海と雪と、あなたへ

海と雪と、あなたへ

全てはあっという間で、冬の寂しい季節と同時に過ぎ去っていった。


高校二年生の秋のことである。


陽が明るく照らしていた午後三時、私は隣町の公園に来ていた。


その日は午前中に授業があり、午後から模擬試験が予定されていたが、最近の勉強に対するストレスから、体調不良を理由に午後の授業を早退してきた。これが人生で初めてのサボりだった。


公園に入ると、中央にある大きな池に向かった。池の周りにはイチョウやケヤキが並び、その下に散らばる枯葉には、木漏れ日が優しく降り注いでいた。しばらく鯉を眺めていると、近くの枯れ草の広場で犬を散歩させる人々や、子供たちの笑い声が聞こえてきた。


にぎやかな場所を避け、静かな休憩所を探して歩き始めた。


公園内の小道を歩いていると、少し冷たい風が吹き、茶色い葉が肩を掠めながらひらひらと舞い降りてきた。


身震いしながら、座る場所を探していると、道の端に大きなケヤキの木と、その下に小さなベンチが見えた。周囲に誰もいないことを確認すると、少し駆け足でベンチへ向かった。


枯葉を払いのけて座ると、最初は冷たく感じたが、しばらくすると暖かくなってきた。


何もせず、ただ空を見上げていると、時間がとても早く流れているような気がした。



                  *



しばらく目を閉じて座っていると、遠くから鳥の鳴き声が聞こえた。瞼を開けてみると、前方の少し離れたところに、小さなハクセキレイが歩いていた。彼は地面に落ちているイチョウの葉をつついていた。


彼が次第に遠くへ歩いていくのを、私は自然と目で追った。するとその先に、もう一つの大きなケヤキの木が目に入った。


目を凝らすと、木陰の下に、虹色のブランケットを地面に敷き、穏やかに眠っている少女がいた。彼女は隣町にある高校の制服を着ていた。


暫し遠くから彼女を眺めた後、何となく彼女の方へ歩き始めた。



                  *



木陰に入り、そばにあった ベンチに腰を下ろすと、私は本を読んでいるふりをして、気持ち良さそうに寝息を立てている少女を横目で見た。


上から零れ落ちる光が、ふとそよいでくる風によって、彼女の滑らかな白い頬を撫でた。閉じている目が光に照らされると、彼女は眩しそうに顔を顰め、片手で覆い、決して眼を開けようとしなかった。


公園に来てからはじめ、私は学校をサボったという罪悪感があったが、彼女の寝顔を見ていると、どうでもよくなった。金木犀の香りをのせた風がそよぎ、彼女の静かな寝息を見ていると、いつの間にか眠りに落ちていた。



                  *



何分経っただろうか。首が痛くなって頭を上げると、隣に彼女が座り、私の本を読んでいた。


「相変わらずつまらない本を読んでるね、花本。」


彼女は本に視線を落としたまま、静かに言った。横顔から口角がわずかに上がっているのが見えた。一瞬、彼女の瞼が長いまつげと共に下がると、視線がすぐにこちらへ向いた。


 花本―


それは私の姓だった。彼女がなぜ私の名前を知っているのか、一瞬動揺した。しかし、その声には聞き覚えがあるような気がした。


過去に私を姓で呼んでいた人。小学生時代の友人、美也子だった。


美也子とは中学校が別になってから連絡を取っていなかった。


なぜ、顔を見てもすぐに彼女だと気づかなかったのだろうか。

 

久しぶりに見る彼女の顔は、元々色白であったが、さらに青白くなり、ふくよかだった体は非常に痩せて見えた。小学生の頃はどちらかというと肥満気味で、白くてふんわりとした印象であったのだが、今はその面影を探すのが難しいほどやつれているようだった。


「あの、もしかして、美也子…?」


私は探るように尋ねた。すると、


「うん、久しぶりだね」


と、彼女がこちらを向いて嬉しそうに言った。


以前と変わらず明るい笑顔を向ける彼女を見て、少し安心した。私は、数年ぶりに再会した彼女に、まだ少し気まずさを感じながら、何とか話題を見つけて話した。


「美也子も、学校をサボったの?」


彼女は手に持った本を閉じて、静かに答えた。


「うん、最近はよくサボっているから、ここに来るんだ。」


私の視線は自然と彼女の手に留まった。袖から少し見える細い手首が光に照らされ、艶やかに輝いている。その手が僅かに動くと、指の一つ一つの関節が、透き通るような薄い皮膚で覆われ、はっきりと浮き出て見えた。


なぜこんなに痩せているのだろう。もしかすると、病気なのではないか。そんな憶測が頭をよぎった。


しかし、「なぜそんなに痩せたの?病気なの?」とは聞けずに、「なぜサボっているの?」と尋ねた。


「何となく、学校に行くのが面倒だから。」と彼女は答えた。


横から見たその表情は微笑んでいたが、声には少し寂しさが含まれているような気がした。


私は「そっか。」と返事をすると、そこから何を話していいか分からず、ただその場に座っていた。そして、辺りが暗くなり始めたころ、互いに「またね。」と言って別れた。



                  *



その後、学校をさぼった日に公園を訪れると、必ず彼女に会った。場所はいつもケヤキの下で、試験期間中に授業が早く終わると、眠っている彼女の隣で勉強をした。



                   *



冬休みに入ると、私はいつものように本を持って公園に行った。


ケヤキの下のベンチへ向かったが、そこに彼女の姿はなかった。 その後も、冬休みの間に毎日公園に訪れたが、彼女が来ることはなかった。



                  *



彼女に会わないまま冬を越し、三年生になった。 受験勉強で塾に通い始めた私は、毎日学校に通いながら忙しい日々を送っていた。 そうして、公園に足を運ぶことはなくなっていた。




ある日、学期末テストを終えた秋の終わり、久しぶりに公園の横を通りかかり、ケヤキの下のベンチへ向かうと、そこに彼女の姿があった。


私は、初めて彼女と再会した時のことを思い出した。


あれは秋の木漏れ日が穏やかに降り注ぐ、気持ちの良い日だった。


あの日と比べると、少し強い風とともに上から落ちてくる光には、温かさを感じられず、むしろ、冬の始まりを告げる寂寥感があった。


もしかすると、彼女の姿がそう感じさせたのかもしれない。


彼女は力なくベンチに座り、眠気に誘われたのか、長い睫毛を伏せてウトウトしていた。


私は、彼女を起こさないように、静かに隣に座った。すると、私の気配に気づいたのか、彼女がゆっくりと瞼を上げてこちらを向いた。そして、少しかすれた声でこう言った。


「あ、来てたんだ、久しぶり。」


その声は小さく、少しだけ弱々しかった。


「ごめん、起こしちゃった?」と尋ねると、彼女は「ううん、大丈夫だよ。」と答え、明るい笑顔を見せた。


私はそのとき、何を言えばいいかわからずにいた。彼女も言葉を発することなく、ただそこに俯いて目を瞑っていた。


暫く互いに何も話さず、静かな時が流れた。


そのまま辺りが暗くなり始めた。そろそろ帰ろうと思っていると、彼女が静かにこう言った。


「人は死んだら灰になって、海に散り散りになってしまうんだって。」


暗くて表情が読み取れなかったが、その声はとても寂しそうだった。


このとき、もしかしたら彼女は死んでしまうのではないかという考えが頭をよぎったが、返す言葉が見つからず、取り合えず、こう答えた。


「そうなんだ…。」


なぜこのように言ったのか、今でも後悔している。


彼女ともっと話をしておけば、あんなことにはならなかったかもしれない。



                  *



その日から 一週間後、公園から六キロ先の海岸で、美也子の亡骸が見つかった。


溺死だったと聞いた。


その日、私は電車に乗って海岸へと向かった。


海には誰もおらず、ただ、波がザザーッと音を立てているのみであった。


しばらくすると、粉のような雪が舞い始めた。



                  *



それから一年が過ぎた。


私は、彼女が亡くなった日に、再び海岸へと向かった。


それは、彼女がどのような思いで公園へ訪れていたのか、何を思い海へ入っていったのか、どうしても知りたかった。


海岸にはあの日と同じで、誰もいなかった。


上着を脱ぐと、靴を履いたまま片足を水に浸けてみた。


冬の海は冷たすぎた。


思わず足を引っ込めた。


濡れた砂の上をゆっくりと歩いていくと、片方の靴は海藻に囚われて失い、足裏の感覚は海水へと溶け出し奪われていった。


上半身を覆う大気は、皮膚を貫き刺すように冷たかったが、潮に触れている部分は温められていく感覚がした。


心は既に空っぽであるのに、体は重く沈んでゆく。


無限に続く海の先を見遣ると、彼女を思った。


「人は死んだら灰になって、海に散り散りになってしまうんだって。」


あの言葉が頭を離れなかった。


さらに足を一歩踏み出すと、急に波が激しくなった。


水が前方から押し寄せ、足首を一気に覆った。


冷たい感覚が次第に上半身へ上がってきた。


すると、その感覚とともに、ある感情が湧き上がってきた。


それは、言葉では表すことができないほど、悲哀に満ちた感情だった。


後悔、怒り、悲しみ、憎しみ、これらの感情が混ざり合い、激しく体中を覆いつくした。


次第に「苦しい」という言葉すら考えられないほど、呼吸を遮られた。





気が付くと、両目から涙がこぼれていた。


涙をぬぐう暇もなく、痛む胸を両手で押さえていると、さらに荒波が押し寄せてきた。


その弾みで、岸に押し戻されそうになったが、 両手で水をかき分け、何とか体勢を保った。


いつの間にか、水は胸の辺りまで達していた。


私は、胸の痛み以外の、体すべての感覚を失っていた。


また、心のどこかで彼女に会いたいと思っていた。




依然として波は激しく、私は視界が霞んだまま沖を見た。


そして、ある人影をとらえた。


ひとりの少女だった。


彼女は波に動じることなく、静かにこちらを見ている。


彼女は小さく、まるで小学生のようで、肌が白く、顔はふくよかだった。


美也子―


私がよく知っている、あの頃の彼女だった。


彼女に謝りたい、なぜ死んだのか知りたい、私はいくつもの言葉を頭の中で巡らせた。


そして、右手を彼女の方へ伸ばし、重い水の中を歩いた。


彼女の手を掴みたい一心で、必死に足を動かした。



彼女は体の半分まで浸かった海から、こちらを見て動かなかった。


やがて、水が肩を覆う所まで辿り着くと、彼女の顔をはっきりと捉えることができた。


美也子は微笑んでいた。


とても幸せそうであり、悲しそうでもあった。


私は手を限界まで伸ばしたが、まだ遠かった。


ここから声が届くだろうか、そう思いつつも、雪解けの滴りのように澄んだ彼女の瞳を見ると、私は声の出し方を忘れていた。


やがて呼吸が少し落ち着いてくると、それを待っていたかのように、波が穏やかになった。足元が海底に着くかつかないかの状態であったのが、はっきりと岩の上に足裏がついたのが分かった。


そのとき、声の出し方を思い出した。


「ごめ……」


と言いかけると、彼女が遮るようにしてこう言った。


「ごめんね…」


彼女の瞳からは、大粒の涙が零れていた。 顔は微笑んでいた。


私は咄嗟に首を振った。彼女の顔を見ると、さらに胸が苦しくなった。


「私が話を聞いていれば…。」


そう言うと、彼女がさらに目尻を細め、微笑みながらこう言った。


「花本のせいじゃないよ。公園で会えた時は、とても嬉しかったよ。」


私はそれを聞いた瞬間、安堵と愁いの感情が同時に浮かび上がり、再び視界が潤んだ。


その間に彼女が続けた。


「自分を責めないで。」


私は何も言えなかった。ただ涙が溢れ続けた。

 


そうしている間に、波が強くなった。


波に呑まれ、息ができなくなった。何か言いたいのに、声を出すことができない。彼女のもとへ必死に手を伸ばすが、徐々に体が引き離されていく。


その時、態勢を崩し、腰が砂の上についた。水面から何とか顔を上げると、遠くから彼女の声が聞こえた。


「私の分まで生きて。」


そう言っていた。


私は、心の中で何度も頷いた。そして静かになった海を見渡したが、既に彼女の姿はなかった。



                  *



雲間から月明りが零れ、穏やかに揺れる波の背を照らした。


雲が光を遮り、世界を闇で覆うと、雪が静かに舞い降り始めた。


あの日、公園で過ごしたわずかな時間を巻き戻すことができるなら、もう一度彼女に会いたい。


小学校の思い出話に花を咲かせたり、くだらないことで笑い合ったりしたい。


もしもあの時、海で彼女の悲しみを少しでも感じることができたのなら、公園で彼女の苦しみを少しでも和らげることができていたのなら、それは救いだったのだろうか。少なくとも、これからの人生で彼女を忘れることは決してないだろう。


「生きて。」


今はただ、その言葉を胸に、彼女が穏やかに眠っていることを信じるしかない。



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