第4話 いつかかならず

 その日が来ませんように、来ませんようにと願ってしまったのは、何もおかしいことではないはずだ。


 一ヵ月も経つと人々は海の景色に慣れてしまって、むしろ悪い側面が目立ってきていた。サメに驚いて交通事故を起こしただとか、海洋生物恐怖症を発症する人が増えただとか。だから、いよいよ海が還る日が来たと報道されても、ほっとした人の方が多かったのではと思う。


 僕らは約束通り海岸にいた。

 横川渚沙はいつものセーラー服姿で現れた。手には何も持っておらず、今からどこかへ行ってしまうようには到底見えなかった。ひとつ違うことといえば、その顔が晴々としていることだろう。そんな彼女を見たら、やっぱり諦めてくれたんじゃないか、なんていう希望は呆気なく消えてしまった。


「いよいよだな」


 横川はうんと両手を伸ばし、準備運動のようなことを始める。僕は彼女を直視することができず、堤防に立ったまま俯いてしまった。


「なんだ、遠山湊。浮かない顔をして」

「なんだじゃないよ。お前、僕の気持ち考えたことあんのか?」


 そんな気はないのに、つい言い方がきつくなってしまった。また目を逸らした僕に、横川はきょとんと眼を瞬いたあと、無邪気に目を細めて笑う。


「今、どんな気持ちなんだい?」

「……複雑だよ」


 だって、なんと言い表せばいいんだ。

 横川渚沙はこれから死んでしまう。彼女は違うと言うけれど、地上を捨てるということは、すなわち地上での死を意味しているのではないのか。僕はそれを見過ごさなければならない。こんなに幸せそうな姿を見て、引き留めることなんてできないから。


 でも、それでも。

 僕はやっぱり、横川渚沙にいなくなってほしくないのだ。置いていかれてしまう焦燥。僕はどこまでも浅はかで、自分勝手な人間だから。「居場所のないもの同士」という彼女の隣に、安らぎを見出してしまっていた。


「なんだ、君。私のことが好きなのか」


 思いがけないその言葉に、僕はバッと顔を上げる。耳が熱くなるのを感じたが、反論しようとする言葉は彼女の指に塞がれてしまった。

 まっすぐに人差し指を突き付けて。

 横川渚沙は僕に笑う。


「一緒にくるかい?」

「……は?」

「今だったら連れて行ってあげられる。逆に言えば、これが最初で最後のチャンスだ」


 遠くからイルカたちが泳いできた。横川を見つけ、優雅な螺旋を描いて降りてくる。彼女はそれに答えるように堤防から靴底を離し、足元の僕に手を差し伸べた。それ以上は何も言わない。


 僕は。

 ただ、俯いた。


「……無理だよ。僕は泳げない」

「私が手を引くよ」

「無理ったら無理だ。そんな、人間が空を泳ぐなんて――」


 横川は悲しげに笑った。「そうか」と一言言っただけで、否定する僕を責めてはくれなかった。


「それじゃ――……さよならだな」


 雨が降り始める。海が落ちてきた最初の日と同じく。しかし、今度は明るい雨だった。太陽が見守る中、降りしきる光の雨と共に魚たちが天へと昇っていく。イルカたちも、横川を連れて。


「元気で」


 僕は雨に濡れながら、辛うじてその言葉を絞り出した。胸が苦しい。笑い返そうと思ったのに、くしゃくしゃに歪めた顔はちゃんと笑顔になっていたのだろうか。


「――大丈夫だ、遠山湊。君もきっと自分の居場所を見つけられる日が来るから」


 横川の姿が小さくなっていく。僕はいつまでもそれを目で追っていたかったけれど、眩しさのために叶わなかった。陽の光に呑まれて、海は消えてしまった。


 雨が止む。


 僕は海岸線を振り返り、海原に掛かる虹を見た。

 晴れた空を仰いで、僕は頬を伝う雫が涙だったと気が付いた。同時に気付いてしまったこと。妬みと寂しさに紛れ込ませて、気付かないようにしていたことが、今さら僕の背中を押した。


「――嫌だ!」


 僕は叫んでいた。海に向かって。潮騒に掻き消されないような大声で。


「さよならなんて嫌だ! 会えなくなるなんて嫌だ! 僕は絶対に君に会いに行く。絶対にもう一度、君に会いに行くから!」


 凪いだ海は答えなかった。



***


 自分で言うのはなんだけれども。渚沙が海に還ったあの日から、僕は見違えるようになったと思う。僕はもう嘆かない。捻くれない。クラスに居場所がなくっても、家に居場所がなくっても、そんなことは気にしない。


 僕はきっと人魚のようには泳げない。海底の国なんて信じられない。けれど、君が「ある」と言うのなら、僕は地上の人間らしい方法で見つけ出そう。僕の今の目標は海洋学校に進むこと。そして、必ず渚沙に会いに行く。

 

 僕の居場所は、海だ。

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うみがおちる 祇光瞭咲 @zzzzZz

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