読まれなくても書く心理とは

八軒

読まれなくても書く心理とは

 読まれたいんだ! を否定する意図は一切ありません。むしろ世間の主流はそっちで、カクヨムで見られる創作論も読まれるためにはというのが殆どだし。


 あたりまえだよな。表現というのは見られて読まれて個々の中でインスタンス化されて個々の捉え方をされてなんぼみたいな所があるから、読まれたいという欲求は自己承認抜きでも理に適ってるし、自己承認要求だって何も悪くない。自己承認要求で伸びる人はがんがん読まれたいんじゃー!してけばいい。


 逆に「別に読まれなくてもいい、書きたいんだ!」なんて言ったら「何青臭いこと言ってるの?」と笑われるのが関の山だろ。そんなカッコ悪いこと言いたくない、近況ノートにだって書きたくない、そんなこと言ってる暇あったら筆を動かせよなので。


 だからこそ、あえて、書きたいんだ派の気持ちを楽にするようなエッセイをこっそり置いておく。俺がカッコ悪いのは、これを書く書かない以前に明白だし、誰もそんなこと気にしてないしね。


(そもそもこの文書が読まれるのかについては、十万字書く覚書がちまちま読まれてることから、このジャンルは結構掘り起こしがあるのでは? という推測から書いてる)



「自己承認要求は本能だし素直だ。じゃあ書きたいんだ派は建前なのか?」


 答えは NO だと俺は考える。


 年始年末、大脳辺縁系から大脳基底核に関する論文を読み漁ってたら終わってたんだが、結論から言うと生物には自分を鍛えたいという本能がある。

 これだとまだ抽象的で高次な機能に思えて本能と言われてもピンとこないかな。もっと根源的な言い方をするなら〈生存と繁殖に必要な行動をより的確に遂行しようと学習する機能が生物にはある〉ということだ。


 同じ走るでも、より上手く走れる個体の方が生き残れる。

 狩りの仕方みたいなものがさ、どういう時はどう追いかける、仕掛けるタイミングはどうするとか。細やかなことに至るまで脳内に始めからインストールされてるというのはちょっと無理がありそうだろ?

 より上手くなるを基本方針として、最小限のセットから学習していった方が実装としてスマートだし、環境の変化にも適応できる。

 子猫は遊びながら身体の動かし方や狩りを学ぶよな。


 好奇心なんかも高次の情動のように思われがちだが、その発生はかなり原始的だ。自己を取り巻く環境の中から動くものや新しい情報に反応し、これを情動と結びつけ的確な選択をする。餌がなくなったとき、能動的に探索をする。生存と繁殖に必要な合理的な機能だ。


 ヒトも含めた生命の脳の基本的なシステムは〈より高い報酬が得られる選択をする〉ように作られてる。この報酬というのは、食べ物に代表されるようなモノだけでなく、次の行動がより有利になるような状況或いは情報も含まれる。

 そのために、脳の基本的システムには、自己の生存と繁殖に必要な状況を報酬と記録し、どの行動をすれば報酬が最大になるのか確率に基づいた算出をする仕組みがある。

(興味のある方は強化学習や TD 誤差などで調べてみてください。AI の話と脳科学の話が一緒になってて??なるかもですが、そのくらい生物の脳は合理的だということです)

 

 砕けた言い方をすれば、我々は自分が知性でどう思っていようが、原始の時代から生命が積み重ねてきた〈より高い報酬と記録されているもの〉に気持ちよくなってしまう仕組みがあるってことだ。


 子猫が遊ぶのも、身体能力は生きるのに必要で、それを身につけるための行動、身体を上手く使えることに脳は快を感じるからだ。

 Twitter を見る手が止まらなくなるのも、怖い思いをしてまでホラー小説を読み進めるのも、本能のレベルで新規情報――すなわち不確実性の解決が報酬と結びついているからだ。

 いわゆる麻薬、依存性のあるものは報酬のシステムにフックするものが殆どらしいよな。


 まーなので、生物が〈自分が強くなる〉とか〈自分が上手くなる〉のに脳汁出るのは綺麗事ではなく当たり前なのだ。あと〈状況を自分の制御下に置きたい〉とかもそう。車の運転が上手くなるのは気持ち良い。

 むしろ、自己承認要求なんて生物が群れを作り社会的な情動が分化してから生まれたものだろうから、〈自分が強くなったのを感じたい〉要求の方が原始的なんじゃないか。知らんけど。


 あなたがゲームをするとしよう。「上手くなるのきもぢいい〜 練習しよ」と思ったならそれは本能に素直な真っ当な欲求だ。堂々とやればよろしい。「遊びに何ムキになってるの」とか「それ楽しいの?」とか捨て置け。


 よく「上手くなるより楽しめ」とかあるけど、〈自分が上手くなる〉ことで得られる脳汁に慣れてる人だと、上手くなれないとそもそも楽しみにくい。


 ゲームをすれば、殺されっぱなし。

 絵を描けば、好きなキャラを描いたのに謎のクリーチャーにしかならない。

 小説を書いてみれば、言葉が出てこず一日かけて五百字も書けない。


 これ楽しいか?

 楽しい人もいるんだろうが、俺はこれダメなタイプだ。そういうときは手っ取り早くスキルあげて「上手くなるのきもぢぇぇ〜」してついでに「上手くなって勝ててきもぢぇぇ〜」してついでに「上手くなって見てもらえて褒めてもらえてきもぢぇぇ〜」した方がいいんだよ。俺にとってはな。他の人は知らん。


 絵はなー、小説よりずっと拡散のハードル低いので、上手くなれば大体それに応じて反応も得られて自己承認要求も満たされるんよね。なので〈上手くなる脳汁〉だけで息を繋ぐ期間は短い。

 小説はそうはいかないので、向上心が高く且つ読まれたい要求が高く計画的に市場にマーケットインしていく相当にできた初心者でないかぎり、〈上手くなる脳汁〉だけで息を繋ぐ期間が長くなりがちなんじゃないか。


 特に、自分みたいに「スコッパーやってきたけど、こういうのよみてぇって癖のがマイナーすぎて無いんだよな……しゃあねぇ自家発電するか」って動機で書き始めたタイプなら尚更だ。

 テンプレや人気ジャンルは自分で書かなくてもあるのでそれを読む。俺は別に反テンプレとかではない、むしろかなり読んでる。読んでるからこそ、殆どのジャンルは自分で書く必要がない。探せばあるからな。で、限界村ジャンルを書くことになる。面白いかどうか以前に需要がない。


 似たような人はゼロではないだろう。

 そういうとき、自分の息を繋ぐのは〈上手くなる脳汁〉だ。

 その上手くなる、も何ていうか世間一般の標準化された上手さではなくて早い話が〈自分の書きたいものを書ける能力〉のことだ。


 これは絵も同じで、絵に関してはそれなりにやってるので自信を持って言わせてもらう。

 プロや上手い人が「うまくなりてぇぇぇ〜 俺はまだまだだ」みたいな事を言ってるのを見て「謙遜だろう」「嫌味な奴だな」って思うか?

 俺は思わない。あれかなり本気で言ってるだろうし、俺も常日頃そう思ってるから。あれはさ、世間の一般でいう上手さではなくて「俺が描きたいものにまだ届いてねぇ! 描きたいものをもっとすらすら描きてぇ!」って意味だから。多分な。


 描きたいもの描けない、書きたいもの書けないってストレスなんだよ。車の運転が下手な状態だよ。自分の身体が固くて上手く動かせないのと同じ。


 だから、自分が! 気持ちよくなるために! うまくなる! の!!!

 かきたいものをかけるようになるのが気持ちいいから、そうなるようにするんだよ。

 筋トレ楽しい!

 山レコにトレランの記録残すの楽しい!

 もう少しで初めて小説が完結しそうで楽しい!

 今日の俺は昨日の俺よりミリ強い。

 うは、脳汁出るッ!

 一人でニヨニヨして何が悪い。


「文章力より話の面白さが重要です」知らんがな!! 筆力ないから一日粘って五百もかけんかったのじゃ。それ楽しいか? 俺は楽しくねぇ。


 文章力以前、面白い面白くない以前だろ。書きたいものを書ける能力が欲しいんだよ。書きたいものがあるのに文にならないのが楽しくないんだよ。俺は。


 初めて筆を取った時からすらすら書けてるけど? って人はお帰りください。はー、うらやま。漫画でさえ大人になるまで殆ど読んだこともなく、文学や芸術と無縁な成長期を過ごし、高卒で、毎日ゲーセンに通って閉店後は仲間と峠に行き、いいおっさんになってから筆を取った俺にそんな素養はミリもなかったよ。


 まぁ、読み手が自分だけであっても、人間の認知システムは視覚や聴覚に比べると言語は個人のばらつきが大きそうとはいえある程度の共通点はあるだろうから(共通点が無いなら言葉は全く用をなさないだろう)自分が書きたいものを書けた時には、多少は他者にとっても意味のわかるものになっている可能性は高い。面白いかどうかは全く別だが。


 自分みたいな奴が「読まれねぇ〜」って愚痴ってたら「頭大丈夫か?」だけどさ。言ってねぇし。知り合いにも俺が小説書いてるとか(ほぼ)言ってねぇし。

 Twitter では「創作? ナニソレ食えるの?」みたいなフリしてるし。むしろバレたら恥ずかしくて死ぬし。


 ごく一部の知り合いと腐れ縁の友人には言ったけど、こいつ書籍化作家なんだよ、笑えてくる。第一の比較対象がハードル高すぎて草生える。しかもこいつ、うっかり俺のカクヨムアカウントツイートしやがって草アアアア。すぐ消させたし怒ってないけど恥ずかし死するかと思った。

 話がそれた。


 自分が気持ちよく書くために〈上手くなる脳汁〉で息継ぎしながら自分しか読まないものを書く。それの何が悪いってことだな。



 そんなものなんで公開してるの? という問いに対しての答えは、三つくらいある。


・折角作ったものには綺麗なべべを着せたい

 投稿サイトに上げると、自己出版ほどでなくてもなんかかっこつくから愛着も湧くよね。上げたらミスに気づく効果もある。


・自己鍛錬を公開することで交流がなくても同士が同じ時代にいるんだという同時性からモチベを得る

 pixiv に30秒ドローイングあげたり、ダイエットの記録黙々とあげたりするのがこれ。たとえソロプレイであっても、おなじ空の下にプレイヤーがいる MMO はオフラインとは気分が違う。


・万が一、必要な人がいるかもしれないという淡い期待

 人間なんだ、そのくらいの期待は抱いてもいいだろう?


 そんなところか。



// 非常に大事なことを書き忘れていたので、1月17日にもう一つ追記。というかこの理由が作品を公開するメインかも。当たり前すぎてうっかり書き忘れてた。


 文章に自信がないと「自分が書いているのはりんごのつもりだが他人にはそう見えるのか?」という状態に陥る。絵に例えるなら「何かデッサン狂ってそうだけどこれ以上は自分ではわからない」というアレだ。こうなると、他の人にチェックしてもらう他に効果的な手段がないし上達も止まる。なので公開する。


 自分の筆力に自信がもてず、目隠しのまま書き続けることに耐えられなくなるからだ。本来、表現というのは見るものの中に受け取られてインスタンス化されて完成するものなので、テスト環境が未熟な自分一人だと表現として成立してるのか不確かになってしまう。


 具体的には俺は十七万字書いたところで折れた。処女作で百万字以上ゆうに書き溜められる人もいるので、根気がなさすぎだとは思う。

「本当にこれは文になってるんだろうか。表現として有効なのだろうか。りんごはちゃんとりんごになってるんだろうか。誰でもいい、教えてくれ。否定的でもいい。反応があれば、表現として誰かに何かが伝わったことはわかるのだから」という気持ちに耐えられなくなって公開した。これは確かに「読まれたい」ではある。


// 以上、追記部分終わり



 一人で黙々と書いてるが別に俺はこれで楽しいもん!!って奴、もしいるなら楽しくやっていこうな。あなたは俺の作品を読まないし、俺も恐らく読まないが。書けるようになるの、楽しいからな。



――おわり――

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