第2話 黒装束の男

「ほう、そうかい。近頃は耳が遠くなっていけねえや。さっぱり聞こえねえ。何かあったんだろ。蕎麦は食い終わったから、銭を払うぜ。物騒だからおめえも今日はもう帰んな」

 万字は、立ち上がってどんぶりを返すと、首から吊るしている巾着を開いて小銭を掌にのせる。


「十六もん(約480円)だったよな」

「へえ、あい変わらずでごぜえます」

「じゃ、十六文っと。月が明るいから今日は銭がよく見えるぜ。いつもながらに変わらねえ味だ。美味かったぜ」

「へえ、お粗末様で。旦那も早くお帰りになった方がよろしいようで。呼子の音が大きくなってきているような」

「おう、わかった。ありがとよ」


 蕎麦屋が、屋台を担ぐと吊るしていた風鈴の音がチリンと鳴る。ゆらゆらと屋台を揺らしながら、蕎麦屋は暗闇に消えて行った。


「いや、ほんとに耄碌もうろくしちまった。呼子笛よぶこぶえなんて全然聞こえねえや」


 遠くでけたたましくピーピー呼子笛が鳴っているのだが、万字には聞こえない。それゆえか切迫感もない。もう少し月をでて行くか。万字は、河原の土手に座った。月を見る。


 影の模様に目を移し呟いた。

月兎げっと、餅をつく……か。俺にゃそうは見えねえがなあ……」


 万字は、月の絵を描こうと巾着から矢立やたて(携帯型の筆入れで、墨壺すみつぼに筆を入れる筒がついている)を取りだした。ふところからは和紙を取り出し、月を見上げた時だった。


「もし、旦那! もし」

 背後から男の声。万字は、首だけ回して背後を見上げた。男が立っている。腕組みをして万字を見下ろしていた。灰色のほっかむり以外は、黒装束くろしょうぞく


 どう見ても、風流風雅を好む粋人ではないな。さては、呼子笛に追われている御仁ごじんか? そのわりには涼やかな顔をしている。しかし、万字には男の眼が助けを求めているようにも見えた。


「どこの旦那か存じませんが、ちょっくらお助けを」

 この男、咎人とがにんかもしれないが、万字に対する殺意は感じられなかった。


「どうも、落ち着かねえ。まあ、おすわりよ」

 万字は、黒装束を隣に座らせた。


「ほっかむりも取りな。夜盗の格好なんかするんじゃねえよ。もうすぐ無粋ぶすいやからがくるからよ」

 確かに数人の男たちが、川沿いの道を走って向かって来ていた。


「ちょいとこっちを向きな」

 男が、顔を向けると持っていた筆で、ちょいちょいと男の顔に髭を描く。男は嫌がりもせず、なされるがままに、じっとしている。万字は、再び懐から和紙取りだし何事もなかったのように、月を描きだした。

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