第2話 イップス克服

プロテニスプレーヤーである錦鯉にしきごいけい(二十八歳)は現在は怪我のためにツアーを離れて療養している。その為、ATP(Association of Tennis Professionals)ランキングが一時期は日本人トップの世界最高四位であったものの、現在は四百位まで後退してしまっていた。身長百九十センチと大柄な錦鯉は、帽子を目深にかぶり、サングラスとマスクをして、地元大阪の古びた商店街の前に立ちふさがっていた。『本当にここにあるのかよ?』錦鯉は自分に問いかけるように独り言ち、斜めに傾いて錆びついた「幸福通商店街」の看板を見てため息をついた。錦鯉が怪我でツアーを離脱しているということは実は大嘘で、テニスを活動休止している真の目的はサービスが全く入らなくなった為であった。それどころかサービスを打つ瞬間になると大量の冷や汗と動悸が激しくなり、目眩にも悩まされ、テニスボールを握ることさえ覚束なくなっていた。あまりにもサービスが入らないので、肘を故障した振りをして、試合を棄権し、記者会見でも肘に違和感があるとコメントした後、療養に努めるので復帰をお待ち下さいと述べて一方的に会見を打ち切った。錦鯉は恥ずかしさと居た堪れなさで背中にものすごい汗をかいていた。顔も恐らくは真っ赤だったに違いなく、この会見内容を見直すことは間違ってもないなと独り言ち、ため息をついた。知人から聞いた精神科へ向かう足取りもやや重い。『幸福通商店街』から『幸福ケッコーコケコッコー、コケー』という冗談のような歌まで流れてきた。澱んだ空気に饐えた臭いに胸がムカつき吐き気がした。八割方が閉店やら休業中で占められた絵に描いたようなシャッター通りである。アーケードはビニールテントのような素材をワイヤーで固定し、合間をトタンで埋めている形になっている。所々破れも見受けられた。日中だと明るい雰囲気になっているが、もう屋根がボロボロでなくなって、残骸が釣り下がっている状態。空爆でも受けた跡地のようだ。天井のトタン板もあちこち外れている。 そんな中で、数店営業している店もあったが、掲示板に「災害時には、アーケードから離れてください」と書いてある。これでは営業する方もかなり危険だ。シャッター通りと化した商店街はよく見るが、ここまで廃れた商店街を見るのも珍しい。廃墟マニアにはたまらんだろうなあと、錦鯉は独り言ちる。澱んだ空気に漂う腐敗臭。風はなくひどく蒸し暑い。こんな場所で営業するなんてむしろ気が違っているとしか思えない。シャッターの閉まった店の前で酒盛りをする浮浪者達を横目に、錦鯉はスマホのナビで精神科の場所を探し始めた。スマホのナビが示した場所に、壁一面ピンク色で塗られた異様な建物があり、そこには「朝倉クリニック」という剥げかけた看板が飾られていた。『嘘だろ?』精神科病棟というよりも、怪しい雰囲気の漂う風俗営業のようで、錦鯉は目の前の異様な建物を呆然と眺めていた。『あの…』不意に声をかけられて振り返ると、オレンジ色のナース服を着た栗色の髪の小柄な女性が、たこ焼きを片手に不思議そうに錦鯉を見上げていた。『ウチの病院に何か?』咄嗟に問われて、ようやく此処が病院なのだと理解した。よく見ると整った顔をした美形の看護師は、黙って突っ立っている錦鯉を押し退けて壊れた自動ドアを両の手で力強く押し開けた。『先生ー、頼まれてた銀太郎のたこ焼き買ってきましたよー』あいよーという威勢のよい声が中から聞こえてきた。錦鯉は看護師に続いて病院の中へと入り込むと、ハードロックが爆音でガンガンにかかっていて驚きのあまり腰を抜かしそうになった。『ん?あんた誰?』たこ焼きを手にした白衣の美人女医から声をかけられ、錦鯉は慌てふためいた。『あ、あの、予約していた…』女医は目を細めて、マスクを外した錦鯉を凝視した。『あー、あんた、テニスの錦鯉選手やん』は、はあ…と狼狽えながらも錦鯉は女医に生返事をした。しかしよく見るとなかりの美人だ。化粧映えのする切れ長の目や、一重瞼、そして鷲のように高い鼻梁。輪郭も卵型、髪の生え際から眉まで、眉から鼻の下まで、鼻の下から顎下までが「1:1:1」の黄金比である。モデルが副業であっても全く違和感はないほどのスタイル。『うちもテニスしてるから、アンタの大ファンやねん。サインちょうだいよ』女医は手にしたたこ焼きに輪ゴムで挟んだ割り箸の箸袋を錦鯉に手渡した。『こ、これにサインをしろと?』『そやで』女医はなんの躊躇いもなく答えた。錦鯉はプロテニスプレーヤーになってからこんな屈辱を受けたのは初めてであった。不承不承ながら箸袋にサインをする。『あ、朝倉 紗緒さんへって書いてな』朝の朝と倉の倉と漢字の説明をされても錦鯉には全く分からない。『あー、もう、じれったいなー、貸して!』と筆を奪い、自分で箸袋に名前を書き出した。全くサインの意味が無くなり、錦鯉は大きくため息をついた。『で、どないしたん?』紗緒は割り箸を口に咥えてパキリと割ると、たこ焼きの蓋を開けた。ソースの香ばしい匂いが診察室に充満する。『あの?』『はい?』紗緒は目の前の患者に全く遠慮することなくたこ焼きをほうばり、美味しそうに咀嚼する。『やっぱあれやな、たこ焼きは、銀太郎が最高やな。味にうるさい大阪でも五十位にはランキングされるほどの腕前や』五十位という微妙な位置づけで自慢されても何も伝わってこない。『そもそも、あなたってさ、いったい何をされてる人なの?』紗緒からの唐突な質問に錦鯉は鼻白んだ。『何ですか?急に』『和田アキ子のモノマネ!似てるやろ?』いや、正直に言うと全く似てないとはとても言えない空気だ…『プロテニスプレーヤーです』と答えると紗緒は怪訝な表情を浮かべた。『いや、分かっとるわ!真面目か!』と手刀で頭をコツンと叩かれる。『で?何の用なのさ』と錦鯉に尋ねつつおもむろにタバコを取り出し口に咥えて火をつけた。『ちょ、ここって禁煙じゃないんすか?』『うそ?』紗緒は慌ててキョロキョロする。『いつ禁煙にしたん?』『いや、普通に診察室って禁煙でしょ』『それって禁煙外来だけちゃうん?知らんけど』知らんのかい!と錦鯉は心の中だけでツッコミをいれる。『サービスが入らなくて…』『オービスが覇気がない?』いや、どんな耳してんの?覇気が無いって、どんな速度違反自動取締装置だよ。スピード違反全部見逃してんのかよ。『サービスですよ!サービス!テニスのサーブのこと!』『ああ、サービスのことね。なら早く言うてや』最初から言っとるがな!と錦鯉は心の中だけでツッコミをいれる。『サービスが入らないって、いったいどうゆうことなの?』とまた自称和田アキ子のモノマネを交えてふざけた尋ね方をしてきた。『だからあ、イップスなんですよ!イップス』『イソップ?』どんな耳してるんだこの人は?『そうそう、「ウサギとカメ」とか「北風と太陽」とか為になる話が多い童話ですよねってそれ、イソップ物語や』錦鯉は苦手な分野ながらも無理やり乗っかる。『うわっノリツッコミおもんな』え?切れ長の瞳の美しい女医からな予想外の遥か斜め上の回答『そんなノリツッコミやったらM-1グランプリ一回戦敗退間違いなしやで。名前だけでも覚えてもらえる価値も無しや』いやM-1グランプリ出る気無いしプロテニスプレーヤーだしなんなら一般芸人の100倍くらいは年収あるんだが…『千鳥のノブの1000倍はおもんないで!今のノリツッコミ』いやだから、素人だっちゅーの。『千鳥のノブがフリーザやとしたら、アンタはヤムチャレベルやで』ええ?『いや、ヤムチャでもないわ。もはや飲茶やむちゃや飲み物や』いや、例えが崩壊しすぎて最早収拾がつかない。『イソップじゃなくてイップス!思うように身体が動かなくなるんです』ふむふむと紗緒は、診断書に書き込んでゆく。『要するに、アンタは繊細なんやな。それ故に、入れなあかんサービスが入らんわけやな』そう、その通り!やっと話が通じた。だから抗不安薬をください!と言おうとした瞬間に『なら、明日はラケット持ってさあ、深南緑地公園のテニスコートに集合!午後一時!』と言って追い出された。何で?薬の一つも出そうしない上に、翌日にラケット持参で、近所の緑地公園に来い!の意味がわからない。『私がアンタの指南をしたげるわ』指南するからって死なんでや!と一人でボケて一人で爆笑しながら、待合室へと追い出された。黙っていたら宝塚歌劇団に出てそうなくらいに美しいのに。『初診料846円です』受付にて、栗色のショートヘアの可愛らしい看護師に言われて錦鯉は財布からお金を出す。『あの…』『はい?』『ここってクスリくれないんですか?』『はあ…基本、そうですね。先生の方針で』どんな方針だよ。翌日の午後一時に錦鯉が深南緑地公園のテニスコートに行くと、紗緒はノリノリの本格的なテニスウェアでやって来た。『じゃ、試合しよか?』『え?』『え?やあらへん。こう見えてウチは学生時代はインターハイ出場…』『したんですか?』『を夢見てたんや』『夢かい!』『なんかツッコミ弱いな〜そんなんじゃウチには一生一勝もでけんで』紗緒はかかかと高笑いをする。全くこんな下品で無ければ文句なしの美人なのに…試合直前、紗緒はラケットの持ち手側で、レッドクレーのコートのサービスエリアに直径二十センチくらいの円を描いた。『景くんのサービスエリアはここな』『え?』『え?やあらへんがな。アンタはプロテニスプレーヤーなんや。ウチはしがない精神科医。これくらいのハンデはあたり前田のクラッカーや』此処に入れな全部が全部フォールトや!などと言うと、急に構えだした。やむを得ない状態で錦鯉がサービスを放つ。ズバーンと、百八十キロの高速サービスが、紗緒のサービスコート内に入り大きくバウンドした。ノータッチエースだ。しかも超絶久しぶりにサービスが入った。『フォールト』『え?』『え?やあらへん。此処に入れな全部が全部フォールトや』と紗緒は小さい円を指さした。二度も言わすなよと嫌味を言ってきた。『マジかよ?』『マジやで!甘えたらアカン、腐っても元世界四位やったんやろ!』『腐ってもとか言うな!俺はミカンじゃない!』バシッと二球目のサービスを放つとこれもサービスエリアに入った。『はい、フォールト!惜しかったなー』描いた円より僅かに右に外れていた。んははははと紗緒は高笑いをした。結局最初のサービスゲームは全てがサービスエリアに入ったにも関わらずラブゲームで落としてしまった。『次はウチのサービスやな。これもハンデとして、サービスエリアに入ったらフォールトで、逆にサービスエリア外やったらナイスサーブや。名づけて、「逆サービスエリアルール」や』言い終わるや否や紗緒はサーブを放つ。ボールは明後日の方向へと飛んでゆく。『はい、ノータッチエース』『はあ?』『言うたやろ。逆サービスコートルールやて』『あんなのとれるわけないじゃん』『プロテニスプレーヤーが言い訳するんか?』カチンときた。次はどこに打っても拾ってやる。そう思っていたら二球目はネットに引っかかった。『やったーまたサービスエースや』もう好きにしてくれ。気がつけばラブゲームで完敗したが、いつ以来だろうか、こんな楽しい気持ちでテニスをしたのは。円の中には二球しか入らなかったが、サービスは全てサービスコート内におさめた。フォールトが一球も無かったのだ。こんなことは幼少の頃のジュニアテニス以来の偉業であった。『しかしあれやな。プロテニスプレーヤーやいうのに、まだまだやな』試合後に紗緒と握手し、皮肉を言われたが、ツッコむ気はしなかった。むしろサバサバして何かを掴んだ気がしないでもなかった。ラケットをバッグにしまう際、紗緒は思い出したように飛び上がった。『あー、今日、二時から予約あったんやった。早う戻らな清美ちゃんに怒られてしまうわ。ほなサイナラ』紗緒はテニスバッグを担ぐとダッシュで駐車場の方へと駆け出した。『コート整備はしといてんか。診察の次回の予約もまた入れといてんか。今日のコート代は次回の診察代につけとくわ』『え?俺持ちなの?』『ツッコミが普通すぎる。そんなんじゃM-1グランプリ二回戦落ち確定やわ』紗緒は言い終えると振り返ることもなくテニスコートを後にした。

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処方箋を出さない精神科医 朝倉 紗緒 バンビ @bigban715

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