第29話
Aはタイプの指を止める。とりあえず物語は終わりを迎えた。そう思う。そしてやはりB子のことを考える。更にミツオのことも。自分の推測が正しければ、二人が接触を取ってくることは最早ないだろう。おそらく彼らは暗躍するネット詐欺グループだ(或いは同一人物かも知れない。手口としては些(いささ)か時代遅れの感があるが)。訪問者数がほとんどないサイトやブログにアプローチを掛け、信頼関係を築いた上で管理者を架空のネット起業に勧誘しその支度金を騙し取る。一応以上の手間暇は掛かるが、その分見返りは大きいやり口と聞く。偽セキュリティやフィッシング詐欺が一時期ほど流行らなくなったせいで、またこの手の連中がカモを探しているということか。
Aの顔からまた自虐の笑みが零れる。やれやれ、夢が覚める瞬間ってのはこんなにも呆気なく、そして興醒めなものか。「ビッグブレイン」。どこかで聞いた単語だと思っていたが、話題になったAIマルウェア(悪意ソフト)の一つに似たような名前のものがあった。こちらのネット環境に侵入しデータを改ざんしたり、あるいはパソコンの機能そのものを乗っ取ったり、中には犯罪の片棒を担がせるケースもあると聞く。巷ではいろいろな噂を耳にしてはいたが、まさか自分がその標的(ターゲット)になっていようとは。しかし…。そこでAは思い返す。
正直云えば、それでもなおB子とは最後に話をしてみたい。そしてその口から本当のことを聞きたい。偽りない事の成り行きを。彼女の中にその瞬間過る純なる思いを。それはいかにもお人好しの、厚顔無恥な願いだろうか?
Aは立ち上がり、今後はピアノを弾き始める。これまで練習してきた数曲をただ漫然と、指の動きだけを確かめるかのように。そして細くしなやかな自分の腕を見る。
僕は変わった。そしてひと仕事終えたこの自分をB子にも知ってもらいたい。たとえ直接会うことが出来なくても。たとえ既に自分から興味を失っているとしても。気づけば僕は、人知れず化石のビルに佇んでいるようなもの。崩れそうなその屋上の際(きわ)で、入れ子細工の物語を語り終え、そのエピローグをひとり気だるく奏でている。その音は、声は、言葉は、誰かに届くことがあるのだろうか?
突然地震のような意識の揺らぎがAを襲う。その足元から押し寄せるカストロフィーにAは必死に耐える。ようやくその時がやって来たのだ。しかし、まだここを離れるわけにはいかない…。倒れ込むようにして、Aは再びパソコンの前に座る。
「お話、エンディングを迎えられましたね。おめでとうございます。後半私はお付き合いできませんでしたが、本当にご苦労様でした」
B子からだ。Aは慎重にキーボードに向かう。
「有難うございます。自分でも不思議な感じです。この9か月間、一つのことに集中できたというか、もちろん楽しいだけではありませんでしたが、少なくとも今小さな達成感はあります」
「そうだと思います。本当に素晴らしいことです」
「僕は自分を変えることができたと思います。身体も随分鍛えることができました」「そうですか」
「僕は外に出てみようと思います。そしてその手始めとして貴女に会ってみたい。どうでしょう?」Aは点滅するカーソルを見つめる。
「それは、できません。私の事情ですが」
「どうかされたのですか?」
「いえ。そういうことではありませんが、ただ、今の私はあなたにお会いすることはできないのです」
Aはその文面を見つめる。
会いたい。ただ君に会いたい。もしできることならば。その為になら僕はこんな砂の孤城なんていつ壊してもいい。Aは思う。でも…。
「質問したいことがあります。いいですか?」
「はい」
「貴女はAIですか?」
「違います」
「では貴女は人間ですか?」
「はい」
「貴女は誰ですか?」
「私はあなたです」
Aの指が止まる。驚きよりも、自分の中で奥深くに眠っていたものが朝靄に佇む馬の嘶きのように息を吹き返すのが感じられる。
「多分いつかは気がつくのだと思っていました。でもあなたには物語を作るしかなかった。そして私はそこに分け入るしか」
「君は僕自身?じゃあ、ミツオは?」
「分かりません。私はただ、あなたを見ていただけ」
「では、君が仕事で酷い目に遭っているということは?」
「現実に基づくあなたの創作です」
「創作?」
「あなたは自分を保つために私という存在を拾い上げた。そして私はいつしかあなたをこの空間に留まらせようと…」
「君が僕を?」
「そう。でもあなたは自分の殻をすでに壊し始めていた」
「僕の書いた物語は?」
「或る意味私と同じ。あなたを受け止めながら、同時にあなたを出口へと誘(いざな)った…」
僕は…。Aの意識の草原を様々な記憶が駆け始める。解き放たれたそれらは、まるで自由を謳歌するように自分の存在を主(あるじ)へと主張する。
僕は、最初から一人だったのか。そしてそれに耐えきれず、知らないうちに別人格を作り出していたということか?
「君こそ幻だったんだね。ミツオから君のことを疑わしく言われた時、僕の中で本当は気づき始めていたのかも知れないけど」
「あなたが強くなればなるほど、私の存在はあなたの中に溶け込んで消えていく。でも、それは仕方のないこと」
Aは自分の手元を見る。まるで自動書記のように自分の手がB子の言葉を綴っていく。その手には大きな切り傷の痕が浮かんでいる。
「さようなら。あなたはもう大丈夫。自分でここから出て行こうと決めたのだから」
君はどうなる?「私はあなたの中に戻っていくだけ。そしてあなたの物語のように、あなたがそれを在ると信じてくれればまたいつか戻ってくることができる。そう、あのMやWたちのように」
僕が信じれば…。
さようなら。あなたはどんなお話も作ることができる。こちらでもそちらでも。そしてそれに合わせて自分を成長させていくことさえ。私はこれからも、あなたの姿をずっと見ているわ…。
B子の気配はそのままAの意識の彼方へと消えていく。遠い日に見た打ち上げ花火の記憶のように、それは鮮やかな印象のまま、やがて黒陰へと吸い込まれていく。
「やれやれ。ようやく話がひと決着ついたと思ったら、また妙なことになってるな」
ミツオ。「ミツオさん、あなたは」
「おいおい、しっかりしろよ。ネットの世界は匿名が命だろ。そこを無理矢理いじくるからいけないんだ。ネットの中にも幽霊(ゴースト)みたいなものはいる。気にするな」
「ですが、本当にB子さんは…」
「分かるもんか。お前はあれだけの物語を想像だけで作り上げることができたんだ。もっと自信を持て。それに、B子はまだ他にいるかも知れないぞ」
「?」
「外の世界はそれだけ広い。当たり前だろう」
Aはそのまま立ち上がる。そしてゆっくり着替えを済ませると、ドアを開け部屋を出る。ネット世界のゴッド・ファーザー(名付け親)・ミツオに、暇(いとま)の挨拶もしないままで。Aは薄暗い階段を降りながら思う。重力を、感じる…。そして居間で久々に父親の姿を認めると「ちょっと外に出てくる」、そう一言言ってから真っ直ぐ玄関へと向かう。その姿を父親はただ呆然と眺めている。
〔 家を出たすぐの通りで、妻が職場の元同僚に刺殺されてからすでに2年が過ぎようとしている。あの頃妻は仕事を辞めたばかりの長男を何かと責め苛んでいた。私は間に入り、また息子と話し合いを持つ機会もあったが、妻はその私にすら「世間の厳しさを知らない」と突っかかってくる始末。考えてみれば我の強い母親、そして妻だった。後から聞いた話では職場でもその奔放(?)振りは有名だったらしく、犯人の若い女は妻と同じ部所の後輩で、メンタルを病み退職したばかりだったとのこと。
現場に居合わせていたのはその二人と、玄関先での異変に気がついた長男だった。妻は刃物で切られながら、それでも通りに出て川の方へ向かって逃げた。その後を女は悠然と追いかけ、そして最後に、倒れ込んだ妻の背中に深々と銀の切っ先を突き立てたのだ。その様子を後から追ってきた息子は、ただ見ているしかなかった。しばらく共に死んだように蹲っていた女は突然彼に向って刃物を振り上げ、間一髪駆けつけた警察官によりその場で逮捕、息子は両手に深手を負った。ひと月余りの入院の後、息子はそのまま自室へと姿を消し、やがてその存在も薄明に掠れていくばかりとなった。そうして家族はいっぺんに二人をも失くし、その輪郭は小さくぼやけ何時(いつ)しか色さえも失ってしまった…〕
父親は立ち尽くしている。久し振りに見た息子は幾分痩せていた。と云うか、むしろ以前より精悍になった印象さえあった。やがてガチャリ、と云う玄関の戸が閉まる重い音がする。これからどこへ行く?父親は心の中で息子に問う。そして咄嗟に、自分の口から息子の名前が出てこないことに愕然とする。
「おい、お前…」
それからまた長く、この家族が顔を合わせることはなかった。
( 了 )
『 Z(ジィー)・N(エヌ)・A(エー) 』 桂英太郎 @0348
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