第2話 うみがおちる

 気象庁からの緊急発表があってから、ワイドショーはそのニュース一色になった。


 海が落ちてくる。


 あくまで気象現象の一環だというけれど、地球上のまだ誰も体験したことがないのだ。様々な憶測が飛び交い、世紀末にも似た終末論がSNSを賑わせた。地球最後の日だなどとうそぶいて、悪事を働いたり、大胆な行動に出たりする者も少なくはなかった。


 ところが。

 気象庁は正しかった。


 海はバケツをひっくり返したような大雨と共に落ちてきた。あまりの豪雨に、このまま本当に海の中に沈んでしまうのではないかと思ったほどだ。にもかかわらず、蓋を開けてみれば、日本中のどこも水害を被っていなかったというのだから、普通の雨ではなかったのだろう。


 雨が止み、避難勧告が解かれた朝。

 そこには見たことのない光景が広がっていた。

 悠然と空を泳ぎゆく無数の魚。小鳥たちの代わりにマンタが羽ばたき、青や赤や銀の魚たちが華やかに螺旋を描く。歓声が上がった方角を見れば、ジンベエザメが洞窟のような大きな口を開けてゆっくりとこちらに泳いできていた。逃げ回る小魚たちはまるで花火のようにも見え、刹那ごとに集合体を変えていく。


 海だ。

 そこには遥かなる大洋があった。


 魚が空を泳ぐこと以上に奇妙なこともないが、それでもやはり不思議だったのは、泳ぎ回る海洋生物たちの彼方に今までと同じ太陽が昇っていることだった。燦燦と降りしきる日差しを浴びて、魚たちは気持ちよさそうに空を舞う。


 学校でもその話で持ちきりだった。僕も誰かと見てきたものを共有したかったけれど、こんな異常事態があった時でも、誰も僕に話し掛けてはくれなかった。僕といえば、机で特技の寝たふりを続けながら、クラスメイトたちが語る話に耳を聳てていた。


 気になっていたのは、横川渚沙の反応だ。海に憧れ、海を求めていた彼女は、この現実をどう捉えているのだろう。

 教室での彼女はいつもと何ら変わりないように見えた。窓際の席で頬杖をつき、窓の向こうを行き交うイワシの群れを目で追っている。


 昼休みになって、いざ勇気を出して横川に話し掛けんと席を立つと、彼女は教室から出て行ってしまった。僕も急いで後を追う。

 行先は屋上だった。普段は立ち入り禁止になっているが、考えることは皆一緒。僕らの他にも先客は沢山いて、皆が呆気に取られて空を見上げている。地上から見上げるよりも距離が近くなった魚たちは、僕らを見ると怯えたように逃げて行った。


 横川渚沙は屋上の端にいた。フェンスにしがみ付くようにしてしゃがみ込んでいる。見つめる先にはイルカの群れが、眩しい正午の太陽を背に泳ぎ回っていた。

 僕が近付いていくと、彼女は空を指差した。


「見たまえ、湊くん」


 あれはタチウオだろうか。特徴的なフォルムの魚が、背びれを波立たせて浮いている。


「どうして銀色の魚が多いのかよくわかるね。光を反射させてカモフラージュしてるんだ」


 確かに、陽を受けた魚たちはキラキラと輝いて、時に光の粒となる。僕は眩しさに目を瞬かせた。


「よかったな、横川。海の方から来てくれたじゃないか」

「渚沙、と呼んでくれたまえよ」

「え」

「海の中では、私はただの私でありたいんだ」

「え、あ……渚、沙?」


 練習のように口の中で呟いてみる。途端に顔が熱くなる僕を彼女は笑いながら振り返った。その笑顔は僕の心にこびり付き、僕はしゃっくりを呑み込んだみたいになった。


 横川が立ち上がる。彼女はフェンスに上履きを引っ掻け、一息にてっぺんまで登り詰めた。屋上にいた他の生徒たちもそれに気付き、慌てふためく気配がした。


「お、おい!」


 彼女はフェンスのてっぺんに腰掛けるようにし、いつかのように黒い髪を靡かせた。


「……イルカはどうしていつもあんなに幸せそうに泳げるんだろうな」

「何言ってんだよ、やりすぎだぞ! 危ないから降りろよ!」

「大丈夫だ。私には、わかるんだ」


 横川はフェンスの上で身を起こすなり――その上体が大きく傾ぐ。


「横川!」


 叫んだ声は他の大勢の悲鳴に掻き消された。

 落下した彼女の体は一瞬で僕らの視界から消えた。無惨な音が聞こえるのだろうと身を硬くする。しかし、それはいつまでも聞こえてこなかった。


「あっ!」


 誰かが叫ぶ。

 僕はハッと顔を上げた。影が僕の頭上を横切っていく。


 横川が浮いていた――いや、泳いでいた。大空を悠々と。イルカの群れが彼女に気付き、好奇心も露わに鼻先を向ける。彼女は両手を差し伸べてその輪に入り、空中でくるりと一回転してみせた。キュイキュイと鳴くイルカの声が聞こえた気がした。


 空を泳ぐ。

 魚になって。イルカになって。白い雲の間を薙ぐように、横川渚沙は泳ぎ続けた。



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