第3話 照寿と是留芽衣縫
手踊辺秀刑事は困惑していた。
夏──江取田海水浴場。自分が有休を取ってまでこの場所へやって来たのは〈会長〉こと神武陽音に呼び出されたからであった。しかし目の前にいるサマーパーカーを着こなしている小柄な若者は、男であった。
「なぜ君がここにいるんだい? 私は会長に呼び出されて来たんだが」
海水パンツ一丁姿のベシュは会長の弟である神武跳人へと苦情を述べた。
「やだなぁ、ベシュ刑事。あのものぐさな姉がこんなところへ来る訳ないですよ! ましてや車椅子ですからね」
跳人は悪びれる事も無く爽やかに言い放つ。
「いや、しかし彼女は──」
「事件ですよ、刑事さん」
反論しようとしたベシュの気勢を制する様に跳人は断言した。
「事件だって?」
「そう。姉がネットサーフィンで興味深い書き込みを見つけたのです。〈江取田で自由を取り戻す〉という記述と今日の日付が書かれていたらしいです」
「それだけ? それが事件に繋がるっていうのかい?」
「姉が覗いていたのは不倫サイトなのですよ」
「不倫って──会長は一体何を見ているんだ!」
ベシュはやり場のない憤りを吐き出す。
「仕事だって言っていましたけど、まあ趣味でしょうね。それはともかく、配偶者を何らかの形で排除し、愛人とやり直そうとしている男か女がいると推測される訳です」
「たったそれだけの情報でこの場所から加害者と被害者を見つけられるのかい?」
高台に立っているベシュが海水浴場を見回す。夏真っ盛り、海辺には数百人の来場者がいた。
「まあ無理でしょうね。だから姉は頼れる副会長を呼び出したって事でしょう?」
「頼れる──副会長」
ベシュはあっさりとおだてに乗った。
「参考までに僕はもっと大変ですよ。被害者・加害者の前に依頼人を探さなきゃならないのですから」
「いいじゃないか。〈調査費無料〉だろ?」
「仮に加害者しか残らなかったら、単なる恐喝になっちゃうし」
ベシュのツッコミを受け流して、跳人は不穏な言葉を呟いた。
「なんか今、聞き捨てならない言葉を聴いたような気がするが──」
ベシュがギロッと職業警察官の目で跳人を睨み付ける。
「やだなぁ、刑事さん。冗談ですよ、ジョーダン」
ハハハッと笑いながら跳人は慌てて話題を変えた。
「さて、衆人環視の下で犯罪が行われるとは思えません。海水浴場で誰にも怪しまれず犯罪を行うとすれば、僕なら相手を溺れさせる手段を選びますね」
あっさり言い放つ跳人を、ベシュがギョッとしながら凝視する。
「君は──恐ろしいな」
「──って、姉が言ってました」
テヘペロして誤魔化そうとする跳人。ベシュはそんな彼の本心を見透かそうとするかのようにジッと見つめ続けている。
「やだなぁ、僕に惚れないで下さいね。今はまだ女性だけで手一杯ですよ」
「な、な、な! そんな訳あるか!」
ベシュは跳人を怒鳴り付けると、慌てて目線を逸らした。
話し合いの結果、ベシュは見晴らしの良い場所から跳人が用意していた双眼鏡を使って何か怪しい動きがないか確認、跳人は浜辺でそれらしき二人連れを探すことになった。
ベシュが双眼鏡で海の家の近くを眺めていると、頭からバスタオルを被った水着姿の男性が千鳥足で仲間に挨拶しながら男性用脱衣所へと入って行く後ろ姿が見えた。
「ふん! 昼間っから酒盛りとはいい御身分だ」
自身が無償で働かされている状況を嘆き、嫉妬から悪態を吐く。
そのまま跳人がいるはずの浜辺へと視線を移し、サマーパーカーを着た若者を探す。すると跳人はビキニを身に付けた若い女性の二人連れに声を掛けているところだった。そのまま、じっーと見ていると三人は凄く楽しげに盛り上がっている。
阿呆らしくなったベシュは、投げ出して帰ろうかと双眼鏡を下ろしかけたが、いつのまにか男性用脱衣所の前に人が集まっているのに気づき、そちらへと目をやった。
脱衣所の中から走り出た一人の男が、そのまま海の家へと向かって行く。
只事では無さそうだ、刑事の勘がそう告げたベシュは脱衣所へと駆け出した。
ベシュが脱衣所へ着くと、海の家から海水浴場の管理責任者らしき老人が鍵の束を持って来ていた。その背後にはひょっこりと跳人の姿もある。
「遅かったですね、ベシュ刑事。おおかたビキニ姿の女の子でも見ていたのでしょ?」
近づいて来た跳人が茶化す。
「君と違って私はちゃんと任務を果たしていたよ!」
憤慨しながらベシュが答える。
「さすが刑事さん! それでしたら、この後二人連れの女子大生と食事の約束を取り付けてありますが、僕一人で行った方がいいですかね?」
ニコニコと笑みを浮かべながら跳人が問いかけた。
「飯は食う! そこに女子大生がいるかどうかは成り行き次第じゃないのか?」
素直に行きたいと言えないベシュであった。
「──ああ、でも残念。どうやらお食事会はキャンセルですね」
「何だって?」
跳人の視線を追ったベシュは、脱衣所の奥にあるトイレの個室から運び出された男性の遺体を目の当たりにした。
「あれは、さっきの──」
ベシュはトイレの床に落ちている血に染まったバスタオルを確認し、事件を未然に防げなかった事を後悔していた。
「それでは、遺体発見に至る経緯を順番にお話しいただけますか?」
海水パンツの中から防水ケースに入れられた警察手帳を取り出したベシュは警視庁の刑事であると身分を明かし、事件の関係者らを海の家へと集めていた。
集められた人物は三人。死亡した古春弾の二人の友人、振出陸と阿須丹。そして振出に呼ばれて駆け付けた管理責任者の洒灰汁。仏頂面を保ち会話に加わる気を見せない酒灰をチラリと見ると、振出と阿須はお互いに顔を見合わせた。そして代表するかのように振出がおずおずと話し始めた。
「僕たち三人は学生時代からの友人でして、疎遠な時期もありましたが、全員家族を持つようになり、毎年こうやってみんなで集まるようになりました。今回は弾の呼び掛けで家族ごとに車でここに来て、バーベキューをして、僕たち男性陣はその流れで酒盛りを、妻と子供たちはスイカ割りをしてから海へ泳ぎに行ったはずです」
「弾は途中で抜け出したから、子供たちの方へ行ったのかと思っていたんですけど。フラフラと戻って来て脱衣所へ入って行ってそのまま──」
振出から話を引き継いだ阿須が言葉を切った。
「発見時の状況は?」
二人の中年男性はお互い顔を見合わせると、やはり振出が代表して話し出した。
「弾が車から水着で降りて来たのを見ていたので、着替えじゃないのは判っていました。だからトイレかと。それにしては長いな、と話していたんです。結構酔っ払っていたみたいだから、もしかしてトイレの中で寝てるんじゃないかと心配して見に行ったのですが、中から返事も無いし、物音一つしない。足元が空いてる扉の下から覗き込んだら、血の付いたタオルが落ちているじゃないですか! 驚いて管理人を呼びに行った、と言う訳です」
「重要なのはここです。酒灰さん、トイレの鍵は確かに掛かっていたんですね?」
ベシュはあからさまに迷惑そうな表情を浮かべている管理責任者へと問いかけた。
「──まあ、普通トイレという奴は外鍵を付けないんでしょうが、いろんな性癖の奴がいるってんで、ここのトイレにはオーナーが付けさせているんですよ。実際、酔っ払いが寝込んでしまう例も年に数回ありますしね。だから鍵束を持って来て開けてみたんです。で、御覧いただいた通り、故人は頭をぶつけてポックリ逝っちゃってたって訳ですな」
「トイレの中に凶器になりそうな物は残っていませんでしたか?」
「凶器? ハッ! 警察って奴は何でも事件にしたがるのかね。バスタオルが凶器になるっていうなら確かにそうだろうとも。だがね、貯水タンクには頭をぶつけたであろう奴さんの血がベッタリと付いていたし、バスタオルであんな傷を付けられるとは到底思えないね──もういいかね、刑事さん。こう見えても儂は雇われの身で忙しいんだ」
そう言い捨てると、酒灰は一方的に話を打ち切って、建物の奥へと戻って行った。
「差し出がましいとは思いますが──」
阿須がベシュへと控えめに呼び掛ける。
「何でしょう?」
「僕と陸は弾が入って行ってから、ずっと脱衣所へ目をやっていたんです。その間、入って行った人も出て行った人もいませんでした。ましてトイレには内側から鍵が掛かっていたんです。事故以外には考えられなくないですか?」
「勿論、そうでしょうとも。鑑識からも古春氏の後頭部の傷が貯水タンクの形と一致したとの報告を受けています。あくまでも懸念を残さない為の確認です。そこでお二人にお伺いしたいのですが、古春夫人の交遊関係についてなのですが──」
ベシュの問いかけに対して、振出と阿須はバツが悪そうに顔を見合わせた。
同じ頃、弾の妻である古春照寿は振出夫人と阿須夫人から交互に看病されつつ、海の家の畳の間で横になっていた。弾が死んでいるとの報告を聞いた途端に気を失ってしまったのだ。
「哀しみは癒えましたか?」
聞き覚えのない男の声を耳にして、照寿は声のした方へゆっくりと首を動かした。そこには小柄ながらも色白な美青年が柱に寄り掛かりながら立っている。
「そんな簡単には──」
照寿は言葉に詰まって、込み上げる涙を拭った。
「では、憎しみは癒えましたか?」
臆面もなく問いかける跳人に対して、夫人は気丈に言葉を返した。
「どういう意味でしょう?」
「失礼。言葉の綾という奴ですよ。どんな夫婦でも愛憎両面を抱えている物ですから。あなた方もそうではないかと」
「私は──そうですね、夫は優しい人ですが、子供が産めない私に対して不満を抱いていたのかも知れません。そんなことは一言も言いませんでしたが、こうやって他所の子供たちと触れ合うのをすごく楽しみにしておりましたから」
「それで不倫を──」
跳人の言葉を聴くと夫人は反射的に身を起こし、怒りに身を震わせながら声を張り上げた。
「あなたは何者ですか!」
その声を聴いて、近くで待機していた振出夫人と阿須夫人が部屋へと飛び込んで来た。後を追うようにその子供たちが付いて来る。
「失礼しました。僕は〈バーネット探偵社〉の神武跳人と申します。〈調査費無料〉がモットーですから、お気軽にご相談を」
跳人は、悪びれない彼に呆れた夫人へと無理矢理名刺を渡すと、踵を返して素早く部屋から出て行った。
「どう思う?」
ベシュは海の家でカレーを食べながら、対面する跳人へと問いかけた。
「どうって──やっぱりここはドライカレーが美味しい、って再確認しましたよ」
跳人はドライカレーを口へと運びながら答えた。
「ちょっと待て! 君は私が悩んでいた時にカレーを勧めたじゃないか!」
ベシュは立ち上がりながら抗議する。
「だって、さっきの女子大生たちがドライカレーを勧めてくれたので、僕はあらかじめその一択でした。刑事さんがカレーかドライカレーのどっちがいいか、と訊いたので僕がドライカレーを選びますから、カレー一択でしょ、と答えたのです」
「別に同じメニューでもいいだろう? そんなに美味いなら一口寄越しなさい!」
「嫌ですよ。追加で頼めばいいじゃないですか」
跳人は伸ばされたベシュのスプーンから守るように皿を抱えた。
「そんなに食えるか!」
二人がじゃれていると、突然ベシュの隣りの席へと女性が腰を下ろした。
「楽しそうね。お隣いいかしら?」
女性は長身で細身、つば広の帽子にサングラスを掛けている。生地の薄い服の隙間から色の濃いビキニが覗いていた。
ベシュは横目でチラチラとビキニの膨らみへと目を遣る。跳人はそんな彼を無視しながら、楽しそうな表情を浮かべて女性へと呼び掛けた。
「御用はどちらに? 刑事さんへの情報提供? それとも探偵への調査依頼かな?」
「両方よ。さっきの殺人事件、私は決定的な証拠がある場所を知っているわ」
ベシュと跳人はサングラスの女性、是留芽衣縫に案内されて海岸近くの岩場へとやってきた。
「これよ」
岩場の陰を指差す芽衣縫。ベシュがビニールの手袋を填めて手を伸ばし、太く長い木の棒を持ち上げた。その先端近くは赤黒く染まっている。
「鑑識を呼び戻して血液鑑定して貰おう」
ベシュは携帯電話を取り出しながら、慌ててその場を離れた。
「問題が一つ」
跳人はにこやかに芽衣縫を見つめながら問いかける。
「問題?」
サングラスに隠されて芽衣縫の表情は窺えない。
「あなたの目的」
跳人は人差し指を立て芽衣縫を指差した。
「善意の第三者──ではダメかしら?」
「優秀な警官と有能な探偵がいますからね」
跳人は悪意のない笑みを浮かべる。
「本当に優秀だったら、私は関わりたくなかったんだけど」
芽衣縫がボソッと呟く。
「何か?」
「いいえ、何も」
芽衣縫はサングラスを取りながら答えた。
「いいわ、正直にお答えします。私は弾の愛人よ。だからあの女を許せない!──これで満足?」
「ええ、あらかた。裏を取るのは簡単ですが、まあ必要ないでしょう」
跳人は戻って来るベシュの姿を見て、芽衣縫を促す。
「では行きましょう。一挙に事件解決だ!」
海の家にはベシュと跳人、古春照寿、振出夫妻、阿須夫妻と是留芽衣縫が集められている。すでに海岸は夕陽に照らされ、他の客は帰途についていた。二組の夫妻の子供たちは海の家のアルバイトの学生に残ってもらい、世話をお願いしている。
一同の顔を見回してから、跳人はゆっくりと話を始めた。
「さて、今回の不幸な事故ですが、全てはスイカ割りから始まりました。目隠しをした古春夫人を驚かそうとした弾氏は、スイカの代わりに自分の元へと夫人を誘導したのです。ところが酔っ払った弾氏は夫人の振り下ろした棒を受け止められず、頭を強く殴られてしまいました。バツが悪くなった弾氏はそのまま立ち去り、トイレへと向かいます。ところが足元の覚束なかった氏は、トイレで足を滑らせて後頭部を強く打ちつけて亡くなってしまったのです」
跳人の結論を聴いて、身を固くしていた照寿は肩を震わせて涙を流し始めた。左右から婦人たちが彼女を慰めるように肩を抱く。一方、芽衣縫は無言のまま怒りに顔を引き攣らせていた。
「そんな訳で事件解決です。皆さん帰っていただいて結構です。あっ、古春さんは事後処理がありますので残って下さい。警察関係者が御自宅までお送りますから御安心を」
ベシュに促されて、振出夫妻と阿須夫妻は照寿を慰めてから子供を連れて帰って行った。
四人だけになるとそれまで我慢していた芽衣縫が、爆発したかのように怒鳴り出した。
「そんな戯言、信じられる訳ないでしょ! この女が弾を殺したのよ!」
怒りに震える芽衣縫を照寿は冷めた目で見つめた。
「あなただったのね」
睨み合う二人の女。
その緊迫した空気を破るように、跳人が飄々と告げる。
「まあ、戯言なのはその通り。真実は古春さんが御存知ですよ」
三人の視線を集める中、照寿は意を決したように顔を上げると迷いなく話し出した。
「元々、罪を逃れるつもりはありませんでした。ただ、夫があそこまでして私を庇ってくれたのが彼なりの贖罪かと思い、成り行きに身を任せていたのです──そうです、私が彼を殺しました」
夫人の告白に驚いたベシュが彼女を見つめる。芽衣縫は勝ち誇ったように笑みを浮かべた。
「子供たちとのスイカ割りが終わり、私たち女性陣は後片付けをしていたのです。その最中、私は岩場へ向かう夫の後ろ姿を見かけました。そんなところへ何の用事だろう、と思い後を付いて行くと、彼はそこで私の浮き具を膨らませ、細工を始めたのです。私は泳ぎが上手くありません。浮き具が沈んだら岸へ戻って来る事は出来ないでしょう。その事を彼は良く知っています。ああ、この人は私を事故に見せかけて殺すつもりなのだ、とその時思いました。同時に彼に対して薄々感じていた女の影に怒りが湧き上がってきたのです! どんな女か知らないけれど、その女の為に殺されるのだ、と思ったら我を忘れてしまいました。気が付いた時には、手に持っていた棒で後ろから彼の頭を殴りつけていたのです。我に返った私が驚いて棒を落とすと、夫はチラッと私を見て『ごめんな』と言い残し立ち去りました。私は怖くなって後を追えず、海の家へと駆け込み誰かが呼びに来るのをじっと待っていたのです」
照寿は審判を待つかのように言葉を切って黙り込んだ。ベシュは困ったように指で頬を掻く。
「解剖してみないと、どちらが致命傷だったのかは解かりませんが、もしあなたに殺意があったのならば殺人未遂で逮捕、殺意がなくても傷害罪で逮捕することになります」
「覚悟はできています」
照寿は真摯な瞳でベシュを見つめ返す。
「ただし、そうなると疑問が一つ」
「まだ何かあるのか?」
人差し指を立てた跳人の言葉に対して、ベシュはうんざりしたように問い返す。
「誰が弾氏による夫人殺害計画の証拠を隠滅したか、です。凶器となった棒を捨てて行ってしまうくらい動揺していたのですから、あなたが浮き具を回収したわけではないですよね?」
跳人の問いに照寿が頷く。
「それが見つかれば正当防衛が成り立つ可能性がありますから重要ですよ。ねえ、芽衣縫さん」
三人の視線を集めた芽衣縫は、目線から逃がれるかのようにサングラスを掛けた。
「しっ、知らないわよ!」
慌ただしくこの場から立ち去ろうとする芽衣縫の手首を、跳人が柔らかく掴んで引き留める。
「あなたのような魅力的な女性をお一人で帰す訳には参りません。お車までお送りいたします。そこでトランクを拝見させていただくか、僕と一緒にドライブにでも行くかはその場のノリで決めましょうか」
「ちょっと待てぃ!」
芽衣縫の手を引きながら出て行こうとする跳人をベシュが呼び止めた。
「ああ、ベシュ刑事。照寿夫人を御自宅までお送りくださいね。本来は僕の役目だとは重々承知しているのですが、夫人は逃げませんからね。それに報酬をいただける方を優先させていただくのが姉の方針でして。ええ、勿論我が探偵社は依頼料無料ですよ。でも世の中、依頼料以外にも色々と経費が掛かるもので。口止め料とか記憶喪失診断書発行手数料とか証拠品処分費用とか──」
「待て待て! 何やら聞き捨てならない事を言っているな、君は!」
「やだなぁ、冗談ですよ。でも仮に僕と芽衣縫さんが恋人同士にでもなったら、やっぱり彼女を庇いたくなるだろうなぁ」
「ええい! 君には任せられん! 私が彼女と一緒に行って車内を検めて来る!」
ベシュはそう宣言すると芽衣縫を先に立てて、彼女の車へと案内させて行く。
二人の姿が見えなくなると、照寿が問いかけるように呟いた。
「彼女は夫を愛していたのでしょうか──」
「あくまでも推測ですが──今回の殺人未遂事件を計画したのは彼女の方でしょう。だから浮き具をその場で処分せず持ち帰って安全に捨てようと考えたのだと思います。そこまでして御主人と一緒になりたかった理由は僕には解かりません。でも御主人がどういうつもりで貯水タンクに頭をぶつけたのかは解かるつもりです」
「それは──事故扱いとして、この計画を隠すためでは」
「そうかも知れません。でも御主人も解かっていたと思いますよ。誰が自分の為に涙を流してくれるのか? だからこそ、瀕死の状態でも足を動かしたのです──あなたの為に」
跳人の言葉を聴きながら、照寿は嗚咽を漏らしながら泣き始める。
跳人はそんな彼女を優しく胸へと抱き寄せた。
「結局、古春弾氏の頭部の傷だが、奥方に殴られた物とトイレタンクにぶつけた物、どちらが直接の致命傷になったか判断が付かないまま、奥方は不起訴処分となったよ。捜査上で弾氏と是留芽衣縫による殺人計画も明らかになったし、正当防衛と捉えられなくもないしね。一方で是留芽衣縫は殺人教唆で起訴されたが、主犯であることを自白せず、明白な証拠も出て来ない。犯歴がなかったから、おそらく執行猶予が付くだろうなぁ」
〈バーネット探偵社〉を訪れたベシュは、事務机を前にして椅子を左右に揺らしている跳人へ向かって報告した。だが跳人はどこか上の空であった。
「おい! 聴いてるのか! 本来は会長へと事の顛末を報告する為に来たんだ。仕事の合間を縫って私が来たことを、ちゃんと伝えておいてくれよ!」
ベシュが机を両手で叩くと、そこで初めて跳人は彼の存在を認識した。
「あれ、刑事さん? また事件ですか?」
「あのなぁ、いくら報酬を取り損なったからってそんなに落ち込むことはないだろう? 私たちは一人の女性のみならず、真実の愛を失いかけた夫婦の想いを取り戻したんだぞ!」
ベシュは胸を張って断言する。
「いや──まあほら、報酬っていうのは形が有る物とは限らないし」
跳人は悪びれずにベシュへと微笑みかけた。ベシュはドキッとした内心を隠すかのように大声で反発した。
「またか! お前という奴は!」
そんなベシュの態度を気にも留めずに跳人は言葉を続けた。
「そういえば、ベシュ刑事、この辺で美味しいドライカレーを出す店を見つけましたけど、あなたの驕りで行きませんか?」
「ふざけるな! 私は鋭意仕事中だ!」
その返事を待っていたかのように跳人が大きく背伸びをする。
「あーあ、残念だなぁ。せっかく、この前海で出会った女子大生たちと約束したのに」
椅子をクルリと回して立ち上がる。
「待ちなさい! 行かないとは言っていない!」
彼を引き留めるようにベシュが呼び掛ける。すると跳人は振り返ってベシュを指差しながらニヤッと笑った。
「あっそうそう、この部屋の会話は全て姉が盗聴していますので、あしからず」
慌てたベシュは、あらゆる方向へと向かって言い訳を繰り広げ始めた。
「なっ! なっ! 違いますよ! 女子大生はビキニじゃないんです! ドライカレーが食べたいんです!」
「いやらしいなぁ。女子大生を食べるつもりだったのですか? まあ、確かに二人とも美味しかったですけどね」
さらりと言い捨てて応接室から出て行く跳人。
「──何だと! 貴様! 逮捕してくれるわ!」
ベシュは顔を真っ赤にしながら、彼を追いかけて行った。
つづく
バーネット探偵社 〜跳人と陽音〜 南野洋二 @nannoyouji
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。バーネット探偵社 〜跳人と陽音〜の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます