第2話 寺庵塁の場合

 手踊辺秀刑事は困惑していた。

 〈バーネット探偵社〉を訪れたのは、前回ささやかな事件の謎を解決した〈神武跳人〉に会うのが目的だったのだが、彼は現在海外旅行中だという。そしてそれを伝えたのは、学生時代に在籍していたミステリー研究会の会長〈神武陽音〉であった。

 「何を驚いているのだい、ベシュ? 君が跳人に会った以上、ここへ来るのは必然。私は君に会う事はすでに想定していた。勿論、困難な事件を抱えていることもね」

 ベシュの目の前にいる女性は電動の車椅子を操作しながら、受付から応接室へと移動して行く。ベシュはリモコンで操作されたかのように、彼女の後を付いて行った。

 「会長はいつから車椅子に──」

 言い出し難い話題ではあったが、一目見た時から気になっていた事柄をベシュは思い切って問いかけた。

 「相変わらずだな、ベシュ。君に足りないのは相手に対する配慮だ。まずは座りたまえ」

 陽音に言われるままに目の前のソファへと腰を下ろす。

 応接室から出て行った陽音は、しばらくして茶菓子を載せた盆を抱えて戻って来た。

 「あっ、会長! お気づかいなく。私がやります!」

 立ち上がるベシュの目の前に運んで来た物を並べると、陽音は身振りでベシュを座らせ、間髪入れず盆で彼の頭を叩いた。

 「イタッ! 何するんですか!」

 「言っただろう? 配慮が足りないと。車椅子に乗っているから日常生活に支障があると思い込むのは健常者の驕りだ。私は特に不便を感じていない」

 同級生にそう説教すると、陽音は車椅子をベシュの対面へと移動させた。

 「さあ、では君の抱えている難解な問題とやらを聞かせてもらおうか」

 ベシュは口を開きかけて、あらためて正面に位置する女性を見つめた。高校卒業後数年、会う事は無かったので彼の中で美少女と印象付けられていた陽音は、大人びたメイクをしている影響もあり、美人としか例えようが無かった。こうやって間近で見れば弟の跳人とも双子のように瓜二つなのが良く解かる。

 「なあ、ベシュ。私を見ていても事件は解決しないぞ。それから、この事務所は〈依頼料無料〉だが、依頼しない訪問者は有料だからな」

 陽音が顎で壁を示す。そこには〈依頼人以外十分千円〉と書かれていた。

 「最近の来訪者は私に対する冷やかしや、跳人目当ての女客が多いのだ。だから金を取る事にした。さあ、支払え。それとも私の虚ろを満たす謎を提示できるかい?」

 彼女に見とれていたベシュは、学生時代の陽音の口癖を耳にして、不意に我に返った。

 「今回、会長にお願いしたいのは──寺庵塁氏の母親探しです」

 「よその事務所へ行ってくれ」

 ベシュの依頼内容を聴いた陽音は素っ気なく断ると、車椅子を反転させ応接室から出て行こうとする。

 「待って下さい、会長! 単なる人探しじゃないんです!」

 立ち上がって必死に呼び止めるベシュ。

 「あのな、ベシュ。人探しを一探偵社が行うなんて物凄く非効率な話だぞ。警察のネットワークを使うのが最も早い。そもそも名前も人相もハッキリしているのだろう?」

 「ハッキリしているというか、ハッキリしていないというか──」

 「はぁ──君が一番ハッキリしないな」

 大きく溜息を吐くと、陽音は再びベシュの前へと戻って来た。

 「君の事だ。どうせ警察では扱えないプライベートな依頼なのだろう? 私に解かるように順を追って初めから話せ」

 「あっ、有り難うございます!」

 ベシュは立ったまま深々とお辞儀をした。

 「まだ依頼を受けると決めた訳ではないぞ。まずは座れ。次にお茶を一口飲め。そして深呼吸してから話すのだ。いいな?」

 「はいっ!」

 ベシュは飼い犬のように素直に陽音の指示に従った。


 「あれは仕事帰りに世狗川を渡る橋を歩いていた時のことでした。遠目から橋の欄干に立つ影が見えたので、嫌な予感がして声を掛けながら走り寄ったところ、目の前で女性が川へと身を投げたのです!」

 「それは君が迷う相手の背中を押したということだろうが──まあいい、続けて」

 「反射的に私も上着を脱いで飛び込みました。すると幸運にも彼女を捉まえる事ができたのです。岸へと引き上げ、誰かが呼んでくれていた救急車へと乗せました。幸い彼女は大事には至らず、翌日職務の一環として入院している病院を訪れました。女性の名前は江斐円と言い、まだ本人との面会は叶いませんでしたが、彼女の父親と話す事が出来ました。何でも自殺を図ったのは二度目だそうで、一度目は大量の睡眠薬を──」

 熱心に話を続けるベシュを陽音は片手を上げて遮った。

 「すまない、ベシュ。初めから話せと言ったのは私だが、君の言う寺庵塁氏の登場は何時間後になるかな?」

 「ああ、すみません! 寺庵塁氏は円嬢の恋人なんです。いや、元恋人と言うべきですか。結婚の約束をしてかなり深い付き合いをされていたそうなんですが、突然置き手紙を残して彼女の前から姿を消したのです」

 「姿を消した恋人が忘れられなくて自殺未遂を図った娘、その恋人の母親を探す依頼。まだ続きは長いな、ベシュ。その先は私が簡単にまとめてやろう。おおかた、お節介な君は寺庵塁氏の元へ復縁の説得に行ったのだろう。そして母親に会うか報告しなければ結婚する事は出来ない、と追い返された訳だ」

 「さすが、会長! と言いたいところですが、事はそう単純ではないのです」

 自信満々な推測をベシュにあっさりと否定された陽音は、不機嫌な様子を隠そうともせずに詰問した。

 「どういうことかな?」

 「寺庵塁氏の問題は母親がいない事ではなく、母親が一人多い事なんです」

 「はぁ?」

 頭に疑問符を浮かべたような表情のまま陽音が固まると、ベシュも黙って彼女の顔を見つめ続けた。

 「同性婚ということか?」

 「違います」

 「父親の再婚相手も同居しているとか?」

 「違います」

 「意味が解からん。もったいぶらずに教えろ」

 お手上げとばかりに両手を投げ出す陽音。

 「つまり、寺庵塁氏は二人いる母親のどちらの子供なのか判らないんです!」

 ベシュの言葉は室内に冷たい沈黙をもたらした。

 「──なあ、刑事さん」

 「なんでしょう?」

 「DNA鑑定って知ってるか?」

 「勿論です! 私も勧めましたよ。でも二人とも自分の息子でなかったら死んでやる!と全力で拒否なさるので」

 「ふーん。しかし、そもそも二人母親がいても別に良いと思うが。その感じだと二人とも配偶者はいないのだろう?」

 「ええ。それがかえって問題をこじらせているんです。どちらも息子を溺愛していて、当初は友好的に始めた同居だったのに、今では互いが息子を独占しようとしていると疑心暗鬼に陥っています。あの敵対的環境に自分の恋人を連れ込むなんて──私ならば想像もしたくないですね」

言いながらベシュは身を震わせた。

 「だったら別居すれば良いと思うが、どうせ寺庵塁氏は母親思いの孝行息子で二人を見捨てる事が出来ない、とでも言うのだろう?」

 「その通りです。まして一人は実の母親なんですから」

 ベシュの答えを聴いて、陽音は大きく溜息を吐いた。

 「なるほど、母親探しとは二者択一の選定か。しかも産みの親では無かった方も傷つけないように万事円満に解決しろと──面白い、実に面白いよ、ベシュ!」

 言いながら陽音が楽しげに笑い出した。

 ベシュは安堵の吐息を漏らした。このモードに入った時の会長は頼りになる、と言う事を経験上知っていたからだ。

 「さて、最初の問題は──」

 陽音は真顔に戻るとベシュを見据えた。

 「は、はい?」

 「依頼人を誰にするかと言う事だ。バーネット探偵社は〈調査費無料〉だが、成功報酬は頂くからな。安月給の君では話にならない」

 その言葉に、報酬としてデートの約束でも取り付けようと試みるつもりだったベシュはガックリと肩を落とした。


 翌日、強制的に休暇を取らされたベシュは古谷村にいた。

 「見ての通り、今の私は探偵活動に向いていない。手足となって動いてくれる優秀な助手が必要なのだ。なあ、副会長?」

 その一言に舞い上がったベシュは事務所を訪れる為に取得した有休に続いて、上司へ急病の為の欠勤連絡を入れる事となった。ベシュはこれまで皆勤賞を続けて来た為、同僚からも仮病を疑われるどころか、むしろ本気で心配されてしまった。そんな仲間たちに後ろめたさを感じながらも「若い恋人たちの為」と自身に言い訳しつつ、ベシュは陽音の指示通り、寺庵塁の産まれた病院を訪れたのだった。

 〈寺庵産婦人科医院〉

 前回、寺庵塁の自宅を訪れた際に聞いていたとはいえ、一公務員として懸念を抱く事案の一つがこれだった。

 寺庵塁は戸籍上、産婦人科医の養子となっていたのである。

 理由は勿論、寺庵塁の二人の母親、戸柳美晴と保羽望がどちらの戸籍に入れるかで揉めたからであった。ちなみに寺庵塁はフルネームではない。戸籍上の正確な名前は寺庵塁航翔という。美晴は息子を航と呼び、望は翔と呼んでいるのだ。塁は産婦人科医が苦労の末、二人に認めさせたニックネームであった。

 病院の受付では、本職欠勤中であるベシュは刑事の身分は明かさず、出立前に何故か準備されていた〈バーネット探偵社 調査員 手踊辺秀〉の名刺を差し出した。

 しばらく待合で時間を潰していると、名前を呼ばれて診察室へと通された。

 小さな村なので待合には他に二人の妊婦しかいなかったが、余所者で男性が産婦人科の診察室へと入っていく姿を奇異の目で捉えている視線が突き刺さる。

 仕事だからと自分を励まし、入った診察室には三十代の若めの医師しかいなかった。

 「探偵さん、わざわざ東京からいらしたんですって? 塁君の事ですよね。まあ、戸籍上は僕の義弟になるんですけどね」

 医師の名前は寺庵快。現在の寺庵産婦人科医院長であった。

 「この前──と言っても先月かな? 塁君から相談を受けた時にも話したんですけど、何しろ僕も子供の頃の話だから詳しくは知らないんですよ。相変わらずDNA鑑定も血液検査も嫌がるから問題がこじれるんですよ。それで何をお知りになりたいんです?」

 ベシュは慌ただしくスーツの内ポケットから手帳を取り出すと、陽音から指示されていた設問を読み上げた。

 「まずは事の始まりを教えていただけますか?」

院長は立ち上がって、備え付けの冷蔵庫を開けると自家製の冷茶が入ったボトルを取り出した。隣に置かれたグラスを二つ手に取り、自身とベシュの前に並べ注いで行く。

 「塁君から聴いているのならば、同じ話しか出来ませんよ。先程も申し上げた通り、亡き父から聴いた話しか知らないんですから。まあ不幸な事故でした。同日に産まれた子供がいて、その夜に火災が起こった。入院していた母親二人は無事に避難させましたが、赤ん坊は一人しか生き残れなかったのです。それを聞いた二人の母親はどちらも自分の子供が生き残ったと信じて譲らなかったそうです。当然、その段階からDNA鑑定は断固拒否。それでも最初は良かったそうなんですよ。父が戸籍の問題を解決すると、母親二人は子供を失くした相手に対する同情もあって、仲良く同居し二人で塁君を育て始めたのです。ところが彼に自我が目覚めると、塁君と接する時間が長い短いで揉め始め、遂には母屋を二つに分けて、別々に暮らし始めたのです。堪らないのは一人息子ですよ。学校から帰ってくればタイムスケジュール通りに戸柳家と保羽家を行き来するんです。食事も睡眠も交互交互に。せめて曜日で固定されれば慣れるのかも知れませんが、一週間は七日ですからね。どうやってもズレが生じる。まれに塁君が勘違いして別の家で過ごしていると、もう一方の母親がヒステリックに怒鳴り込んでくるって訳です」

 「そいつは──不幸ですね」

 ベシュは笑っていいものか、嘆くべきなのか判断に困り、目の前の冷茶を一気に飲み干した。

 「面白いでしょ? 塁君にはいつも言うんです。DNA鑑定か、君が家を出るかの二択だよって。仮に塁君が結婚でもしたら、奥さんや子供はこんな生活には耐え切れないでしょうからね」


 ベシュは病院から出ると、院長との会話を録音した音声データと、陽音の指示に従い院長から提供してもらった人物の写真をメール添付にて彼女へと送信した。すると間髪入れず返信があり、そこには〈寺庵塁家で宿泊せよ〉とだけ書かれていた。

 「はいはい、会長様の仰せのままに」

 ベシュが皮肉めいた独り言を呟くと同時にメール受信を告げる音がした。

 〈黙って行け〉

 メールを見た瞬間、ベシュは誰かに見られていないか周囲を見回したが、周りに人の気配は無く、のどかな田舎の風景が広がるばかりであった。


 寺庵塁家は外観からして奇妙な家だった。

 母屋の前に置かれた一台の乗用車、その奥には二階建てのどっしりとした母屋がある。奇怪なのはその母屋の左右に、増築されたと一目で判る掘っ立て小屋のような物がくっついている事だった。表札は母屋に〈寺庵〉右の小屋に〈戸柳〉左の小屋に〈保羽〉と三枚掲げられている。ベシュは前回訪問した時と同様に母屋の呼び鈴を鳴らした。

 暫しの間があり、玄関の扉が開かれると色白で長身、柔和な表情の青年が顔を覗かせた。

 「ああ、刑事さん。円さんを説得していただけましたか?」

 そう声を掛ける塁の背後からは、何やら揉めている二人の女性のダミ声が聴こえてきた。

 「──相変わらずですね」

 ベシュが気圧されたかのように一歩後ろへと下がる。

 「我が家の日常ですよ。宜しければお上がり下さい」

 会長命令でなければ、すぐにでも回れ右をしたい気分であったが、ベシュには陽音に逆らう勇気はなかった。土間で靴を脱いで、正面の障子を開ける。

 すると、そこは台所兼食堂となっていて、大きなテーブルが置かれていた。一般的な家庭と違うのは床からテーブルの上まで室内を真っ二つにするように赤いビニールテープが貼られていることだった。

 「あんた以外誰が使うっていうんだい! うちのは有機栽培の原料を使った高級品だよ! あんたんとこの貧乏くさいスーパーの安売り品とは違うんだよ!」

 「はっ? 高級品だって? 何年前から同じ瓶の醤油を使っているのさ! 熟成どころかカビが生えてるんじゃないのかい? 翔にそんなもの使わせる訳にはいかないから捨ててやったのさ!」

 「やっと白状したわね! この醤油泥棒が!」

 「自分の家がカビ臭いっていい加減気づきなさいよ!」

 二人の初老の婦人は赤い線を挟んで毒づき、睨み合っていた。

 「母さんたち、やめてくれ。来客だ」

 塁が声を掛けると、二人ともベシュの存在に気が付き、彼の方へと駆け寄って来た。

 「刑事さん! 航が私の息子だって証明できたの?」

 「刑事さん! 翔と二人きりで暮らせるようになるのね!」

 お互いの呼び掛けを耳にすると、立ち止まり赤い線を挟んで再び睨み合う。

 「ああ、もういいから! 今日は一旦お互いの部屋へ帰って貰えるかな?」

 二人の間に割って入った塁に引き離されて、母親たちはブツブツ文句を言いながらも食堂の左右に設置されている、それぞれの扉から自室へと戻って行った。

 「毎度面白い喜劇ですよね」

 塁はベシュへと椅子を勧めると、サーバーから二つのカップへコーヒーを注ぐ。それを持ってベシュの対面に座ると、テーブルの左右から二つの角砂糖入れを引き寄せた。

 「一つは美晴母さんの、一つは望母さんの、公平に使わないと明日の朝、揉める原因になりますからね」

 自身のカップへと二つの角砂糖を順番に落として行く。

 「刑事さんは確かブラックでしたよね」

 「ええ」

 ソーサーに乗せられたカップを受け取り、コーヒーに口を付けたところでベシュは素朴な疑問を口にした。

 「コーヒーサーバーは一つなんですね」

 ベシュの問いに対して塁は乾いた笑いを洩らした。

 「あの空間だけは僕のプライベートスペースなのですよ。この建物の二階もそうです。僕が幼かった頃は、二人とも二階でそれなりに上手く同居していたのですけどね──それで刑事さん、円さんは何て?」

 前回のベシュの訪問時、自身の現状を説明し円へ諦めるように説得して欲しい、と頼んだ塁はその結果報告を待っていた。

 しかし、ベシュの中にはその答えは無い。

 「えーっと、それなんですが、まだ彼女が完全に回復していないのでなかなか切り出せなくて──」

 「そうですか。頼む相手を間違えました」

 もごもごと答えるベシュを塁はバッサリと切り捨てた。

 「もうこの時間からだと東京へ帰ることは出来ないでしょう? 二階に客間がありますから、宜しければお泊り下さい」

 コーヒーを飲み干すと塁はベシュを残して席を立った。残されたのはベシュの苦い想いとブラックコーヒーだけであった。


 真夜中、ベシュは遠くから聴こえる呼び鈴の音で目を覚ました。客間の窓を開けると母屋の前に一台のタクシーが停まっている。

 深夜の来客が良いモノであった例がない、というのは警察の常識でもあるので、ベシュは様子を見る為に着替え始めた。不意に携帯電話に目を落とすとメールを受信している。

 〈訪問者を庇護せよ〉

 陽音からの指示だった。ということは、来客は会長の手配なのか?

 着替えもそこそこに階段を下りて行くと、玄関では初見の老婆と塁が相対していた。

 「そうはおっしゃっても、こんな真夜中に母たちを起こす訳には行きませんよ」

 「何度も言わせないでおくれ。同じ話は二度としない。真実を知りたかったら二人を叩き起こすんだね、坊や」

 「真実──って、あなたは誰です?」

 「全ての元凶、あたしが全ての元凶なのさ!」


 食堂のテーブルには赤い線を挟んで美晴と望が相対し、中央に塁、老婆は彼と対面する位置に置かれた玄関寄りの椅子へと座り、玄関の障子の傍へとベシュは立っていた。

 「じゃあ、始めようかね。まずあたしの名前だけどね、昔は節乗っていう苗字だったよ。覚えているかい?」

 老婆は目だけを動かして左右の老女を見遣るが、二人の反応は芳しくない。

 「もう忘れたかい? 良い事だ。あの火事の夜の看護師なんて誰も憶えていなくていいのさ」

 「あっ! あの時の!」

 二人の老女は声を揃えて叫んだ。

 「あたしが坊やを救ったんだ──」

 老婆は感慨を込めて、過去を想い出すかのように目を閉じた。

 「それは──有難うございます」

 突然の再会に塁は胸を詰まらせて感謝の言葉を絞り出す。

 「──ってことになってるけどね。キシャシャシャ」

 老婆は目を開けると、奇怪な笑い声を漏らした。

 「どういう意味です?」

 それまで黙って成り行きを見守っていたベシュが、我慢し切れずに問いかけた。

 「確かにあたしはあの日病院にいたけどね、それは看護師の仕事としてじゃなかったんだよ」

 「仕事じゃない? では何をしていたのですか?」

 塁が何かを予測したかのように恐る恐る問いかけた。

 「仕事以外に産婦人科に居る用事など一つしかないだろうさ」

 誰もが言葉にするのを怖れているかのように室内は緊張した沈黙に満たされた。それを打ち破ったのは空気を読まない男、ベシュであった。

 「出産ですか──」

 「キシャシャシャ! そうさ! あの日産まれた子供は二人じゃないのさ! 三人だったのさ!」

 「そんなはずはない!」

 美晴が立ち上がって抗議する。

 「あの頃、出産の為に通院していたのは私とこの子だけだったよ!」

 その言葉を受けて、望も大きく頷いた。

 「言ったろ? あたしは看護師なんだ。仕事が終わった後に診察して貰っていたんだよ。何しろ人には言えない子供だったからね」

 「どういうことですか?」

 この後の老婆の言葉を察した塁が黙り込むと、空気を読まないベシュが一同を代表して問いを発した。

 「あたしはね、当時院長の愛人だったんだよ。妊娠が判ってすぐに堕ろそうとしたんだけど、あの人が反対してね。あたしが子供嫌いなのを知っていたけど、里子に出すから産んでくれ、とまで言い切ってそれなりのお金をくれたのさ! だから、あたしが出産した事は院長以外誰も知らない。ところが、あの火事があったから全てが変わっちまった」

 老婆は言葉を切って一同を見回す。二人の母親は俯きながら震えている。塁は今にも泣き出しそうだった。ベシュだけが老婆の告白の続きを待っていた。

 「あたしは自分の子供を抱えて外へ飛び出した。この子がいなかったら今までの苦労が水の泡だからね。ところが、外へ出てビックリ! 他の赤ん坊は誰も連れ出していないじゃないか。慌てた院長があたしにこう言ったのさ〈この子は君の子じゃない。あの二人の母親に委ねよう〉。あたしは愛着も未練もなかったから、あっさり同意したよ。それから貰う物を貰って姿を消したっていうわけさ」

 「すると──あなたが僕の本当の母親?」

 塁が呆然と呟くと、老婆は再び奇怪に笑った。

 「キシャシャシャ! 冗談はやめとくれ! あたしは人の親になった覚えは無いよ」

 「でも、そんな嘘──DNA鑑定すれば一発でバレるじゃないですか?」

 ベシュが冷静に指摘する。

 「鑑定結果はね。だが、誰がそれを母親たちへ伝えると思うんだい?」

 「院長か──」

 ベシュは一人納得して頷いた。

 その瞬間、望が立ち上がって老婆へ向かって飛び掛かった。

 「殺してやる!」

 その後を追うように美晴が続いた。

 ベシュは慌てて老婆を背後に匿い、二人の母親を堰き止めた。

 「落ち着いて下さい!」

 「じゃあ、あたしは帰るからね。あんたらとは違って子供なんか欲しくないんだ。金の為に産んだだけだからね」

 老婆が逃げるように去っていくと、その瞬間、塁が大声を上げながら泣き始めた。

 彼の元へと近寄って行く二人の母親。それぞれが塁の頭や肩を優しく撫でて行く。

 「誰が何て言おうが、あんたはあたしの子だからね」

 「〈あたしたち〉の子よ」

 二人の母親は交互に愛しい息子の頭を胸に抱えて慰め続けた。


 「──というわけで、二人の母親は仲直りして同居は継続。近いうちに円嬢と引き合わせるそうです」

 〈バーネット探偵社〉を訪れたベシュが、陽音へ自分の手柄の様に自慢げに報告する。

 「それは良かった。我が社も潤ったし、大団円だな」

 陽音はすでに依頼に対して興味を失くしたかのように、事務机に向かって経費の精算を行っていた。

 「結局会長、成功報酬はどこから引き出したんです?」

 「ん? 貰えるところは全てあたった。江斐円の父君、寺庵快氏、寺庵塁氏もお礼をしたいと言うので有り難く受け取っておいた」

 「そりゃまた──三重報酬ですか。まあ、でも会長も凄かったですよ! まさかあの短時間で当時の看護師を見つけ出すなんて。人探しは嫌だと言っていたのは謙遜だったんでしょ?」

 「会長も? まあいい。人探しなど面倒臭い事をやる訳がない。あれは警察の仕事だ」

 つれない態度の陽音に対してベシュは食い下がった。

 「いやいや、あの老婆を──ってまさか!」

 言いかけたベシュは突然、陽音の特技を想い出した。

 「キシャシャシャ! ただこれだけさ。さあ、帰りたまえ。勤務中だろう?」

 愕然となったベシュを残して、車椅子に乗った陽音は応接室から出て行った。

 唐突にハッと気づいたベシュが慌てて陽音を追いかける。

 「老婆は歩いてましたよ! ちょっと会長、どういうことですか!」



つづく

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