処方箋を出さない精神科医 朝倉 紗緒

バンビ

第1話 とんでも医師 

京阪本線F駅前から伸びる「F駅本通商店街」を5分くらい歩いていくと、突如として右手側にぽっかり口を開けている、超絶レトロな佇まいのアーケード商店街が存在する。その名も「幸福本通商店街」大阪府K市幸福町にあるのでこのおめでたい名前が付いているが、それとは裏腹に昭和な風情のまま朽ち果てた佇まいは、もはや薄幸としか感じられないほどにボロボロである。そしてその商店街に一歩足を踏み入れると既に並んでいる商店の多くもただ朽ち果てている。シャッター商店街もいいところである。一見すると廃墟に見えても全く不思議ではない異空間にここは本当に日本の第二の首都大阪なのかと勘ぐってしまうほどだ。F駅前には大型ショッピングモールもあるし、目の前のF駅本通を抜けた先には隣町のどでかいショッピングモールが鎮座している。要するに商店街が大手のショッピングモールに負けた街なのだ。「楽しいショッピング 幸福本通商店街」と書かれ、謎のキャラクターが描かれた商店街オリジナル看板もその廃れた雰囲気に華を添えている。この商店街で「楽しいショッピング」をするのは正直無理があるとしか言いようがない。しかしそれでも商店街に需要がある限り、イマドキの買い物客にはそっぽを向かれても、昔からの常連様相手に細々と商売を続けている店があるのだろう。歯の抜けた櫛状態の激廃れアーケード街に豆腐屋にお茶屋が仲良く二軒並んでいる。見た感じ8割以上の店が廃業してそのまま放置をかまされているような印象で、これでは幸福本通の名前負けで幸せのかけらを探すのも難しい。だが、とにかくその佇まいの渋い事。昭和40年代に遡り、府下ワーストの人口減少率は元々の自然減に加え「社会減」の多さを物語る。生活保護率の高さや福祉支出が財政を圧迫しており高所得者層は続々と街から出ていくという悪循環だ。「コウフクケッコー コウフクケッコー コウフクケッコーナトコー幸福商店街ー♪」女性演歌歌手のような声で歌われている商店街に鳴り響くテーマソングも虚しく鎮魂歌にしか聴こえてこない。コンビニエンスストアというものにも縁がなさそうな後期高齢者しか相手にしていない雰囲気の古びた食料品店などもちらほら残る中で、薄いピンク色で塗られた壁は如何わしいお店を想像させるような佇まいながら、看板には、『朝倉クリニック』と剥げかけそうな薄い文字で書かれている。しかも看板は外れかけてて斜めを向いていた。探していた精神科のクリニックは此処なのかと、念の為、スマホのナビをもう一度確認する。

『あ、あのぉ…』恐る恐る自動ドアを開けて、受付の方へと進む。待合室のスピーカーからは、スラッシュメタルのMETALLICAが爆音でかかっていた。普通はこういった病院て、リラックス出来るように、クラシックやヒーリングミュージックなような気がするのだが、壁一面がピンク色の派手な待合室には違和感は全く無かった。診察室は、扉が開かれていて、こちらから丸見え状態になっていた。中には患者さんと思われる男性と、女性の医師がいて、患者の男性は鳴り続ける固定電話を無視して喋り続ける眼前の女性医師を呆然と眺めていた。『そんでな、そん時に初めてFの音が出て、大感動やってん』何やら学生時代に嗜んだギターの話を一生懸命に語る女性医師は、自分の喋り声でBGMのヘビメタや固定電話の音をかき消す位の勢いで話し続ける。会社のパワハラで精神的に病んでいる青山あおやま 恭也きょうや(36)は一体何をしにここに来たのか目的を忘れてしまいそうになるほどに、落語家のように喋り続ける白衣を着た美しい女医を受付側から見つめていた。『見て、見て、この短い指で、Fコードを弾くねん。凄いと思わん?』と抜けるように白くてほっそりとしたと可愛らしい手のひらを患者さんに見せつけていた。そもそも青山はギターに関しては全くの門外漢で、医師の言うFコードというのが一体何を言っているのかサッパリであった。『あの…電話…鳴ってますよ』と、青山は診察室の扉の外側から女医の顔を確認するように恐る恐る声をかけてみる。『せやねん』彼女は電話がまるで自分の意志と関係なく勝手に鳴り続けていると言いたげな物言いに青山は思わず閉口してしまった。『でな、聞いて、聞いて、結局な、ウチな、そのFコードしか弾かれへんのに、そのFコードだけでLIVEに出たんよ』一体この会話の着地点はどこなのだろうと不安げな表情で渋々頷いた。『先生、次の予約の時間です』いつの間にいたのか、ふんわりとしたマシュマロボディーと、美しい栗色ショートヘアの受付看護師がノックも無しに、扉の向こうから冷静な表情で医師にそう告げた。『ええー、せっかく話しがのってきたのに、ほんまに〜?』のってきたと言うが、患者さんの話は一割も聞いてくれてない感じだ。『あの…』と口を挟もうとすると、『じゃ、暫くの間は通院ね、来週も来てね』男性患者さんはどこか浮世離れした空気を纏う美しい女医に終始圧倒されてしまった状態で、診察室を出て首を捻りながら待合室のソファに腰掛けた。ひし形ショートボブに卵型の輪郭、顔のパーツは、中央に寄ることなく全体的に散在していて、特に目の目頭が鼻の中心部分からかなり離れた部分にあるのが特徴的で、眉毛の横幅も長く口の横幅も長いので全体的にはバランスの良い顔立ちといった印象で、特に印象が一番強いのは口元で、顔輪郭の割に口の横幅が大きく、口角がぼやけることなくしっかりした鋭角なので口の印象が強く、それなのに、そのことを隠すメイクにせず、レッド系の口紅を使用しているので印象が強く残る。宝塚歌劇団にいてもおかしくないくらいの面持ちである。『えーっと、初診の方ですよね』先ほどのショートカットの小柄な看護師から声をかけられて、思わず『ひっ』と変な声を出してしまった。看護師さんは笑みを見せながら初診のカウンセリングチェックシートを差し出してきた。『キヨミちゃん、ええよ、ええよ、早速診るわ。その子、診察室に入れてあげて』診察室から先ほどの女性医師が声を高らかにあげて、こちらに招くように右手をパタパタと振り誘導した。キヨミちゃんと呼ばれた看護師は、渋々といった表情で、青山を診察室に入るように勧めてきた。『で?今日はどないしたん?』女性医師は、椅子をくるりと回し、青山の顔を凝視しながら早速身を乗り出して聞いてきた。『ええと、実はですね。あの、なかなか眠れなくて、それでその… 寝酒に頼ってしまい、あの…体調も良くなくて』女性医師は、脚を組みながら、スマホを片手にうんうんと頷いている。『それでですね、すみませんけど、酒に頼らんように、睡眠導入薬を頂けたらなあと思いまして…』やはり白衣の影響からか、切れ長の一重まぶたからにキリッとした面持ちの表情にはなんとなく知的な印象を受ける。『あー、ガチャ爆死やー!』女性医師は突然張りのある声をあげて、スマホを目の前のデスクに叩きつけた。自分の話を聞く振りをして、スマホのソーシャルゲームをしていたのかと青山は内心で呆れた。『で、酒は別に飲まんでも寝れたりするの?』女性医師が唐突に青山を凝視して質問をしてきたので、思わず狼狽えた。『いえ、試したことないですけど…多分眠れないです』青山は身を縮め、細々とした声で説明した。『ケッコーケッコーコケコッコー!』女性医師が突然甲高い声をあげてきたので、青山は驚きすぎて椅子ごと倒れそうになった。『これ、幸福商店街のテーマソングやねん。ダサいやろ?誰が考えたんやろな。こんなんNHKの「みんなのうた」でも使うてくれへんでホンマに』青山は突然の話の展開に、頭を整理するのがやっとで、頷くしかなかった。鉛のような重い身体で、会社の残業がかさみ、もうたっぷり二十八時間以上は、寝ていない。『いなや!』ぼーっとした表情のまま椅子に座っていたら、女性医師から張りのある声で叫ぶように言われて、完全に覚醒してしまったが、意味がよく分からなくて聞き返す。『いないな、ダメ、ノー、拒否、無理!』

な、なにが無理なんですか?青山は精一杯声を振り絞って質問した。『寝られへんて、睡眠導入薬を処方しても、どうせ酒とちゃんぽんするやろ。そらあまりに危険やさかい、クスリは出せまへん!』女性医師はキッパリと断り、断固クスリは出さないと再度宣言した。『酒の飲み過ぎで死ぬことはあっても、不眠で死ぬことはあらへん。だから、これでも読んどき』女性医師はデスクの本棚に手を伸ばし、一冊の本を青山に手渡したのは、中島らも氏の「今夜、すべてのバーで」である。『内容はあんま覚えてへんけど、重度のアルコール中毒者は酷い目にあうみたいな作品や、酒とは節度をもって付き合うようにしとき、お酒とのつきあい方を考えとかんと、酒は百薬の長とか言うけんど、あれはウソや。寝られへんのやったら、酒をやめて牛乳にしとき』青山は黙ったまま、暫くの間は口を開かなかった。と言うよりも口を開ける暇すら与えてくれなかった。『ベトナム料理にあるパクチー、パクチー、ホンマにホンマに苦手やねん。三つ葉とかイタリアンパセリはむしろ好きやのに、形状が似ているパクチーを口にしたとたん、何度絶叫しそうになったことか...まあええ大人やからさあ、息を止めてちゃんと飲み込むけどもやで、石鹸かカメムシみたいな臭いが強烈やねんなあ。実は遺伝子が関係しているらしいねんけども。まあ、パクチー苦手やから言うて人生損してるわけやないしな、世の中の食材にパクチーしか無かったら話は別やけどな。違うか?』どこからパクチーの話に転移したのかも思い出せないまま、青山は我知らずたじろいで、完全に窮していた。『もしな、もし、あんたが起きてる時間がギネス記録を更新することがあれば、そんときは睡眠導入薬を処方したげるわ』女性医師は少し微笑んで白い歯を見せた。『確か240時間くらいやで、十日間寝ないでも死なんちゅうこっちゃ』どないだ?と美しい顔を近づけられて、青山は狼狽えてしまった。『先生、お言葉ですが、正確には264 時間12 分です』キヨミちゃんと呼ばれた看護師が隣から口を挟んできた。『さすがギネスマニアのキヨミちゃん!正確やし、性格も悪い!』と女性医師に茶化されながらも堪えていない様子で『次の予約の時間です』と淡々と告げて、受付へと戻って行った。『ほな、しばらくの間は通院や、来週もおいで!なんかあったら相談のったるさかいに電話しといで』と女性医師は青山に名刺を渡した。名刺には精神科医、産業医、スポーツメンタルアドバイザーと書かれていた。女性医師の名前は、朝倉あさくら紗緒さお 趣味はテニスとお喋りと書かれていて思わず笑ってしまった。青山は渡された中島らも氏の「今夜、すべてのバーで」を鞄にしまい込み、来週の通院までに読もうと誓った。

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