いつか安らかに

杓子ねこ

第1話

 音を立てて衝突した羽虫がフロントガラスに黄緑色の体液をのこし、ジョムズは自分が偏向シールドのスイッチを入れ忘れていたことに気づいた。

 ハンドルの影に隠したモニタを盗み見る。反応なし。

 防弾パネルで仕切られた後部座席にはロブ・マッカランがたくわえた口ひげをいまにも食いちぎりそうな仏頂面で座っていたが、ジョムズの失態には無関心でいてくれたようだ。

 強制休眠スリープでの移動を常とするロブだが、体内時計に従い、今日は習慣を拒否して目覚めていた。

 やがて加速と上昇に伴う揺れがおさまると、ロブはおもむろに口をひらいた。

「わたしがわざわざ二〇〇マイルもかけてどこへ行くか、わかるかね?」

「ニューヨーク・シティ、J・J・センターです」

 すぐさま、つとめてアンドロイドらしいと思われる答えをジョムズは返す。ロブはジョムズが金属の部品で構成された機械だと考えているのだ。実際、あらかじめ検索した最短経路を自動で飛行するだけのドライブに人間は不要で、普段運転席に座るのはセンサ機能のついたアンドロイドだった。

 数か月に一度のカウンセリングの日のみ、ジョムズのような整備局員が、なにくわぬ顔をしてアンドロイドの身代わりにおさまる。

「そのJ・J・センターで、新しい年金制度について話し合うのだ。逆算年金制度では、〝すべての国民の平等〟をモットーに遺伝子解析から導きだされる寿命に従って受給開始時期が決まる。年金を受け取る期間は誰もがきっかり二十五年だ。死亡した場合は残年数分を遺族または相続者へ支給。これで誰それのじいさんはうちのばあさんより四年も長く年金をもらっていたなんて文句もでなくなるし、国費における年金支出の割合が増大しつづけるということもない。国民も政府も先の見通しがつくんだ。すばらしいと思わんかね? 人工知能なんてものはこんな提案しかしてこない」ロブは語気を荒げた。

 モニタが不規則に明滅する。これはロブが〝心を乱している〟しるしだった。

「ストレスを感じていらっしゃいますね」

「当然だ。我々は人工知能が毎日大量に提出する法案をレビューし続けるためにニューヨークだのワシントンだのに駆り出される。我々は専門家の意見を聞き、人工知能にフィードバックしてやらねばならない……実現可能性二十三パーセント、却下。主要な理由の内訳――医療インフラの問題十五ポイント、倫理上の問題八十ポイント、予算の問題五ポイント、というふうに」

「人工知能がより適切な法案を提出するために必要なデータです」

「そうだ。厳密にはあれは人工知能ではない。世界のどこをさがしてもまだ〝人工的に造られた知能〟なんてものはない。あれらはなにも考えていやしない。ただ蓋然性に従ってそれらしいことをアウトプットするだけだ。制度を提案しはするがその制度が必要な理由はわからないし、そんな制度を議会に持ちこんだらメディアの格好の餌食になることも、人権団体から抗議文書が届くことも、挙句の果てにはよその国の見知らぬ教団から殺害予告まで飛び出してくるなんてこともなんにもわからない」明滅が激しくなり、ややあってから間隔が長くなった。

「しかし人の心がないからこそできることもある。人間の限界を超えるには誰でもない存在が必要なのだ。偏見や思い込みなく、赤子のように倦むことなく現実世界へ演算の手をのばしつづける存在が」

 自分に言い聞かせるようにロブは呟きつづける。

「そのためにあなたがおられます、ロブ・マッカラン議員」

「そうだ。そのために我々がいる。我々はいばらの道を歩かねばならぬ。いずれ人工知能が誰も気づかなかった方法で世界平和を実現することを信じて」

 電磁モニタの明滅は完全にとまった。ロブは感情をコントロールする能力を有していた。

 ジョムズは高度計に触れるふりをして斜めの角度からバックミラーを覗いた。ロブは膝の上に置いた両手をじっと見つめていた。

「まずはこの国からだ。だからわたしは第三計画に立候補した。中央院議員になった」

「そうです」

 思わず声に力が入った。第三計画の参加者たちをジョムズは尊敬している。彼らの役に立ちたくてこの仕事に就いたのだ。三十年前、しがない車の整備工だったジョムズを年甲斐もないハイスクールへ、果てはカレッジへとむかわせたのはある昼下がりに耳に飛びこんできたラジオのニュースだった。

 ロブ・マッカランを含む二十三名の議員が〝第三計画〟に立候補した。彼らは科学と文明の勝利を心から信じ、自分の死後には脳、臓器、あらゆる肉体と記憶すらも献体として提供するという同意書にサインした。彼らは不死鳥のように甦り、志は潰えることはない。この気高い献身的態度は永く語り継がれ、心をふるわされた第二第三の立候補者たちが現れるであろうとDJは熱っぽく語り、急遽予定を変更して〝スター・スパングルド・バナー〟を放送した。〝砲弾の赤い閃光と空気を切り裂く爆発が、夜闇のなか我々の旗がまだそこにあることを教えてくれた〟……。

 ジョムズは感動に打ちふるえ、工具を握ったまましばらくスピーカーのサランネットを見つめていた。愛国心。そうだ、愛国心だ、と思った。彼の父親は軍人だった。国のためになにができるかを考えろというのが口癖で、家族をふかく愛していたがゆえに家族がいては任務に集中できないからと、国外の基地へ勤務するときは常に単身赴任を選択した。「でもお前たちに危機が迫ったときはすぐに駆けつける」父は心からそう言った。ジョムズは母親の血筋か体格に恵まれず、腕力にも自信がなかった。文官をめざすほどの気概もなくくすぶっていたジョムズを、あの日のラジオが変えたのだ。

 ジョムズにとって中央院議員たちは畏敬を捧ぐべき父である。

 しかし、ロブ・マッカランは、自身の判断を後悔し始めているのだろうか?

「なにもかもが変わってしまった」

 ロブは窓のむこうへ視線をむけた。日没直前の陽光が鋭く目を刺す。ジョムズの鳶色の瞳も痛んだ。眼下ではコネチカット・リバーが風に揺れる水面をうろこのように輝かせていた。高度のおかげで離れた地点からでも州議事堂の黄金の丸屋根が見えた。ハートフォードの周囲はすでに郊外で、緯度四十一度半の夕陽を浴びながらどこもかしこもオレンジ色に燃えていた。森も、畑も、点在する家々の雪下ろしのためにかしいだ屋根も。

 ロブは目を細めた。飛行車両を利用できるのも中央院議員の特権である。

「先月地元へ帰った。隣の家のベティはまだそこへ住んでいて、がんを患うしわくちゃの婆さんになっていた。まがった腰でわたしを仰ぎ見て言うんだ、いいわね、いつまでも若いままで、と」モニタがふたたび赤い光を点滅させた。

 ロブは八十七歳の自身の頬をさすった。なめらかとはいかないが少なくともしわくちゃではない、五十代のままの感触があった。

「我々は他人の二倍の寿命を得た。我々の脳には二本の電極が埋めこまれている。一つは我々を眠らせ、もう一つは我々が眠っているあいだに勝手に脳へ情報を書きこむ」

「はい、存じております」

 三十年前、研究者たちは視床下部の神経細胞を活性化させることにより動物の心肺機能を低下させ、休眠状態をつくりだすことに成功した。その三年後、技術研究センターは、記憶領域の解析がすすみ、脳に睡眠学習をさせることが可能になった、と発表した。中央院議員たちが被験者となった。

 移動のあいだ、彼らは眠り、歳をとらない。

「こうして我々はほかの者たちが死にむかって歩む時間を、本当の意味で眠り、本当の意味で学ぶための時間に充てる。我々は二十万ドルの手術費と年間三万ドルの維持費を一〇〇年間投資するに値する人物だと判断された。余人をもって代えがたい、と」

「はい、そのとおりです」

「ベティは……ベティが死んでしまったら、アップル・ヒルの知人は誰もいなくなる」

「……」

「ベティは苦しんでいるんだ。かわいそうに」

 ジョムズは言葉に詰まった。なにか彼の心を慰めるようなことを言いたかったが、それはできないのだと悟った。

「申し訳ありません、返答できかねます」

「そうだ、周囲の確認と軽いおしゃべりが君の仕事だ。それ以外のことはできない」

「はい、そのとおりです」

「ロボットは決められたことしかできない」

 ロブはアンドロイドを必ず〝ロボット〟と呼ぶ。それが人型であっても。

 ジョムズは話がここで終わることを願ったが、叶わなかった。

「もしわたしが君に『わたしを殺してくれ』と命じたらどうなるかね?」

「命令を拒否します」

 表には現れないほどの刹那を悩んでから、ジョムズはつけ加えた。

「すべてのロボットには安全装置が搭載されており、人間に危害を加えることはできません」

「わたしがロボットならどうだろう。ロボットはロボットを殺せるか?」

「場合によっては可能です。なんらかの理由で人間の尊厳が脅かされそうな場合、それを阻止するためなら。しかし理由もなくほかのロボットに危害を加えることは、やはり許されませんので、命令は拒否します」

 動揺を気取られないよう、一定の速度で話すことを心がけた。

 セイタカアワダチソウの群生する空き地が脳裏をよぎる。その上空で「車を落とせ」と叫ぶ議員の幻影。後部座席からドライバー・アンドロイドにつかみかかり、ハンドルを奪おうとする……。

 ジョムズは鼻孔が膨らまないように注意を払い、細く息をした。電磁モニタは黙って事の成り行きをながめているようであった。

「やはりそうか」

 君が言うなら信憑性があるな、とロブは小さく言い、ポケットから煙草をとりだそうとしてやめた。

「アップル・ヒルはなにも変わらない。メイン・ストリートの家が一軒建て直したくらいだ。庭の芝生は刈りそろえられ、『卒業おめでとう』とか『エッセンシャル・ワーカーに感謝を』といったボードが立てられている。ただ道路の亀裂は二十年前に綺麗さっぱり存在を消した。芝生を刈るのはセンサ付きのモウアーだ。ベティの足もとを駆けまわるのも機械犬。わたしにも吠えかかってきたよ。ベティの様子がおかしければ通報して救急車を呼んでくれる。危篤の場合には家族への連絡も。しかし、人間は減った。身を粉にして働いて、やっていることといえばロボットと機械を増やすことだけだ」

「人口は増えています。それはあなた方の功績です、ミスター・ロブ・マッカラン」

「誰も外を歩かなけりゃ、わたしにはわからんね」

 ロブは座席のシートを倒し、身を横たえた。

「もう寝るよ。スリープをかけてくれ」

「二週間のバケーションを提案します」

「マテュー・グレアムを知っているか? あいつも死ぬ前の一年ほどは憂鬱症の気があったな。かわいそうなやつだった。政府はあいつの献体をなにに使ったろう?」

「わかりかねます」

「我々は運命共同体なんだ、家族以上に。家族の寿命も延ばしてくれたらよかったんだがなあ」

 ロブはため息をついてヘルメットをかぶり、スイッチを押した。

「政府はベティをスリープさせてはくれなかった。ベティとわたしは離婚したんだ。彼女は実家へ帰った。二人の家の隣の家にね」

 思わず背後を振り返ったが、ロブの表情はエナメルのような光沢のある銀の球面のなかだった。力を失くした四肢がシートベルトで縛られた胴体から垂れ下がっていた。眠りについたのだ。

 後部座席とつながるマイクのスイッチを切り、ジョムズは息を吐きだした。顎が前へ出て背が丸まった。視線は周囲に配りながら、今朝ながめた資料を記憶から呼び起こした。整備局の記録によれば、ロブ・マッカランがカウンセリングの際に自分から会話を打ち切るのははじめてだった。マテュー・グレアム中央院議員が三年前に同様の挙動を見せた。彼は三度カウンセリングを拒絶し、翌月彼の死が発表された。遺体はボストン郊外のメモリアル・パークに埋葬された。ポーラ・ヘント中央院議員が直近二度のカウンセリングにおいてカウンセラーの意図しないタイミングで会話を中断している。ポーラ・ヘントは議員としては若い三十代で、元気のよさが自分の取り柄だと考えいつも快活な挨拶をする女性であった。


 車はすべるように天と地の狭間を飛んだ。東西と南北のインターステイトがぶつかる立体ジャンクションでは多層的にループする誘導路が左右非対称の花をえがく。やがてマンハッタンへ入った。ブリッジの直線に働き蟻以上の密度をもって車両が隊列を成し、最後の陽光にルーフを輝かせていた。

 ジョムズは背筋をのばすとマイクをオンに戻した。ロブを目覚めさせるようボタンを押す。銀のヘルメットが蠢動し、リクライニングがかすかな音を立てながらロブの身体を起きあがらせた。

「あと五分で到着です」

「けっこう」

 ヘルメットから無感動な顔がのぞく。ロブは厚みのある指先で髪とひげとを整えた。

「二週間のバケーションを提案します」

 ジョムズはくりかえした。数秒の沈黙があった。

「君が伝えてくれ」

 やがて耳に届いた返答にほっとつきそうになった息を押し殺した。

「かしこまりました」

 普段のアンドロイドたちなら中央院議員直属の運転手として政府の役人と通信ができる。ジョムズにその権限はないが、整備局を通せば政府へ上申する道はある。そのほうがよりよいだろうとジョムズは思った。ロブの希望でなく整備局の要請としたほうが。

「着陸します。揺れにご注意ください」

 車は北ポートへ降りて正面ロータリーへとむかった。背後でべつの飛行車両が着陸し、フロントガラスごしに夕焼けに浮かぶさらにいくつかの車両が確認できた。閑散とした北ポートがにわかにカラスの群れに狙われた獲物のようになった。

 ロータリーからは巨大なアーチ状のエントランスが見えた。無数の会議室と人とアンドロイドを腹のなかに呑みこんで、J・J・センターはそびえ立っていた。

 ジョムズは先に車を降りて後部ドアへまわり、ロブをうながした。冬眠からさめたクマのように重々しく、やつれた表情のロブが現れた。

「三時間後にお迎えにあがります」

 返事はなかった。うしろから追いついた議員がロブの肩を叩く。笑顔のポーラ・ヘントだった。ロブは仏頂面のまま片手をあげて返した。中央院議員たちの車が続々とロータリーへ流れ込み、彼らを降ろし、待機場所である南駐車場へとむかった。自動運転による一部の乱れもない隊列。白い枠のなかにおさまると、それぞれの車両は遮光スクリーンを張ってぴくりとも動かなくなった。

 主人のプライバシーを完全に保護するため、という名目になってはいるが、本当の目的は車内でアンドロイドらしからぬ動きをする整備局員を隠すためだ。

 ジョムズは背広の内ポケットから電子キーをとりだして端末にセットした。帰路は深夜になるから、暗闇がいくぶんかジョムズの疲れを隠してくれるだろう。肥満や汗っかき、不摂生が顔に出る者はカウンセラーになれない。サングラスをかけなければニューイングランドの日射しに対応できない者も。

『暗号化通信を開始します』

 オペレーターの機械音声が告げ、緑のランプがついた。

「ジョムズ・ポーターです。ロブ・マッカラン議員、シリアルナンバーC四〇一Pの定期メンテナンス結果を報告します」

「――どうかね?」

 くぐもったウィルキンズの声が応えた。

「深刻な疲れと孤独を感じています。ロブ・マッカラン議員の二週間の休暇を要請します」

「――深刻な疲れと――孤独?」

「対話を中断されました。あとで録音を確認してください。中断時は故郷の話をして、離婚した妻が老いていくことへの不満を感じているようでした」

「――……」

 無線のむこうで押し黙る気配がした。ウィルキンズはマテュー・グレアムのことを思いだしている。おなじ処分をロブ・マッカランに下したほうが手っ取り早いのかを考えているのだ。答えが出ないのはわかっていた。ポーラ・ヘントが元気よく動いているのがその証拠だ。

 憂鬱症が中央院議員たちを蝕んでゆく未来は、整備局員の全員が共有する漠然とした不安だった。そうなったとき、誰が彼らのスイッチを切る?

「――人類に対する叛乱の意志――や兆候はあるか?」

「ありません。休暇をとってはどうかという提案を受けいれました。彼自身も非常な自制心を持ち、仕事には前向きでいたいと願っています」

「――わかった、政府――に上申してスケジュ――ルを調整しよう。……アンドロイドに効――果があるかはわからないが」

 会話の冒頭と数秒に一度、通信には暗号化復元のための遅延ノイズが入る。普段は気にならないそれが今日は妙に耳に障った。自分は誰と話しているのだろうか――ウィルキンズだ。だがカリフォルニアの本局に勤める彼と直接会ったことはなかった。配属の際に一度、映像通話で姿を見ただけだ。ウィルキンズは存在するのだろうか、太って汗っかきな肉体を持ったウィルキンズは?

 どうしてロブがアンドロイドで、自分が人間なのだろう。そうである必然性はないように思えた。

 ジョムズは視線を落とし、軽くひらいた両の手のひらに刻まれた皺を見た。こういうとき人間は手を見るのだ。顔は自分では見えないから。

「――ジョムズ」

 通信は終わらなかった。

「なんでしょう?」

「――彼らアンドロイドは〝深刻な疲れ――と孤独を感じ〟ない。――〝不満を感じ〟たり〝前――向きでいたいと願っ〟たりも――しない。とりこんだ対象者の記憶データ――から、対象者ならどのように――ふるまうかを人工知能が計算――して表出しているだけだ」

「知っています」

 ジョムズは無線のスピーカーを凝視した。上司の言ったことは理解できる。しかし心に染みこんではこなかった。ジョムズの声色からウィルキンズもそれを理解した。

「カウンセリングを受けろ――。アンドロイドと人間を切り離せな――くなったら、整備局からは異――動だ」

「承知しました」

「気持ちはおれも……――わかるよ」

 ランプが緑から赤へと変わり、通信は終了した。電子キーを引き抜くと背広の内ポケットに戻す。呼吸はおちついていた。脈拍もいつもどおりだった。手もふるえたりしない。ジョムズは、自分がウィルキンズとの会話のすべてのターンでコンマ一秒の澱みもなく返答していたことに気づいた。

 ジョムズの意識は透明で、澄んだ泉のようだった。たとえば、と彼は心の中で呟いた。

 我々が魂と肉体は別物だと考えていた時期があったように、アンドロイドも機械の身体と演算のもとになる記憶データ群をわけて考えるわけにはいかないだろうか? 身体が生きていないからといって、ロブは――本人の言うところの――〝ロボット〟なのだろうか。

 頭のなかでマテュー・グレアムがロブ・マッカランになった。「車を落とせ! ……わたしを殺してくれ!」ロブが叫ぶ。ハンドルを奪われたドライバー・アンドロイドは緊急事態を整備局に知らせた。整備局は安全装置を遠隔操作し、彼をオフする。

 電磁モニタをとり外して鞄へと片付ける。内ポケットから電子キーを出してふたたび端末に差しこんだ。整備局の内部サイトへアクセスし、驚くほど冷静にカウンセリングの予約をとった。〝次のような情緒の乱れがみられる場合、カウンセリングを受けてください。一、人間とアンドロイドの同一視、感情移入〟……。電子キーを内ポケットへ、端末を鞄へ戻し、鞄はロブから見えない座席の下へ戻した。

 運転席のシートに全身をもたれさせる。

 ゆっくりと呼吸をするうちにようやく恐怖がせりあがってきた。

 三十年前、ロブ・マッカランを含む二十三名の議員たちは、人工知能の開発強化に反対する宗教団体の襲撃を受け、視察先のカリフォルニア州サンフランシスコにて殉職した。彼らの死は秘匿された。政府は彼らが奇跡的に一命をとりとめたと発表した。ちょうどその日こそが、彼らが〝第三計画〟の同意書に署名した日であり、事件が起きたのはのちに整備局と呼ばれる技術研究センターで彼らが記憶のバックアップを保存して数時間後のことだった。事件の数か月後、捏造された襲撃の記憶とともに彼らは次々と退院して政界へ返り咲き、以前にも増して精力的に働き始めた。

 彼らは己の奉ずる信条のため、友を欺き、家族を欺き、己自身をも欺いている。

 艶を失くした毛髪の下に埋まっているのは二本の電極ではない、人工皮膚と頭蓋を象ったカヴァーに覆われた演算装置である。身体は無数のサーボモータとセンサ、衝撃吸収材などでできている。彼らは果てしないと思える時間を人工知能の調律に費やし、すべての演算を終えた人工知能が人間では考えつかなかった奇策を――いずれ世界の貧困と紛争を一挙に解決する妙計を生みだすことを信じて奮闘しつづける。

 陸軍技術本部から整備局へ転属された数日後その事実を知ったジョムズは、神に祈ることをやめた。マホガニーの玄関棚から赤い献灯を撤去し、かわりに毎朝一輪の花を飾る。彼が新しく仕えることにした二十三名の勇士たちへ捧げるために。

 DJの語ったとおり、心をふるわされた第二第三の立候補者たちが現れたが、倫理上の問題を自覚していた政府は彼らを追い返した。気高い献身的態度は永く語り継がれなかった。国民は彼らを忘れた。予算を割り当てる政府の役人と整備局員だけが例外である。それでも三十年間、車が空を飛ぶようになっても完成しない人工知能にむかって、彼らは切々と世の理を教えた。自分たちがまだ人間だと信じながら。

 閉じたまぶたの裏に妻の笑顔が浮かんだ。長女キンバリーの結婚式でバンド仲間が盛大に演奏したパンク・ロックのやかましい旋律。「結婚したばかりの夫婦に孫の話をするのはセクハラよ」と断じた次女レベッカ。家族の増えたサンクスギビングの朝、ブライン液から取り出され、オーブンへと運ばれていく七面鳥。あたたかな空気、笑い声、香ばしい匂い、ワインの味、キンバリーの夫がもちこんだレコードは、けばけばしい色のジャケットにふさわしく家を騒音で満たした。歳老いた父は若者の音楽に理解を示した。「ぜんぶおれたちが守ってきた文化だ」

 これらすべての思い出が、自分を追い越して老い衰え死んでいくのだ。

 ロブの感じたふかい孤独を幻視し、ジョムズはハンドルに額をこすりつけた。鼻がつんとして目に涙が浮かんだ。自分の記憶がアンドロイドに組み込まれたらと考えるたび、罪深い恐怖がジョムズを満たした。〝――死んだほうがマシでは?〟

 ジョムズは己のふるえる手を見た。

 泉に雫が落とされたのは、そのときだった。

 鳶色の虹彩が揺れる。めまぐるしく頭を駆けめぐるイメージは混沌としていたが、やがてひとすじの手がかりをつかんだ。

 ロブは言った、ロボットはロボットを殺せるか、と。

 あのときジョムズは訂正すべきだった。

 ロボットはロボットを殺さない。ロボットは殺されることはない。壊されるのである。

 電磁モニタはパルスを受けとらなかった。ロブは新しい仮説を演算したわけでも、ジョムズの答えをもとにその先の可能性を演算したわけでもない。ただ確かめたのだ。

 ロブはすべて気づいている。己が死んでいることも、身体が機械でできていることも、整備局がそれらの事実を彼に隠し、アンドロイドに人間を混ぜて監視していることも。

 理解して遠すぎるいばらの道を歩んでいるのだ。

 ジョムズはよろめきながら車を出た。同時になにか重たい金属が地面に叩きつけられる音がした。音はエントランスの方向から聞こえてきた。異常を検知したドライバー・アンドロイドたちがいっせいに車を降りて行進を始めた。その群れにまぎれてジョムズも足を動かした。

 エントランスのわきに人の形をしたものが倒れていた。手足は折れまがり、潰れていたが、血は一滴もこぼれていなかった。そのせいで余計に惨状がクリアに見えた。

 落下防止のため七インチしか開かないすべり出し窓を突き破り、ひしゃげた窓枠をかかえるようにしてガラスの海に横たわっていたのはポーラ・ヘントだった。

 ジョムズは頭上を仰いだ。ぽっかりと穴になった窓からロブがのぞいていた。

 ロブの唇がしずかに動いた。「眠れ、安らかに」すぐに残りの中央院議員をふりむいて言った、「さあ、我々の仕事をしよう」

 ジョムズは膝をついた。アンドロイドたちはジョムズを避けてポーラの残骸へと近づいていった。人の目に触れる前に回収しなければならない。この場の指揮を執るべきは人間であるジョムズだ。理解しながらも手足は釘付けにされたように動かなかった。

 泉は凪いでいた。ロブは最後まで生きのびるだろうと思った。生前からの力強い自制心をもって、人間の尊厳を守るため、機械の身体を破壊し、絶望に陥った仲間たちをロブはやさしく眠らせてやるだろう。そして最後の一人になっても彼は仕事をやめない。

 もう神には祈れないジョムズは、こうべをたれ、ロブ自身に祈った。

 いつか御心のとおりになりますように、と。

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