第7話 天保三年夏

 二年後、天保てんぽう三年夏。


「親父殿! 鼠小僧が、おなわになった。小塚原こづかっぱらはりつけじゃ!」

 万字の娘のお栄が、上気した顔で引き戸を開ける。


「なにを興奮してやがる。天網恢恢疎てんもうかいかいそにしてらさずってこった。盗人なんぞは、いつかはこうなるのよ」

 そう返す万字だったが、お栄は父親の言葉に、ため息交じりの悲嘆の響きを感じた。親父殿は悲しんでいる……。


「どれ、鼠小僧とやらの面を拝んでくるかな」

 万字は、鼠小僧次郎吉の素顔を知っている。間違いであってくれと願いつつ、小塚原の刑場に向かう。


 刑は市中引き回しの上磔刑たっけいであったため、鼠小僧を一目見ようと街中は人でごった返していた。適当な所で引き回しの一行を待った。半町(約50m)ほど先からどよめきが近づいている。鼠小僧次郎吉は、着飾って縛られ馬に乗せられていた。月夜に出会った次郎吉に違いねえ。万字は奥歯を噛みしめる。

馬上の次郎吉が、万字に気付いた。そして前を向いたまま早口で言った。


「旦那すまねえ、あっしの手抜かりだ。月華の親父が我が子を新吉原しんよしわらの遊郭『金樹楼きんじゅろう』に身売りしちまった。旦那の浮世絵が売れて調子よかったのによ。本当に申し訳ねえ!」


「わかった、心配するな。後はまかせな」

 それだけ言うのが精一杯だった。人波で、年老いた万字は立っているのもやっとなのだ。後は、次郎吉の背中を見送るのみだった。この後鼠小僧次郎吉は、小塚原刑場で磔の後、首を晒された。

 万字は、次郎吉から聞いた『金樹楼』に人をやって月華の消息を確かめた。確かに月華は、遊郭金樹楼で遊女になるための芸事や教養を磨くための修行中だという事だった。

 使いの者は、『万字様、どうぞご心配なさらずに』と月華からの伝言を言付かってきていた。


 それから十数年後。


 万字すなわち葛飾北斎病にて没。享年九十歳。

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