗脳された哀れな妄想狂などではない。その証拠は、この書斎に隠されていた。


 夜半。備品整理に疲れた姉も寝静まった頃。亜樹は寝室を抜けて、再び書斎へ入った。


 部屋の中央にある重厚な黒檀の文机の下、毛織の敷物を半分ほどめくり上げると四角い床扉が現れる。銅製の厳めしい鍵を鍵穴に入れて強く右に捻るとがちゃりと音がして、両の下縁部の窪みを上に引き上げることで、軋んだ音を立てながら扉が上向きに開く。


 中はひんやりとして薄暗く、木の梁が渡された土壁と、アルミ製の縞鋼板の階段が続いている。狭くて簡素だが、堅固なものだ。懐中電灯を点けて右手に持ち、緩やかな右巻きにうねる下り階段を、深さにして十メートルほど慎重に降り切ると、一面に錆の吹いた重厚な鉄の扉が正面に現れた。片開きの押戸で、太い持ち手と閂かんぬきがあるだけの、これまた質素な外観だ。地下入り口の床扉と同じ鍵で錠前を解いて閂を外すと、亜樹は足を踏ん張って扉をゆっくりと押し開いていった。




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