朝の丸ノ内線で

咲翔【活動休止】

***

 

「次はー、新大塚ー、新大塚ー。お出口はー、左側でーす」


 朝の丸ノ内線は激混みだ。もう満員電車、なんてもんじゃない。超満パン電車って言いたいくらい人がギュウギュウと押し込められている。


「ドア付近のお客様ー、手荷物お気をつけくださーい」


 そんなアナウンスが流れて、駅員さんが頑張って人を電車に押し込むような光景は、いつものことだ。ぼくは、そんな超満パン電車に乗って毎日通学している。


 はぁ、息苦しい。人が詰め込まれた電車ほど息苦しいものはないと、ぼくは思う。駅を経るにつれて増えていく人、狭まるスペース。スーツ姿の人が多いから、余計に緊張感が高まるし、乗っている人の憂鬱そうな顔を見るとぼくも暗い気持ちになる。


 まあ、ぼくもきっと同じような顔をしているんだろうけど。


「もっと奥行けないのかよ」

「す、すみません」


 たまに、文句を言いながら乗ってくる人も居る。ぼくはそういう人と出会った時、本当に申し訳ないという気持ちと、逆に無理言わないでよと泣きたくなる気持ちと、ちょっと怒りたくなる気持ちが入り混じった変な心地になる。


 ぼくだって、もう少し広いスペースがほしいよ。だけど言いたくても言えない。だって皆が思っていることだから。


 はぁ、憂鬱だ。


 なんでこんな人混みの中で苦労しながら通学しなきゃいけないのだ、と思う。家から遠い都立の高校を選んだのは間違いなく中学時代のぼくで、そのために一生懸命勉強した事実があることは確かだ。だけど……こんなはずじゃ、なかったのに。


 何の話かって言うと、学校が最近つまらないのだ。同じ日常の繰り返しすぎて、つまらない。毎日がおんなじように思える。代わり映えのない日常、それはそれで平穏でよろしいのかもしれないけれど、ぼくは高校生で、たった三年間しかない時間を過ごす身としてはもう少し刺激がほしいのだ。


 キラキラしたアオハルを、とは言わない。高望みはしない。だけどもう少し、もう少しだけ……ワクワク感をくれてもいいんじゃないかな、神様。


 そんなことを考えながら、必死につり革に捕まっていたときだった。ぼくの目が、ふと右斜め前に座るスーツの人を捉えた。一度、まばたきをする。ぼくが立っているのは、横長のシート席の真ん前。ぼくの目の前には、疲れた顔のおじさんが座っている。違う、ぼくが見たのはこの人じゃない。その右隣……ぼくはもう一度、その人を見た。


 いや、人じゃなかった。


 ぼくは、電車の中で、それも田舎の空いている路面電車とかじゃなくて、満員の丸ノ内線で。


 猫を見たのだ。


 スーツ姿の、猫が居たのだ。


「えっ……猫……?」


 ぼくは思わず口に出してしまってから、慌ててつり革に捕まっていない方の手で口を押さえる。手から伝わる、不織布マスクの感触。ああ、よかった、マスクしていた。だったら周りの人にも口の動きは見えていないはず。


 ぼくはあまり人のことを見るのは良くないと思いつつ、もう一度、もう一度だけ右斜め下に目を向けた。


 ……やっぱりだ。やっぱり猫がスーツを着て、シート席に座っている。


 疲れた顔のおじさんと、学ランを着た男子高生に挟まれて、背筋正しく座っているのだ、白猫が。


 なんでこんなところに、猫。


 ぼくがそう思ったとき、それが伝わってしまったのか、猫がこっちを向いた。その黄色い瞳と、ぼくの目がバッチリ合う。


「何をジロジロと見ているんだい」


 声がした。ぼくが驚いて「え?」と聞き返すと、もう一度同じ声がした。


「君に話しかけているんだよ。そう、そこのブレザー制服姿の君。マスクをしている君だよ」


 三回も君、と連呼されて、ようやくぼくは声の主に気がついた。この、猫だ。よく見ると猫の小さな口がパクパクと動いている。


「は、はい、なんでしょうか」


 ぼくが、かみながらそう返事をすると、猫は少し不機嫌そうに言い返してきた。


「なんでしょうか? それはこちらのセリフだよ、そんなに私のことをジロジロと見て、君こそどうしたんだい」


 ぼくは思わず、素直に答えてしまった。


「だって、電車に猫が居たから」


 すると猫は更に不機嫌そうな声になる。


「電車にだって猫ぐらい居るさ」


「そういうもんなんですか?」

 ぼくが戸惑って尋ねると、

「そういうものだよ」

 と、猫が大きく頷いた。


 猫の表情の変化は読み取れないぼくでも、猫が首を縦に振ったのは分かった。


「でも電車って、人間が乗るものですよ。通勤とか通学とかする、疲れた顔の人たちがたくさん乗るものです」


 平日の朝は、特に。


 ぼくがそう付け加えると、猫は淡々と言った。


「電車に乗るのが人間だけって、いつ決まったんだい? 疲れた顔の猫だって、通勤や通学のために乗っているさ」


 現に私も今から仕事だ。


 猫はそう付け加えた。ぼくに見せつけるように、肉球のある手で、スーツのネクタイを整える猫。


「そういうものなんですね」

「そういうものだよ」


 猫はまた大きく頷いた。そのとき、電車がガタンッと揺れた。ぼくはつり革と一緒にぐわん、と大きく揺れる。だけど猫は平然と座っていた。


 猫って、塀とか屋根の上をスイスイ歩いていくものだから、きっとバランス感覚が良いのだと思った。


 車内アナウンスが響く。


「次はー、国会議事堂前ー、国会議事堂前ー」


 猫が立ち上がった。ぼくは驚いて猫を見る。


「降りるんですか」


 猫が荷物棚から通勤かばんを取り出しながら答える。


「降りるよ。猫がここで降りたら、おかしいかい?」


 ぼくは一瞬「おかしいです」と答えようとしたが、やめた。人間だって、たくさんこの駅で降りるのだ。猫がたくさん降りたって、おかしくはない。


「いや、おかしくないです」


 すると猫は、大きく二回も頷いた。


「そうだろう、そうだろう」


 猫は、そのまま二本足でドアの近くへと歩いていく。そして、ドアが開くと同時に、他の人間たちと一緒にすごい勢いで電車を降りていった。


 猫が座っていたシートには、紺色のスーツを着た女の人が座った。ぼくは猫の後ろ姿を目で追いかけようと、しばらく窓から国会議事堂前駅のホームを見ていたが、あのスーツ姿の猫はもう居なかった。


 猫は逃げ足が速いから、もしかしたらもうエスカレーターに乗っているかもしれないと思った。


 電車が走り出した。新大塚と茗荷谷駅間ほどの混み具合ではなかったが、さすがは朝の丸ノ内線。まだ人はいっぱい居る。


 ぼくはふと思い立って、そっと周りを見渡してみた。もしかしたらあの猫の他にも、猫が居るかもしれないと思ったからだ。


 だけど周りは人間だらけだった。猫は居なかった。


 なーんだ。少し拍子抜けした。


「次はー、赤坂見附ー、赤坂見附ー」


 猫の降りた駅の次、赤坂見附に着いた。ぼくはここで降りる。学校の最寄りだからだ。


 プシューと音を立てて、ドアが開いた。ぼくはホームへと降りる。電車内の息苦しさから、一気に開放される。


 見慣れた駅の看板が視界に入った。いつもぼくは、毎朝この看板を見て思うのだ。ああ、またつまらない一日が始まってしまう、と。


 だけどなんだか今日は、その看板がいつもと違うような気がした。なんだろう、どこが違うのかわからないけれど。


 つまらない日常が、少し変わるような予感がした。


「猫も疲れながら頑張っているんだから、ぼくも頑張らないとね」


 マスクの下で小さく呟いてみる。ぼくはおかしくて、思わずフッと笑ってしまった。


 そうだ、猫も人も変わらない。

 

 みんな疲れた顔をしながら、でも、そのつまらなくてただ繰り返すだけの日常の中に、ほんの小さな非日常が起こらないか期待しながら、出かけていくのだ。


 今日も、明日も、明後日も、その先も。



 改札を抜けて、ぼくはふと気づいた。


 あれ、国会が召集されるのって一月だったっけ。

 

 せわしなく電車を降りていった猫を思い出して、まさか、と思う。


 まさか、まさかね。


 ぼくは駅を出て、学校へ向かって歩き出す。

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