第4話

 それから一ヶ月、僕がケンのアパートに行く事は無かった。

 今の若い人は不思議に思うかもしれないが、スマホはおろかケータイすら無かった時代、友人に会うのに昼だろうが夜だろうが相手の都合などお構い無しに直接家まで訪ねて行くのは普通の事だった。

 人との繋がりを保つのに努力を要し、それが優先される時代だったんだ。

 逆に言うと、人との繋がりを断つのも容易だった。その時の僕は、ケンとの関係がそうなってもいいと思っていたのかもしれない。

 酷い不眠に悩んでいた。食欲も無く、何とか食べても、ミユちゃんの事……いや、ミユちゃんが客に行っているであろうサービスの事を考えただけでゲロった。

 まったく、こと恋愛に関しては我ながらノミの心臓だ。

 彼女の事を考えたくなかったし、彼女を連想させる人にも距離を取りたかったんだ。


 だからその日、仕事から帰って来て固定電話の留守電有りのランプが光っていても、再生させるかどうかしばらく悩んだ。

 覚悟を決めて再生させるとやはりケンで、渡したい物があるから来いと言う。

 声を聞いてしまうともうダメで、距離を置こうなんて思いは簡単に吹き飛ぶ。僕はケンに会いたくて堪らなくなり、家を飛び出した。


「よお、久しぶり……」

 ケンは寝転がってテレビを観ながら僕を迎えた。

「……何か飲むか?」

「買ってきた」

 僕は、ちゃぶ台に缶ビールの入ったコンビニ袋とフライドチキンの箱を置く。

 ケンが眼を輝かせて身体を起こした。

「やったぁ、ケンタじゃん。よ、太っ腹」

「ちゃんと食ってるか?」

「そんな金ネェよ。缶コーヒーがオレの栄養ドリンクだからさ」

「フーゾク行く金を、少しは食費に回せよ」

「でもよ、食わんでも生きていけるが、射精せんと生きて行けんからな」

 僕は笑ってしまった。

「ハハハ、逆だろ」

 ケンの眼は優しかった。何も言わないが、心配してくれていた事が伝わってくる。

 ビールで乾杯する。

「クーッ、やっぱビールは美味いわ」

 いつもは徳用大ペットの格安焼酎専門のケンである。ビールはご馳走なのだ。

 遠慮のカケラも見せず、ケンは勝手に箱を開けてフライドチキンに食らい付く。僕も久しぶりに空腹を感じ、チキンをかじった。

「で、行ったのか?」

 ケンは何気無さを装って話すが、こんな小芝居が下手なんだよ。気を遣っているのが伝わってくる。

「うん」

「どっち?」

「ミユちゃん」

「……だよな」

 ケンはロング缶の一本目を飲み干し、二本目を開けた。

「ヤレた?」

「うん。でも金は受け取ってくれなかった」

「そっか……」

 ケンはしばらく、チキンを見つめたまま考えていた。そして、唐突に話し出した。

「オレさ、ミユちゃんとは二回遊んだ。ヤッたのは一回。一回は金が無くてさ、口ん中に出した」

 チキンを一口、ビールを一口、ケンは機械的に口に運ぶ。

「ユージも二回。アイツは二回とも最後までヤッたって言ってた。そんだけだ、オレらがミユちゃんと遊んだの」

 ケンの眼が泳いだ。

「言うかどうか迷ったんだけどさ、やっぱ言うべきかなって。だってホラ、知らないのが一番ツラいじゃん。妄想ってさ、どこまでも広がるだろ?」

 僕はケンに感謝した。僕の事を想い、正直であろうとしてくれたんだろう。

「それと、あれからあの店には行ってない。もう行かないよ。ダチが惚れた女と遊ぶほど野暮じゃないからさ」

 ケンは外見こそダサいが、心は男前だと思う。

「フーゾク店は沢山あるし、フーゾク嬢はもっと沢山いる。わざわざあの店に行かなくても、日本中のフーゾク嬢がオレを待ってるしな」

 バカだけど(笑)。


 ケンは、一通の封筒を僕に差し出した。半魚人のキャラクターが描かれたかわいい封筒だった。

「今日帰って来たら、ポストに入ってた。ミユちゃんからだ。表にオマエに渡すよう書いてある」

 僕は受け取り、中を覗いた。封はされてなかった。

 便箋が一枚とチケットが一枚入っていた。

「それ、アレだろ。例のオカマバレエ団。観に行こうって、盛り上がってたもんな」

「……」

「まあ、オマエが決める事だけどさ、迷うなら行ってやれよ。一度は約束したんだし」

「……そうだな。そうするよ」

 ケンはニヤリと笑う。

「オレが言うのも変だけど、ミユちゃんはいいコだよ。誠実なコさ。それにオマエに惚れている」

 二本目のビールも飲み終わり、氷の入ったコップと大ペットの焼酎を持ってきた。僕が買ってきた四本のロング缶のビールは、砂漠に水を撒いたように一瞬で消えた。

「フーゾク嬢になったのも、お決まりのコースさ。高校を出て同棲した奴が自称ミュージシャン、要はヒモだ。あのコはその男のためにフーゾクで働くようになったそうだ」

「まだ、その男と暮らしているのか?」

「焦んなって、最後まで聞けよ。その男な、もっと金持ちの女を見つけて乗り換えるんだ。『X』ってブテック知ってるか?」

「ああ、聞いた事ある」

「あと、『サイレント』とか『バロック』とか。全部同じ女社長がやってる服屋で、その社長に拾われるんだよ。よほどHが上手いんだろ」

「クズだ」

「クズだよ。だけど女って、そんなクズ男が大好きだから。ちなみにそのクズ男、今じゃその女社長の会社の取締だから。シャレでシルバーアクセのデザインやったら当たったんだと」

「そんな理不尽な……」

「それがリアルってもんさ。で、ミユちゃんは、男が出て行った後も、惰性でフーゾクを続けてるって訳だ」

「惰性……」

「オマエが言えば、彼女はフーゾクを辞めるだろう。付き合うなら、オレは祝福するよ。ユージだってそうさ」

 だが、ケンが手放しでミユちゃんと付き合う事を勧めている訳ではない事は口調で分かった。

「ただな、オレみたいなアル中が酒をやめられないように、ミユちゃんも身に付いたフーゾク嬢の習慣は簡単に変えられるもんじゃない。オレの言う事、分かるか?」

「ああ……何となく」

「いや、分かってネェな。簡単に言うと、まず経済観念がおかしいコが多いんだよ、フーゾク嬢って。まあ、医者や弁護士並の金を小娘が手にするんだ。おかしくもなるわな。だから、一度辞めて普通の仕事についても、またフーゾクに戻るコは多い」

「……」

「そして、やっぱりパンツのゴムが緩い。好みの男がいたら、付き合っている男がいても、平気で抱かれる。変な言い方だけど、彼女らはそんな事に罪悪感を持たない訓練を乗り越えてフーゾク嬢になるんだ」

「うん……言いたい事わかるよ」

「後はオマエ次第だ。あのコに稼がせて、遊んで暮らすという人生もある。根気よく時間をかけて、一般人としての経済と道徳を再教育するという方法もある」

 そしてケンは、僕の前にあるチケットを指差して言った。

「そして、それを最後に会わないという選択も……」



 待ち合わせ場所である劇場前に、彼女は立っていた。

 まだ、約束の10分前。いつからいるのだろう。

 優しい水色のプリーツスカートと純白のブラウス。そして、ナチュラルメイク。

 今の清楚な彼女の姿を見て、誰がフーゾク嬢だと思うだろう。ベビードールと真っ赤な口紅で客を迎える彼女は、眼の錯覚か幻ではないかと思ってしまう。

 声を掛ける前に彼女は僕に気付いた。

 首を少し傾げて笑う。その仕草が美しすぎて、僕は悔しくて堪らなくなる。

「良かった、来てくれて。少し心配だったんだ」

「今日はありがとう。あの、チケット代は払うよ。いや、払わせてくれ」

「いいよ、私が誘ったんだから」

 彼女はチケット代の話をスパッと終らせ、僕の手を引いて劇場内へと向かった。

 席は一階席のど真ん中、ステージの端から端まで良く見える。

「途中でトイレに行きたくなったら大変だね」

 彼女はまじめな顔で言った。

 バレエは素晴らしいものだった。モンテカルロバレエ団は、決してキワモノではない。

 卓越したテクニックと表現力。要所要所に笑いを散りばめるが、下品でもグロでもない。

 時に美しさで魅了し、次の瞬間に爆笑させる。素晴らしいエンターテイメントだ。

 僕たちは満足して劇場を出た。


 それからイタリア料理を食べに行った。当時はイタメシとか呼んで、デートの定番だった。

 港のターミナル二階にあるレストラン。中央が吹き抜けで円形の巨大な水槽があり、大小数多くの魚と大きな亀が数匹、グルグルと泳いでいた

 ここは僕が支払うからと最初に念を押していたのに、彼女は僕がトイレに行っている隙に支払いを済ませていた。

 正直、嬉しくなかった。申し訳なさで一杯だったし、ケンが言っていたフーゾク嬢は経済観念がおかしいという言葉も耳に残っていた。

 この日、彼女が選んだワインは、僕が購入をためらっている洗濯機より高かった。

 店を出た後、僕は通り掛かったアクセサリーショップに飛び込み、最初に眼に飛び込んだアクアマリンとホワイトゴールドのネックレスを買った。

 今日のミユちゃんのファッションに良く合うと思ったんだ。

 僕にとっては大金だったけど、彼女にとっては安物だったと思う。それでも、とても喜んでくれた。

 その場で身に付けてくれた。思った通り、良く似合っていた。

 そして、彼女は言ったんだ。

「ねえ、私の家に来ない? 時間を気にしないでユックリできるから……」


 それをどう言って断ったか、もう覚えていない。

 明日は仕事が早いから、とか言ったんだろうなぁ……。

 その後、二度とミユちゃんに会う事はなかった。

 前にも書いたけど、人との繋がりを断ち切るのが容易な時代だったんだ。


 え?

 オチなんて無いよ。

 長々と書いたけど、僕の経験した絶望を書き留めたかっただけ。

 現実に起承転結なんて無い。

 今も彼女の事を忘れられないし、今も恋してる。


 だから、今も僕は絶望に絡まれている。

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