その言葉に意味を足したい
芳岡 海
その言葉に意味を足したい
「気をつけてね」
森川さんが手を振ってくれる。私もちょっと振り返して、「ありがとうございました」と答えた。
バイト先の先輩の森川さんと、ご飯を食べに行くのは三回目だった。金曜日の夜。
最初はたまたまだった。
実家暮らしの私は夜ご飯に困ることはなかったけど、その日はたまたま父も母も外に出てしまっていて、私は自分のご飯を自分で用意する必要があった。退勤後に近くのファーストフードに入ったら先輩とばったり会った。
「あれ、ゆりちゃん。お疲れ」
彼が私を見て言った。年は一個上の、アルバイトの歴はもっと長い先輩だった。
なんとなく、一緒に食べる流れになった。二人で食事をしたことはそれまでなかったけど、他の先輩に誘われ、バイトメンバー四人ほどで飲んだことは少し前にあった。
夏の夜。店は混んでいて煩かった。森川さんはバイトの制服のシャツをTシャツに着替えて、荷物はくたっとしたトートバッグだった。軽装に手首の武骨な腕時計が目立っていて、今までそれをシフト中にしていたかどうだったか、私には思い出せなかった。
ばったり出くわしてしまった後輩の私を過度に気遣うことなく、森川さんは気楽な様子だった。二人で食べているのと、当初の予定であった一人で食べる気分の半々でいるように見えた。ポテトを黙々と口に運んだかと思えば、他愛のない思い付きの話を私に喋った。時折声を上げて笑い、私の目を何度か興味深そうに覗いた。
声は大きくなく、どちらかといえばぼそぼそと喋る人なのだけど、改めて向かい合ってみるといろいろな話題が出てくる人なんだと、私はそこで知った。
「電車?」
外に出ると店の前で聞かれる。そうですと答えると、
「じゃ、僕こっちなので」
森川さんは喫煙所を指して言った。気温は生ぬるく、週末の道は人通りが多く、暗いだけでまだ昼みたいだった。
「お疲れさまでした」
「うん。気をつけてね」
私が挨拶すると、煙草を持っていない方の手を、ひら、と振ってくれた。
それが金曜日の夜だった。翌週に「また行こうよ」となったのは、森川さんが誘ってくれたからだった。
食事系もそれなりにおいしいから、と二回目の金曜は森川さんが選んでくれた居酒屋に行った。おそらくチェーン店なのだけど私は入ったことがなかった。
半個室のテーブルに向かい合って座ると、森川さんは「ゆりちゃんお酒飲めるっけ?」と私に聞く。
「前飲んだじゃないですか。笠原さんたちと」
「あ、そうだったね」
そこまで悪びれることもせず、森川さんは軽く答えた。またみんなで飲みたいね、ともひとりごとのように付け足した。
バイトメンバーの中では一応喋る方ではあったと思う。業務を教えてもらうことも何度もあった。
それは森川さんが誰とでもフランクに喋れてしまう人だからであり、私が話しかけやすい後輩の新人の女の子だからだった。
バイト終わりという状況が前回と同じだからなのだけど、森川さんは今日も前回と同じようなTシャツに腕時計をしていた。片手でぱらりとメニューを眺め、それほど悩まずグラスの生ビールを注文した。私はレモンサワーにした。生のレモンを切ったのがごろごろ入っていて、それを見た森川さんは「ボリューミーだね」と、ウケ狙いというよりはひとりごとに近い調子で言うから、私がちょっと笑った。お酒も食事も美味しかった。
◇
映画のタイトルを検索すると、映画のあらすじやレビューサイトの一覧が現れた。
二回目のご飯のとき、森川さんは最近見た映画の話をしてくれた。グラスのビールを飲み干したあとは「もういいかな」と言ってアルコールは頼まず、オレンジジュースを頼んでいた。
検索結果のタイトルだけを目で辿っていく。少し前のアメリカの映画だった。起用された日本人女優がアメリカで助演賞にノミネートされたことで、話題になったことだけを私は知っていた。
他愛のない話ばかりの中、なぜ森川さんがその映画の話をしてくれたのかわからない。他愛のない話の一つとしてくれただけかもしれない。でもなんとなく気になって、こうしてあとになって調べている。
人との繋がりを感じられるような話、と森川さんは言っていたけど、検索結果をパッと見たところあまり心温まる系には見えなかった。ジャンルには「ドラマ」とあった。
映画が知りたいのではなかった。森川さんの好きなもの、興味を持ったものが知りたいのだった。
シフト中はベテランバイトの笠原さんがよく喋るので、自然と私も森川さんも聞き役になる。私はもともと自分の話をする方じゃない。それをわかってか元からそうなのか、それとも先輩としてなのか、ふっと二人の会話が途切れたときに話の穂を継いでくれるのは、森川さんの方だった。おかげで変に間がもたないということもなく、時間は楽しく過ぎた。
でも一回目を思い返しても二回目を思い返しても、思うのだ。森川さんは軽く返せる他愛のない話や、バイト中の毒にも薬にもならないこぼれ話、目の前にある料理の話はしてくれる。でも自分のことはそんなに話さない。私は、彼自身のことが知りたい。
それを認めてしまうと自分の考えていることは途端に至極単純明快で、難解極まりないことに思えた。
二回目の帰りは駅まで来てくれた。喫煙所はいいんですかと聞こうかと思ったけど、人をニコチン中毒扱いしているような気がしたのでやめて、素直に駅まで見送られた。
駅は週末の夜を過ごした人たちで混みあっていた。別れの挨拶を交わすグループがいて、急いで改札を抜けていく人たちがいて、柱にもたれて名残惜しそうに語らうカップルがいた。
「ありがとうございました」
改札の前で言った。たまたま会っただけの前回とは違い、今日はお店を選んでもらい、見送ってもらっている。お疲れ様です、ではなくて、ありがとうございました、だと思った。
「じゃあね」
ドラマチックなミュージックビデオか流し撮りのモノクローム写真のように、ざわめきの中に静かに佇んで森川さんは片手を挙げた。
「気をつけてね」
「はい」
私もちょっとだけ手を振り返してから改札に入った。
◇
見出しが目に留まり、映画の検索結果から一つのインタビュー記事をひらいた。
「私たち日本人は、日常的に『愛してるよ』とは言いません」
インタビューを受ける俳優がそう語っている。
「今回僕が演じた役は、愛しているはずの娘と心を通わせられない父親の役です。そのような間柄であれば、なおさら『愛してるよ』とは言わないはずです」
インタビューページには、映画のワンシーンの写真が差し込まれていた。娘を見送る父親の姿だった。俳優の話が続く。
「もともと脚本では、ここで『愛してるよ』と声をかけるはずでした。それを監督に直談判して『気をつけて』に変えさせてもらいました。日本語ならこう言うと思ったからです」
一回目と二回目があり、ちゃんと三回目があった。
場所はまた森川さんが選んでくれた。私はバイト先周辺に気の利いた食事の場所なんて、そもそもひとつも知らなかった。
四階建てビルの二階に入ったお店で、言われて来なければまず入れないだろうと思った。
ここ来てみたかったんだよね、と森川さんは言う。彼の気になるお店を下見するのに付き合う要員になれたらな、と考えたけど、さすがに望みが消極的すぎるし人任せすぎると自分で思った。
四人掛けテーブル四つにあとはカウンターの、小さな店だった。
テーブルの上でガラスの小さなキャンドルホルダーに火が灯り、カウンターにはリキュールの瓶が並んでいて、でも全体では肩肘を張らない雰囲気だった。テーブルの向かいで森川さんがいつも通りだったからかもしれない。やっぱりTシャツ姿で、今日に至っては財布と携帯だけポケットに入れた手ぶらだった。席に着くと腕時計を外して、テーブルの端に置いた。
「こんなにいいところじゃなくても私はいいんですけど」
ちょっと雰囲気に飲まれてそう言った。
「僕ももうネタ切れだよ。来週はサイゼリヤにしよ」
テーブルに肘をついてメニューに視線を落とし、森川さんは笑って言った。来週? と言葉に引っかかって頭がぼふっとなっている私の向かいで、自家製サングリアだって、とドリンクメニューをめくった森川さんが楽しそうに言った。
帰りはまた、駅まで送ってくれた。
週末の夜を過ごした人たちで混みあった改札で立ち止まる。
「美味しかったです」
「ねー。いい店だった。当たり」
二人とも今日はほんのりと酔っていた。私はカクテルを、森川さんはワインを選んだ。顔色には出ていなかったけど、彼の声の端が時折少しふわっとしていて、気分が良さそうなのが嬉しかった。
「じゃ」
私を見て、片手を挙げてくれる。荷物のないもう一方の手が暇そうにポケットに入っている。
「気をつけてね」
「ありがとうございました」
私も手を振り返す。もっと相応しい言葉があるだろうか、と考えて
「森川さんも、お気をつけて」
と返した。それ以上のことは言えなかったし聞けなかったけど、私のその言葉に、彼のその言葉に意味を足したいと思った。人ごみの中で、笑って手を振ってくれる彼を見つめた。
(※登場する映画は、何年も前に読んだ「バベル」という映画の役所広司のインタビューなのですが、記事を改めて探しても見つかりませんでした。それを元ネタにしたフィクションとしてお読みください。)
その言葉に意味を足したい 芳岡 海 @miyamakanan
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