壱(1)


 時は室町。京の都が応仁の乱の渦中にあった激動の時代。房総半島に位置する安房国の隣国――色沢国に、一人の男が足を踏み入れた。長い赤髪に緋色の瞳を持った優男で、編笠を被り、背中に荷物を背負っている。


「ここが、色沢国いろさわのくに……ですか」


 道の途中に建てられていた看板、そこには「ここより先、色沢国」と書かれている。男は立ち止まり空を見上げた。道を挟むようにして広がる森、その木々の緑の間から見えるは美しい青空。


「見事な青ですね……。まさに澄んでいるような空だ」


 誰にも聞こえないような小さな声で呟いたあと、少し赤みがかった黒色の着物を身にまとった彼は、荷物を背負い直して歩き出す。


 男の名は、鴇羽蘇芳ときは すおうと言った。歳の頃は、二十代後半というところだろうか。見た目からは旅人だということしか分からない謎の男だ。――――そんな彼の様子を、こっそりと見ている者が一人。








「こんな真っ昼間から、あの男は何をキョロキョロしてるんだ?」


 国境付近の道端の木の上、鬱蒼と茂った葉の間から、蘇芳を睨みつける男。本当は空を見上げていただけなのだが、彼は旅人に対して変に疑いをかけ始める。


「しかもあの、! 間違いねぇ……あいつは間者スパイだ」


 コソコソと木の上に隠れて国境を見張っている彼の方こそ怪しいのだが、それには気付いていない様子。


「よし、見張っておこう。何か少しでも動きを見せたなら俺が成敗してやる!」

 

 彼は蘇芳が道を行くのに合わせて、音もなく次の木へと飛び移った。








(先ほどから何やら見られている気が……)


 蘇芳の方もまた、自分自身へ注がれる疑いの視線の気配に気付いていた。


(はて、何者であろうか)


 蘇芳の前と後ろに、道を行く人は居ない。だとしたら、森の中……それもおそらく木の上から此方を見てきている。


(なるほど、敵を高い位置から見張っておく……か。がやりそうな位置取りの手法ですね)


 しかしあくまでも蘇芳は、気付いていないふうを装って歩く。ただ前を見て、まっすぐに。


(忍びだとしたら……まさか警戒されているのでしょうか)


 しかし、ただの通りすがりの者をいちいち見張る奴が何処に居るというのだろう。今の蘇芳は、ありふれた旅人装束。さして怪しい恰好ではないはずなのだが。


(まあいい。気にしないでおきましょう)


 蘇芳は足早になる――と、そのとき。



「キャァァァァ!」


 木々に囲まれた静かな空気を、切り裂く悲鳴。蘇芳は足を止める。


(……? 今、どこかから女子おなごの叫び声が……)

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