二歳のキモチ

遊月海央

言いたいことも言えなくて

二十二歳と三ヶ月で長男を生んだ。


かなり昔のことで、この国はバブルと呼ばれていた時代だ。

とはいえ私はごく普通の給料で働いており、ススキノなどで桁違いに景気のいい人を見かけたり、たまたま隣に居合わせた普通のサラリーマンになぜかおごってもらったりする程度で、あの時代の狂喜乱舞するような饗宴を味わったわけではない。

短大を卒業後、憧れのとある観光名所でコンパニオンとしてガイドをする仕事に就いた私は、コツコツ働いてお金をためて、世界中を旅行をするんだ!と、そんな希望に燃えて生きていた。


しかし神様は私に別の道を示した。

働いて一年かけて貯めたお金で行ったハワイから戻ってすぐのことで、これからあちこち旅しようと張り切っていた矢先に、自分が妊娠したことを知る。

子どもを授かったことは素直に嬉しかった。

なぜなら私は十六歳の夏、卵巣嚢腫という病気で、卵巣のほとんどを摘出しており、その時医者に、子どもを授かるのは可能性は、ゼロか百パーセントかのどちらかだと言われていたから。神様が私に子どもを授けるつもりがないなら、卵巣を一部残すタイミングで発病させたりしない。だからきっと、いつか子どもを授かることができるのだと考えることにした。

高校二年生だった私は、ある朝突然、強い腹痛に襲われ、立つこともできなくなった。病院に行くと、卵巣嚢腫が大きくなりすぎて中で捻転し、壊死して腹膜炎を起こしていると診断され、すぐに手術しないと命に係わる可能性があるとも。

ちなみに術後に医師から、生まれつき腫瘍があったはずなので、ずっと腹痛がなかったですか? と聞かれた。実は、子どものころからしょっちゅう腹痛があったのだが、その度に若干毒親気味の母に、女はお腹が痛いものだと言われて育ったため、我慢する一択で病院に行ったことがなかった。

さすがにそのことは伝えなかったが、首をひねりながら医師は、相当痛かったのに気づけなかったのであれば、痛みに鈍感な体質かもしれないから、ちょっとでも違和感があれば、すぐに検査したほうがいいよと伝えた。


そんな感じで、物心ついた時から腹痛が当たり前の状態で生きていたため、初めての出産時に、そんな軽い痛みがまさか陣痛だと気付かず、破水したため慌てて病院に行くと、既に子宮口が全開で、最大値の陣痛が来ているので、今すぐ分娩するよう言われた。痛くないの?と助産師に驚かれつつ、普通に歩いて分娩室に行き、自分で分娩台に乗った過去がある。

陣痛が、ただお腹が張っているレベルにしか感じられないほど、日常的に強い腹痛に苛まれてきた弊害でもあるのだけれど。


そんな私はちょっとどこか天然であるらしい。女は誰でも腹痛に耐えるものだと母に言われ、実際は、勝手に口から唸り声が出るほどの腹痛なのに、じっと耐えたていたのも、ちょっと天然が過ぎるかなと自分でも怖くなる。

今は、出産時に発病したいくつかの別の病気の治療に通う主治医に、ちょっとでも異変があれば申告し、検査の結果、気のせいですなどと言われているのだけれど。


そんな私がたった二十二歳で出産したのだから、ぞっとする。

安産だったのかどうかは不明だが、最大値の陣痛の中で自力で分娩台に乗ったあと、わずか数回いきんだだけで生まれた長男を育てていくことは、すべてが本当に未知なる世界であった。

まず、母親としての知識がない。当時はインターネットもなかったから、情報源もなく、頼れる存在になるはずの母は若干毒親気味だし、友人たちはまだ大学生活を謳歌していて。自分でなんとかするしかないと育児書を購入し、暗記するほど読みまくった。育児書先輩と呼ぶほど私にとって、頼りになる存在となっていた。

子どもの体調不良は、病院に直接行くこともあったが、症状がそこまでではない場合、すぐに保健所に電話をして相談した。今思うといい迷惑だったかもしれないが、他に頼る存在がいなかったのだ。

ついでにいうと、妊娠七か月の大きなお腹の私の側頭部をグーで殴り、壁に叩きつけることができるようなモラハラDV夫は、育児や家事に協力する気持ちはなかったようで、ほぼワンオペだった。

ちなみにその側頭部を殴られ壁に激突してブラックアウトした時が、元夫からのはじめての暴力だった。結婚するまでも色々あって、やっと一緒に暮らし始めて二日目くらいのことだった。

妊婦に対して、グーで全力で殴りつけることができる男と一緒に暮らすことになったと知った時の絶望は、なかなかのものである。長い間、あの時の自分を、心の中で何度もハグして励まさなくてはいけなかったのだから。


そんな毒親やDV男のお話をしたいのではない。

私は育児を通して、人間らしい感性を身につけられるようになった自分を褒めたいし、育児がどれほど私の人生に彩を与えてくれたのかを伝えたいのだ。

子どもの存在が私の人生の教科書となり、私がこの世に生きている意味を与えてくれた。子どもを通して知り合ったたくさんの人たちが、私に本当に親切にいろいろなことを教えてくれた。

もう感謝の涙があふれちゃうことこの上なし。


実際に出産してはじめて知るのだが、生まれてきたばかりの赤ちゃんは、驚くほどふにゃふにゃだった。骨がないのか?と恐怖すら覚えるほどだった。

出産後しばらくして、助産師が長男を病室まで連れてきた。

「昼間は母子同室で、赤ん坊の世話はお母さんがして下さい」

そう言われ、そういえば、入院する前にそんな説明を受けていたなと思い出す。


そして、人生初の、早速のおむつ替え。

助産師が最初に見本を見せてくれたので、同じようにバタバタ動かしている小さな足を掴んで、ひょいっと持ち上げようとするが。

足が細い。そして、何かが全体的に柔らかい。

しかもそのくせ強い力で足を動かし、おむつからお尻を離すために持ち上げそうとする私の動作に必死で逆らってくる。


「どうしたの、お母さんなんでしょ」いつまでも足を掴むことができずに戸惑っていると叱責をくらった。折れそうで怖いですと弱音を吐くと、そんなことじゃあ折れないからと再び助産師からの叱責。平成がはじまったばかりの、まだまだ昭和の市立病院ですから。そんなものです。


真冬だったので、いつまでもお尻を出したままでは風邪を引く。それに退院したら、ほんとうに私ひとりでやらなくてはいけないのだ!と、勇気を振り絞って足をぎゅっと掴み、力を入れて動きを封じて持ち上げ、なんとかおむつ替えに成功する。


あああ。

もう気持ちが折れそう。

これが、人生ではじめての育児だった。

その後も指導のもとでさっそく母乳をあげるが、なかなかうまくいかない。口の周りが糖分を含んだ母乳でベタベタになっていく。

ああ、大丈夫か、私。そしてごめんね長男。


二人目や三人目の時は、出産初日から、片手で新生児を抱っこして、様々な作業を右手でこなせるほどの熟練技が可能となっていくのだけれど。

人生初の新生児のナマ抱っこは本当に怖かった。


そうやって、ひとつひとつのことを必死で果敢にチャレンジし続けた日々。

長男が一歳の時からフルタイムで仕事に復帰し、ますます育児と家事と仕事に多忙になっていく中、事件は起きた。

いわゆるイヤイヤ期の反抗事件である。


言葉だけでいやだ、いやだと単なる反抗しているうちはよかった。育児について経験のなかった私は、それくらいのレベルのことを、反抗期、イヤイヤ期と呼ぶのだとたかをくくっていた。


ある冬の夕方のこと。いつものように保育園に迎えに行った。

その日は迎えに行った時からずっとご機嫌斜めで、何を言ってもプイって感じだった。だが、急いで帰って夕飯を作らないと夫に怒られるため、ご機嫌を取ることもしないまま、ひたすら手を引いて、雪道を転ばないように気を付けながら、足早に自宅へと戻った。

玄関で私がブーツを脱いでいる間に、長男は先に居間へ入っていく。


すると、居間のほうから、何かをドスンドスンとぶつけている音が聞こえてきた。

何が起きたのかと慌てて部屋に入ると、長男はおもちゃ箱から次々におもちゃを取り出して、ひたすら壁や床に叩きつけている。


「どうしたの、何があったの、やめなさい」

必死で止めたけど、全然言うこと聞かない。しかも、彼に近づこうとする私にも、おもちゃを投げつける。加減を知らない子どもが投げつけるおもちゃが、顔や身体にあたると本当に痛くて。もう途中から余裕などひとつもなくなり、ひたすら、「やめて!」と叫ぶだけでのが精一杯だった。

なぜか途中から長男は号泣し始めていて。もうわけがわからなくて。


最初はやさしく、どうしたのかとちゃんと向き合って話をしようと思っていたのに、そのうちにおもちゃをぶつけられる痛みから、だんだん腹が立ってきて。

気付けば怒鳴っていた。叱れば逆効果だと頭ではちゃんとだってわかっていたのに、どうしようもなかったのだ。


ママはね、毎日仕事で疲れてるのに、休む間もなくご飯作ったりしているんだよ。

今日もね、会社でいやなことあったけど我慢したんだよ。

ちゃんと家事しろってパパがうるさいんだよ。

早くご飯を作らないと、パパにまた怒られちゃうんだよ。

ママはね、毎日毎日必死で頑張っているんだよ!

それなのにあんたはそうやっておもちゃをぶつけるから痛いじゃない!!!


たぶんそんなことを口にしたと思う。

二歳の子どもにそんなことを言ったところで、何一つ解決しないのはわかっていたし、やつあたりだってこともわかっていた。

だけど、もうどうしたらいいのかわからなくて、途中から私も一緒になって泣いた。


まさか子どもにおもちゃをぶつけ返すわけにはいかないから、私は長男の隣にしゃがんで、彼が投げるのと同じ方向におもちゃを投げつけた。

おもちゃは直線を描いて、少し離れた白い壁にぶつかって床に落ちていく。

ほんの少しだけ気持ちがよかった。


たぶん長男は最初はびっくりしたと思う。

でも、私がそれを繰り返すうち、途中からまるで一緒に遊んでいるみたいに、呼吸をあわせるようになった。

「せーの」と掛け声を口にする訳でもない。だけどお互いに相手のタイミングを見て、同じタイミングで壁におもちゃを投げていた。


何度もそうしているうちに一緒に泣いていたのに、途中から笑いはじめた。

私がふふふと笑い、長男も声を出さずに笑っていた。

とうとう二人で手を繋いで床に座り、声を出して顔を見合って笑った。


それから、手を繋いで台所に行き、あの頃長男が大好きだった、アンパンマンチョコを冷蔵庫から取り出して一緒に食べた。

いつもは一日二個までと決めていたのに、二個も三個もチョコレートを食べた。涙が流れた頬はそのままで、ふたりで笑って、おいしいねって言いながら食べた。

帰って来てからストーブもつけていない寒い部屋だったのに、今でもそのシーンを思い浮かべると、暖かい気持ちになる。


長男はそうやっておもちゃを投げるのを止めた。


翌日、そのような状態になった時にどうすればよかったのかと、保育士に相談した。

保育士は私に言った。

「だんだんいろいろなことがわかって来て、言いたいことや気持ちが溢れているのに、言葉をそこまで知らないから、その気持ちを表現できないの。だからこの時期に言いたいことが表現できないフラストレーションが溜まって、そうやって物にあたったりする子は多いのよ。

でもね、そうなったらもうほっておくしかないのよね。そのうちに収まるから」

そう言われて、そういうことなのかとすっきりした。


大人は言いたいことスラスラ言ってくるのに、自分はうまく言い返せないんだもの。もっと伝えたいことあるのに、言葉がわからないんだもん。

ママはきっと自分のことで精一杯で、そんな君の言葉を待っている余裕なんてなかったのかもしれないね。

そりゃあ、物にだってあたりたくなるよね。


一度通った道だと、同じことを次男や長女がしても、別に悩むことはなかった。

そうそう、この頃の子どもってこんなよねと思って、ほっておけば収まるからと余裕があった。


実際心に余裕があったのだ。

その日々も、いつかきちんと終わりが来るって、その終わりが大体いつ頃来るって、経験上知っていたから。


不思議なもので苦にならないと、思い出のインパクトも薄いのか、下の子たちの子育てで強烈に覚えていることは、長男に比べるとかなり少ない。

長男の時と同じことがあったはずなのに、懐かしくほろ苦く思い出すのは、たいていはじめて戸惑った日のことばかり。


だから新しいママたちに伝えたい。

今泣きたくなるその気持ちが、いつか振り返ったとき、切ないくらい輝いて思い出せる日がきっと来るよって。

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