バーネット探偵社 〜跳人と陽音〜

南野洋二

第1話 エメラルドの指輪

 手踊辺秀刑事は困惑していた。

 目の前にいる小柄な若者は何故か自分の事を知っており、学生時代のあだ名である〈ベシュ〉と呼び掛けて来る。そんな呼び方をするのは高校のミステリー研究会の面々だけであった。

 『待てよ──良く見ると、会長に面影が似ているな』

 確信を得たベシュは自信満々に声を上げた。

 「判ったぞ! 君は──」

 「初めまして、神武跳人です。昔、姉がお世話になったようで」

 ベシュの言葉を遮るように、色白で顔立ちの整った若者は慇懃に頭を下げながら自己紹介をした。

 「──お、おう。こちらこそお世話になりました」

 決め台詞を奪われたベシュが間の抜けた返答をする。

 「手踊辺刑事、いつまで遊んでいるつもりですか?」

 眼鏡を掛けた神経質そうな若い紳士は苛立ちを隠そうともせずに呼び掛けて来た。

 「ああ、申し訳ありません。ではまず状況の確認から始めましょう」


 ここは東京都港区白金台にある高級マンションの一室。

 この部屋の主は女性実業家の織河華帆。細身な体に加え切れ長の目をしている為、全体的な印象は〈スレンダー〉と言って間違いない。

 そんな彼女の部屋を訪れていたのが、真櫛輝美稔。仮想通貨で成功を収めた青年起業家でありながら、昨年、父親の犯罪歴を公表して話題となった人物である。彼の父親は多方面から出資を募りながらも自転車操業に陥り配当を滞らせ、投資詐欺で訴えられた末に失踪した投機家であった。その事実を公表した後、美稔は父親の残した顧客データを基に出資者へアポイントメントを取り、謝罪と賠償を行っていた。

 その詐欺の被害者の一人であったのが華帆の夫、織河公錫であった。公錫は織河財閥の婿養子であり、詐欺により多額の損失を出したことで一族から露骨に軽んじられる扱いを受けるようになり、それを苦に自殺してしまった。

 父親による投機詐欺で最も深刻な被害を発生させてしまったと考えていた美稔は、華帆に対して誠心誠意尽くすことで贖罪とするべく足繁く彼女の元を訪れていた。

 共に二十代後半で独身、知性と財力のある二人が互いに好意を抱くのは当然の成り行きであった。しかしながら美稔は彼女の夫に対する罪悪感から、華帆は貞淑な未亡人であろうとする想いから、お互いにあと一歩を踏み出すことはなかった。それでも二人は音楽を嗜むという共通の趣味からピアノを介してお互いの練習の成果を披露し合う関係となった。

 ちょうど今日は公錫の三年目の忌日であり、華帆は夫から贈られたエメラルドの指輪を填めていた。それは十カラットを超える大きさのカボションカットの宝石で翡翠よりも透明度が高く、時価八百万円相当の最高峰のエメラルドであった。

 華帆がピアノの演奏を終え、美稔が賛辞を述べる中、不意に彼女がこう告げた。

 「あら? 指輪は何処へ置いたかしら」

 それは何気ない一言であったが、美稔の示した狼狽は想像を絶する程、激しかった。

 「ちょ、ちょっと待って下さい、華帆さん! まさか失くしたとおっしゃるのではないでしょうね?」

 「まさか! 何処に置いたか忘れてしまっただけですわ。御一緒に食事をした時には御覧になりましたよね?」

 「ええ! 勿論覚えています」

 「それから、この居間へ来てピアノを弾く為に指輪を外したのですから、この部屋の何処かへ置いたはずです。何故でしょう、思い出せないですわ。もしかしてピアノの下にでも転がったのかも知れませんね。快さんに探して貰いましょうか」

 華帆が使用人である小松快を呼び出すべく内線電話を手に取ったが、すかさず美稔がフックを押して通話を妨げた。

 「ダメです! 警察の上層部にツテが有りますから、警官を寄越して貰います」

 「そんな大袈裟な──」

 華帆は美稔が冗談を言っているのだと思って笑いながら彼を見たが、その深刻な表情に言葉を失い、意見を改めた。

 「解かりました。そういう事でしたら私も知り合いの私立探偵へ依頼します」


 そうして呼ばれて来たのが手踊辺秀刑事と〈バーネット探偵社〉の神武跳人であった。

 「つまりエメラルドの指輪を見つければいいということですね」

 跳人が状況を端的に纏める。

 「いいえ、違います。ただ見つけるだけではダメなのです。この一時的な紛失に私が全くの無関係であることを証明していただく必要があるのです」

 美稔は落ち着かなげに室内を歩き回りながら言葉を紡いだ。

 「なるほど。確かに部屋に二人しかいなかったのであれば、どちらかの過失で指輪が紛失したのは間違いないでしょうからね」

 ベシュが納得したように頷く。

 「凄いや! さすがミステリー研究会の副会長ですね。その結論へ辿り着くまでに二分も掛かるなんて驚きです!」

 跳人の皮肉にベシュが顔を歪ませる。

 「なんなんだい、君は? 初対面のくせにえらく喧嘩腰じゃないか。会長の弟だからって調子に乗るんじゃないぞ。君の出番が無い内に私が事件を解決してやろう。そうすれば無駄な調査費も掛からないって訳さ」

 「それはどうも。参考までに我がバーネット探偵社は〈調査費無料〉がモットーでして。刑事さんが事件を解決してもしなくても我が社の利益には関係しないんですよ」

 「調査費無料だって? そんな商売が在る物か! 怪しいな、ますます君には任せられない。私一人で指輪を見つけるから、黙って見ているんだぞ」

 ベシュは跳人にそう念を押すと、華帆と美稔へピアノ演奏前の状況を確認して、彼らの行動をなぞりながら捜索を始めた。床へと腹這いになったり、椅子の上へと立ち、家具の上を覗き込んだりしながら精査していたが、小一時間もしない内に探す場所が無くなってしまい、お手上げ状態となってしまった。

 「もう降参ですか?」

 ピアノの内部構造を覗こうとしているベシュへと跳人が声を掛けた。不機嫌な様子を隠そうともせずにベシュが答える。

 「降参ではないが、一応君の見立ても聴いておこうか」

 「それは光栄ですね」

 跳人は整った顔を上品に歪めながら微笑んだ。その横顔はベシュに在りし日の青春時代を回想させた。

 『そうだ、こんな場面で会長ならばこう切り出すんだった──「やれやれ、一体何が謎なのか誰か教えてくれないか」って』

 「さてさて、最大の問題は皆さんが何を以てして〈事件〉だと騒ぎ立てているのか、僕には理解出来ないことですね。謎なき謎が謎、と言う訳ですよ」

 「謎なき謎だって? 現にエメラルドの指輪が紛失しているじゃないか!」

 ベシュが話にならないとばかりに溜息を吐いた。

 「まあ初めから期待などしていなかったが、素人は最初から引っ込んでいて貰いたいものですなぁ」

 ベシュが華帆と美稔に同意を求めながら彼らを見遣ったが、二人の反応は刑事とは異なるものであった。

 「では、あなたはもしかして──」

 美稔が期待を込めて跳人へと問いかけた。

 「指輪の行方をお探しだとおっしゃるのならばお答えできますよ。こんなものは謎でも何でも無いですから」

 跳人は肩を竦めながら答えた。

 「教えて下さい! 報酬は私が払います!」

 美稔が跳人へと近づき、両手で左右から彼の肩をガシッと掴んだ。

 「嫌だなぁ、我が社は〈調査費無料〉と言ったじゃないですか。まあ、必要経費の範囲内で御負担いただく事はありますけどね」

 美稔の手をやんわりと振り解きながら跳人が笑いかけた。

 「税金対策ですか? もし私と指輪の紛失に因果関係がない事を証明して下さるのならば、煉瓦でも座布団でも言い値を非課税でお渡ししても惜しくありません」

 「一億かぁ。何と魅力的な──いえいえ、頂く訳には行きませんよ。僕を呼んだのは華帆さんですから」

 跳人が華帆へと顔を向けると、彼女は恥ずかしげに俯きながら答えた。

 「あら? 調査費無料だからいつでも呼んで下さい、とおっしゃったではありませんか?」

 「勿論、無料ですよ!──でも無償と言った覚えは無いですよ。それを解かって呼んで下さったのでしょう?」

 澄んだ声音で朗らかに言い放つ跳人と華帆との間を遮るかの様に美稔が立ちはだかった。

 「そういう事か、下衆め! 帰ってくれ! 指輪は手踊辺刑事と私たちだけで見つけるさ! 貴様の手助けなど必要ではない!」

 激高する美稔を何処吹く風とばかりに無視しながら、跳人は華帆へと問いかけた。

 「どうします? 依頼人はあなたですから、仰せのままに従いますよ」

 大仰に執事の様な御辞儀をしながら華帆の返事を待つ跳人。

 「──指輪の在る場所を教えて下さい」

 「クソッ、何故です!」

 華帆の返答を聴き、美稔が毒づいた。それに対して跳人は不敵な笑みを浮かべる。

 「彼女の回答こそがこの事件とも呼べない事件の核心なのですよ。ここまで言えば指輪の在る場所が何処かお解かりでしょう、ベシュ刑事?」

 唐突に質問を振られてベシュは戸惑った。

 「も、勿論だ。私は解かっているが、他の二人の為に説明してあげてくれたまえ」

 刑事の返事を聴いて跳人は鼻で笑った。

 「さすがは副会長! では心理学の講義でも始めさせていただきましょうか。まあ、専門では無いのですけどね」

 「前置きはいい! 結論だけ言いたまえ」

 仰々しく切り出す跳人をベシュが制する。

 「そうは行きませんよ。結論だけ言っても皆さんの疑念が増すばかりになってしまいます。まあまあ──そう長い話ではないので御静聴を」

 ベシュを御すると跳人は一定の距離を保って立っている華帆と美稔へと目を遣った。

 「さて、ここに一組の男女がいます。お互い自立している上に独り身、趣味や価値観も共有出来るのを感じている。一見何のハードルも無く結ばれるべき二人ではありますが、過去の経緯からあと一歩を踏み出す事が出来ずにいます。そんなある日、御婦人の大切な指輪が消えて無くなってしまい、故意にせよ過失にせよ容疑者は二人のみ。自身が無関係であることを知っているが故に、意図的な紛失であれば犯人は相手以外には有り得ない。そう思い込まれるのを怖れた紳士は伝手を使って優秀な刑事さんに調査を依頼しました。一方で御婦人は知り合いの私立探偵を呼び出しました。それは何故か?」

 跳人は言葉を止めるとベシュを見た。

 「それは──何故でしょう?」

 ベシュは困ったように華帆を見る。

 「──何故かしら? 美稔さんが警察の方を呼ぶとおっしゃるのを聴いて、私も神武さんを頼ろうと思い付きましたのよ」

 「潜在的な防衛本能──つまりそういう事です。華帆さんは御主人を亡くす原因となった真櫛輝さんのお父上を許していない訳ではありません。むしろ自身を置いて居なくなってしまった御主人に対する怒りや失望の方が大きかったのでしょう。その為に無意識下では誰か一人に依存するのを酷く怖れているのです。だからこそ自分の意志を状況に流されずに確立すべく、自分寄りの第三者を用意しておきたかったのです」

 「すると君が華帆さんの味方で、私は敵と言う訳だ」

 美稔が拗ねたように嘆息すると、華帆は慌ててフォローした。

 「敵だなんて、そんな──」

 「華帆さんは潜在的には誰にも心を開いていませんから、僕だって味方だと認識されている訳ではありません。でも過去には彼女に対して好意を寄せていましたから、真櫛輝さんの敵だと識別されているでしょうね」

 「過去ということは、今は違うと言う事か?」

 ベシュは細かい所が気になって確認した。

 「世の中の女性には皆それぞれ異なる魅力がありますからね。さすがに僕だって全ての女性に興味を寄せる訳には行きませんよ。相手から好意を寄せられれば気になるし、好きにもなります。でも相手の気持ちが冷めてしまったり壁を感じたら大人しく身を引くのがお互いの為にベストでしょう? 勿論、今回は御指名いただきましたから、再度熱く燃え上がる物を感じていますけどね」

 「フン! 単なる浮気性の言い訳だな。そんな考え方だから華帆さんの真心まで到達することが出来ないんだ」

 美稔は軽蔑するような目線を跳人へと向ける。

 「そうかも知れませんね。でも残念ながらあなたもまだ心を開いて貰ってはいないようですけど」

 そう言いながら跳人はピアノの脇にある小机の上に置かれた華帆のハンドバッグを手に取った。

 「失礼──」

 華帆の許可が出る前に、跳人がバッグの中へと手を入れる。

 美稔とベシュが非難の声を上げる前に、跳人の手はバッグから取り出された。そしてその手の指先で掴んでいる物を見て二人は発しようとしていた言葉を失った。

 「エメラルドの指輪! どういうことですの?」

 困惑した表情の華帆が跳人へと説明を求める。

 「言ったでしょう? 無意識下の話です。このまま真櫛輝さんと関係を進めたいというあなたの表面意志と、誰にも心を許したくないというあなたの内面意識との二面性が今回の紛失事件を引き起こしたのです。あなたが僕を呼んだのはそれを暴いて欲しかったから。さらに自惚れるのならば、僕と真櫛輝さんを並べてどちらが自分に相応しいかを確認したかったのだと思いますよ。さて、どうでしょう? 僕はあなたにとって真櫛輝さんよりも魅力的な男であると認めて貰えましたでしょうかね?」

 跳人が左の掌を差し出すと、華帆は戸惑いながらもその上に自らの手を重ねた。その薬指へと跳人が丁重にエメラルドの指輪を填めて行く。

 美稔は嫉妬に顔を赤らめながら視線を逸らした。

 「さあ、これで僕の拙い心理学教室は閉講です。皆様、御静聴有難うございました」

 跳人は深々と頭を下げると足取り軽く部屋から出て行った。

 「本当に報酬を受け取らずに帰って行ったよ、あいつ──」

 呆れた様に跳人が出て行った扉を見つめ続けるベシュ。

 「ウ、ウウン」

 わざとらしく咳払いしながら美稔が呼び掛ける。

 「手踊辺刑事、事件は解決したようですから、そろそろ──」

 「あ! そうですね。私とした事が大変失礼致しました! それでは末永くお幸せに!」

 二人の男女の間に流れる微妙な空気感を一切無視しながらベシュがキリッと敬礼した。

 闖入者たちが去った後には、気まずい沈黙だけが場を満たし続けていた──。


 美稔が華帆のマンションを出て、近隣のコインパーキングへと戻って来ると黒い高級車の前に立っていた黒づくめの服を着た運転手が後部座席のドアを開いた。美稔はチラッと運転手に目をやると黙って車へと乗り込む。やがて車が走り出すと美稔が口を開いた。

 「よくもあんな無茶苦茶なシナリオで丸く収めたものだ」

 それは独り言のように思われたが、運転席から返答があった。

 「まあ、お互いが望んでいたゴールが明白でしたからね。きっかけは何でも良かったのですよ」

 運転手はそう言いながら後ろ手で何かを要求する様に手を伸ばした。

 美稔は上着の内ポケットから厚めの封筒を取り出し、その掌へと載せる。

 「毎度♪」

 「バーネット探偵社は〈調査費無料〉と聞いていたがな」

 美稔の皮肉に対して、運転手である跳人はバックミラー越しに笑いかけた。

 「嫌だなぁ。調査費は無料ですけど、成功報酬はいただきますって最初に言ったじゃないですか。それよりも真櫛輝さん、婚約発表は近日中ですか?」

 「まあ、君のおかげで綺麗に身辺整理が出来た。もしお義父さんが探偵を雇って調査しても全ては過去の事。近いうちに身を固めるつもりさ」

 美稔は片肘をつきながら窓の外を見遣った。そして今回の出来事の発端から回想する。

 華帆に出会い恋に落ちた事。それから間もなく財界に顔が利く政治家の娘との縁談が持ち上がった事。バーネット探偵社へ依頼し、跳人が華帆へ近づいた事。跳人の指示通り、ピアノの上に置かれていたエメラルドの指輪を華帆のハンドバッグへ隠した事。跳人が指定した手踊辺刑事を呼び出した事。最後に華帆の手を取り「お元気で」と告げて別れた事。

 「彼女は幸せになれるだろうか──」

 その呟きに対して、跳人は返答する無く黙って運転を続けた。

 だが、その口元は笑みを浮かべていた──。


 数日後、友人知人へ失恋の傷を癒す為の旅へ出ると告げた華帆は成田空港のロビーに座っていた。

 「お待たせしました」

 その隣の席へと滑り込むように座る若い小柄な男、神武跳人。

 「いかがでした? 美稔さんは」

 華帆は跳人を見る事なく問いかけた。

 「微塵も疑っていませんね。全ては御自身の計画通りに進んだと思っています」

 「そう、良かった。悪い人ではないですから幸せになっていただきたいですわ」

 「確かに悪い人ではないですね。だからと言って、あなたにとって必要な存在だった訳でもなかった」

 跳人の言葉を受けて、華帆は彼を見つめながら非難する。

 「ハッキリ仰るのね。では、あなたは私にとって必要な存在なのかしら?」

 「それを決めるのはあなたですよ」

 そう言いながら跳人は華帆の瞳を真っ直ぐに見つめた。

 お互いの顔が引き寄せられるように近づいて行き、唇が重なる。

 暫しの時を経て、二人の体が離れた。

 「少なくとも、僕にとってあなたは必要な存在ですよ」

 跳人の言葉に華帆が笑った。

 「お財布としてでしょ? ねえ、敬語はやめて。自分が酷く年寄りになったように感じるの」

 「仰せのままに」

 跳人は立ち上がって華帆へと手を伸ばした。

 「そろそろ時間だ。さあ、行こう! 自由への旅立ちだ」



つづく

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