うどん関西そば関東

横館ななめ

うどん関西そば関東

 短大を卒業して私が入社した海外から輸入したオフィス用品を販売する会社には、毎週土曜日の午前中に誰か一人だけ出社するという決まりがある。時差の関係で、輸入元から緊急の連絡が入ることがあるからだ。

 基本的に若手社員が持ち回りで担当することになっているこの土曜日出社は、当然のことながら、社員の間で評判が悪い。なんだかんだと言って当番から逃げようとしたり、押し付けあうのが常だ。だが、そんな嫌われ者の制度を歓迎している社員が一人だけいる。

 私だ。

 私は、喜んで自分の当番を担当するのはもちろんのこと、表面上は仕方ない風を装っているが、他の人の当番をしょっちゅう代理で引き受けたりもしている。現在、絶賛彼氏募集中で、週末にすることがないというはたしかにある。だけどそれ以上に、私は土曜日出社にメリットを感じているのだ。

 まず、他に誰もいない会社での時間が良い。

 緊急の連絡用ということだが、実際に緊急の連絡が入ることなんてほとんどない。一応、勤務時間中なわけだけど、他の人の目があるわけでもない。好きな形で時間をつぶしていれば良いのだ。私は読書タイムとして、活用している。

 静かな事務所で、役員用チェアに深く腰掛けて、来客用のコーヒーを飲みながら、ゆっくりと単行本の小説を読むなんて言うのは、贅沢な時間の過ごし方以外の何物でもない。

 しかも、週末出勤手当がついて、先輩からも同期からも後輩からも感謝されて、社内での評価が上がるんだから、こんな良いことはない。なんなら、三日に一度くらい土曜日が来てもいいくらいだ。

 そして、私の土曜日出勤には、事務所でのリラックスタイムの他にも楽しみが一つある。それは、近くのお蕎麦屋さんでのランチだ。

 うちの会社の近くに、美味しいお蕎麦屋さんがあって、私は以前からそこのお蕎麦が大好きでランチでも良く利用していた。ところが、最近になって、平日はすごい行列で、お昼休みに食べるのが不可能になった。

 半年ほど前に、『知る人ぞ知る名店』という雑誌の企画に取り上げられて、みんなが知る名店になってしまったのだ。

 私はそのことをとても残念に思っていたのだが、あるとき、土曜日はそのお蕎麦屋さんがそれほど混んでいないことに気が付いた。オフィス街のため、エリアの週末人口密度が平日のそれよりずっと低いのだ。仕事上がりに直行すると、ほぼいつも待たされることなく席に座ることができた。

 この発見以降、土曜出勤の時は、蕎麦ランチというのが私の定番になった。

 直近の二か月間で四回目となった土曜出勤のその日も、私が訪れたときには、お店はまだ八割程度の入りだった。お気に入りの窓際の席が空いていたので、お店の人に合図を送ってから座ると、すぐに注文を取りに来てくれた。

 せいろ蕎麦と小ビールを頼む。仕事は午前中だけだから、お酒を飲んでも良いのだ。会社の近くで、お昼から飲むというこの背徳感もまた良い。

 このお店の唯一の難点は、注文してからお蕎麦が運ばれてくるまで時間がかかることで、それが平日の混雑に輪をかけている理由でもある。ただ、時間をかけて作られているから美味しいおそばが食べられるのだし、先に運ばれてくるビールを飲みながら小説の続きを読むのもまた好きなので問題ない。

 というわけで、いつものように私はバッグの中から取り出した読みかけの小説を読み始めた。今から思い返せば、その時すでに隣の席には彼らがいたのだ。ただ、物語が終盤のちょうど面白いところに差し掛かっていて、私は早く続きが読みたい一心だった。

 私がようやく隣の席に目をやり、その異様な雰囲気に気が付いたのは、読み終わったばかりの本の余韻に浸りながら、本に集中するあまり飲むのを忘れていたビールに口をつけたときだった。

 見た目だけで言えば、別に何でもない二人連れだった。

四十代前半と思しき男性と、小学校低学年くらいの男の子。顔も似ているから、親子なのだろう。オフィス街という立地的なことを考えれば、若干の違和感はあったが、たまたま何かの用事で通りかかったのかもしれないし、どちらかがお蕎麦好きで週末に足を運んできた可能性だって十分にあった。

 それでは、私が何を異様だと感じたのか。

 空気が重かった。とにかく。

 お気楽手当付き仕事+一週間の自分へのご褒美ランチで浮かれている私は特別だとしても、週末のお蕎麦屋さんというのは、穏やかに楽しそうな雰囲気で溢れ返っているものだ。

 実際、その日だって、私以外のお客さんと言えば、年配のご夫婦と私と年齢が近い女性の二人組、それからいかにもお蕎麦好きそうな男性客が三名と、私がこのお店で見慣れた、日常の小さな幸せを嚙みしめているような人たちだけだった。

 私の隣の席を除けば。

 私の隣の席の二人。二人に会話は一切なかった。しかもただ単に会話がないというだけでなかった。お父さんらしき男性からは、話したいことがあるのにそれをどう伝えたらよいのか分からない感が、男の子からは子供には子供なりの気まずさがあるんだ感が、にじみ出ていた。

 くどいようだが、空気が重かった。

 加えて私からも、せっかく一週間待ち焦がれていた時間なのに、変な場面に遭遇してしまったオーラが発せられ、店内のその一角だけが、どんよりとした空気に包まれていた。はずだ。

 なぜか私を含んだ三人での我慢比べ。重苦しい沈黙を破ったのは、お父さんだった。

「お母さんは元気か?」

「うん。元気や」

「裕太の言葉も、すっかり関西のイントネーションだな」

「こっちの言葉やと、いきってるって、笑われるから」

 そして再び、沈黙が降臨した。

 それだけの短い会話だった。それっきりだった。だが、会話とも言えないような、そのやり取りはきわめて多くの情報を含んでいた。その10秒間で、私はそのシチュエーションの大枠を理解していた。

 私の理解は、こうだ。

 やはり、この二人は親子だ。だが、男性と男の子のお母さんは既に離婚している。男の子はお母さんに引き取られ、お母さんの実家か何かがあるのだろう大阪方面に引越しした。それがどういうものかは分からないが元夫婦間には取り決めがあり、お父さんも男の子と面会することができる。そして今日が、その初めての面会日ということなのだろう。

 常識的に考えて、大きくは違っていないはずだった。

 自分の理解に向き合う。やっぱり重かった。この親子に遭遇するのが私の運命であったとしても、せめて、お蕎麦屋さんじゃなくて、こってりラーメン屋で遭遇したかったくらいに重かった。

 勝手に状況を理解したことで、気まずさも勝手にいや増した。とにかく、なんか喋ってくれよという私の心の叫びなど親子に届くわけもなく、沈黙は膠着状態のフェーズに突入した。一度目の会話が不発に終わったことで、明らかに次の会話開始のハードルが上がっていた。

 さすがに耐えきれず、お手洗いに行く振りをして、私がその場を離れようとしたまさにその瞬間、そんな気まずい沈黙が破られた。

 破ったのは、意を決したお父さん、ではなく顔なじみの店員さんだった。

「はい、天せいろ二つ、お待たせしました」

 店員さんだって異変を感じ取っていたはずだ。それなのに店員さんは、私ごときでは月に一度しか手が出せない贅沢メニューである天せいろを平然とテーブルの上に置くと、まるで何もなかったかのように厨房に戻っていった。いかにも慣れた感じだった。

「こんな平和そうなお蕎麦屋さんでも、修羅場的場面は結構ある」、「やっぱりこういう時は、お父さんは豪華なメニューを頼む」。私は、心の引き出しの一番奥に、一生取り出されることはないだろう、二つのお蕎麦屋さんトリビアを静かに片づけた。

 その一方で、天せいろというきっかけが運ばれてきたことで、隣の席の時計は再び動き始めた。

「ほら、冷めないうちに食べろ。ここの天せいろは、天ぷらとお蕎麦のつゆが別々の本格的なやつで、このあたりでも有名なんだぞ」

 お父さんに勧められたからなのか、ただ単に話すことがなかったからなのかは分からないが、男の子は天せいろを食べ始めた。

「どうだ?美味しいだろ?」

 心配そうにお父さんが尋ねる。

「うん」

 小さな声の返事だった。でも、男の子の言葉に嘘はなさそうだった。お父さんも、嬉しさを隠そうともせずに、自分の天せいろに箸をつけた。

「そうだろう。美味しいだろう。うどんは関西だけど、やっぱり蕎麦は関東だからな。裕太はうどんと蕎麦どっちが好きだ?お父さんはやっぱり蕎麦だな。特に、このお店のは美味しい。蕎麦自体の味やコシもそうだけど、この蕎麦つゆが美味しいんだ。裕太、この蕎麦つゆはな、後から蕎麦湯って、そばをゆでた後のゆで汁で割って飲むとまた美味しいんだぞ、裕太が、こっちに来てくれたら、このお蕎麦ももっと一緒に食べられるんだけどな・・・」

 早口で一方的にしゃべっていたお父さんの声が急にトーンダウンした。

「ただお父さん、ちょっと蕎麦つゆに、ワサビ入れすぎちゃったみたいだ」

 目尻に浮かんだ涙がワサビのせいでないことは、小学生の男の子でも分かるだろうくらいに、明白だった。

「せっかくの蕎麦つゆが台無しだな・・・」

 無理に笑おうとした、お父さんの声は涙声だった。それでも、言葉を続けようとした。ただ、声にならなかった。ただ俯いて、大の大人が肩を震わせしゃくりあげていた。

 お蕎麦屋さんでたまたま隣に座っただけの親子だ。しかも私の大切な週末の楽しみを台無しにしてくれた親子だ。それでも私だって人の子だ。駄々洩れたお父さんの感情に、思わずもらい泣きしそうになった。

 ぎゅっと目をつぶった私の耳に、思いもかけず力強い声が飛び込んできた。

「父ちゃん!」

 思いつめたような、こらえきれなくなったような、そんな男の子の声だった。

「それ、天つゆやで」

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