第3話 うみにかえる
空を泳ぐ横川渚沙の姿は、地元で小さなニュースになった。でも、それ以上にセンセーショナルなことが多過ぎて、あまり広がらずには済んだようだ。大人たちは絶対に真似しないようにと厳しく言い含めたけれど、端から誰も真似しようなんて思わないだろう。ほんの少しでも彼女のように浮かび上がることができた者はいなかったのだ。
海が落ちてきて数日が経ち、少しずつわかったことが増えていった。まず、あの魚たちに触れることはできないということ。それから、この現象が確認されているのは日本だけだということ。あくまで一時的なものであって、そのうち終息するであろうこと。
いくつかの国際機関が共同で出した調査結果によると、今回の事態は先月太平洋に落下した隕石の影響によるものらしい。かなり大きな隕石だったため、地球の地軸がほんの少し角度を変えた結果、太平洋と日本上空の座標に重なりができてしまったというのだ。記者会見ではもっと複雑な用語を並べ立てていたけれど、辛うじて僕にも理解できた内容はそれだけだ。
およそ一ヵ月。僕らは海の虚像と共に生活を続けた。
図らずも、僕たちは太平洋の生き物に随分と詳しくなった。海洋学者は狂喜乱舞したのではなかろうか。海底には様々な異形の生き物が歩いているし、角を曲がった途端、巨大なクジラの死骸に遭遇したこともある。昼間はキラキラとして綺麗な魚ばかりだが、夜になると空を泳ぐ魚の種類も変わって、恐ろしい形相の深海魚が見られることもあった。
SNSは撮影された魚の画像で溢れ返った。珍しい魚を見に行くツアー商品なんかも開発されて、ちょっとした地域産業になったりしたらしい。この現象が期間限定だとわかっていることもあり、皆は余さず楽しもうと全力だった。
横川渚沙は毎日毎日泳ぎ続けた。
一ヵ月が経つ頃には泳ぎ方も上達して、白い脚を滑らかにしならせる姿はまるで人魚のようだった。
知り合って間もないわけだけれど、僕は彼女がこんなにも鮮やかに笑う人だとは知らなかった。自由に空を泳ぐ彼女に惹き付けられる反面、居場所を見つけた彼女が羨ましくて、ズルいと思ってしまう心は隠せない。
「おおい、横川」
僕はあの日と同じ堤防の上に立って呼び掛ける。ここは空が広いからと、彼女はこの海岸の上空を泳ぐのが好きなようだった。
「テレビ見たか?」
呼び掛けに応えて降りてきた彼女は、手早く髪を整えて首を傾げた。
「何かあったのか?」
「明後日くらいだって。この現象が終わるのは」
僕は、彼女が表情を曇らせると思っていた。いや、むしろ、そうなることを望んでいた。けれど、彼女はほんの少し表情を硬くしただけだった。
「そうか」
「……がっかりしないのか?」
「だって、はじめからわかっていたことだからな」
彼女は言った。
「私は、海と共に還るつもりだ」
「……えっ?」
「やっぱり、ここが私の居場所なんだ。魚たちと泳いでみてわかった。海は私を迎えに来てくれたんだと。だから、私は海と共に還る」
「それは――」
命を絶つ、ということじゃないのか。
蒼褪める僕を見て、彼女はふふっと小さく笑う。
「違うよ。君が思っているようなことじゃない」
「でも、海に還るっていうのは……」
「イルカたちが教えてくれたんだ。海の底には人魚たちの国があるって」
なおも怪訝そうな僕の隣で、彼女は膝を抱えて座った。
「……私はね。本当は海に生まれるべきだったんだと思う。それなのに、間違えて地上に生まれてしまった。だから、還る。本来の私の居場所に」
居場所。
その言葉に、僕は何も言えなくなる。
心の中がチクチクと痛んで、それでも、彼女を否定することができなくなってしまった。居場所を切望する気持ちは十分すぎるほどにわかる僕らだったから。
そんな僕を見る横川の笑みは優しかった。
「そんなに私が心配なら、見送りにきてくれないか?」
「え……」
「海が還る時、またここで会おう。それがきっと私たちが話せる最後だから」
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