目を閉じておいでよ

横館ななめ

目を閉じておいでよ

 それまでの和気あいあいとした雰囲気が一変した。だけど、その張本人である山根部長だけはそのことにまるで気付かず、そんなにストレスが溜まっていたのかと逆に私たちが同情を覚えるくらい、喉を震わせシャウトしていた。

 職場の忘年会だった。その数日前に大きな受注が決まっていたこともあって、会はいつも以上に盛り上がった。元々、人間関係の良い職場ではあったけれど、それでも何年かぶりに二次会にカラオケに行こうとなったのはそのせいだ。

 店に入ると飲み物を注文し、まずは新入社員で営業の田中君が、それから業務女子社員の松本さん・百岡さんの二人組が、なかば業務命令で歌わされた。三人ともマイクを受け取るときには恥ずかしそうなそぶりを見せていたが、それも最近テレビでよく目にする曲の前奏が始まるまでで、いざパフォーマンスとなると最近の若者らしく慣れた感じでちょっとした振付まで披露して大いに盛り上がった。

 その後、中堅社員が手堅くまとめて、そろそろ部長の出番だなという流れになった。こういうときは普段から一緒に仕事をしている仲間だと、さすがの阿吽の呼吸でスムーズに進行が進み楽だ。部長も承知しているから、必要以上に遠慮のふりをするようなこともなく、「俺が見本を見せてやるから、よく聞いとけよ」などときちんと流れに乗ってくれた。

 部長が自分で曲をリモコンに打ち込むと、画面に、バービーボーイズというバンド名と思わしき歌手名と「目を閉じておいでよ」という曲のタイトルが映し出された。画面で曲の確認をしたときは、この一曲が場の雰囲気を一変させることになるなんて、誰も知る由がなかった。

 タイトルに続いて、流れ始めた曲の楽曲は良かった。1989年と発売時期が表示されていたけれど、30年以上の前の曲とは思えないくらいにシンプルにスタイリッシュなロック調の前奏で、その場のほとんどが知らないはずの曲にもかかわらず、みんなすんなりと曲に入っていけていた。ただそれも、部長が歌い始めるまでだった。

 部長の歌唱力に問題があったわけじゃない。どちらかと言えば、接待で鍛え上げたパフォーマンスは若手社員をもうならせるほどだった。問題だったのは曲の歌詞だ。

 どうやらバービーボーイズは、女性ボーカルと男性ボーカルの混合ユニットのようで、女性パートと男性パートの歌詞が交互に繰り返されたのだが、その歌詞が不倫の現場をそれぞれの視点で描写されるというものだったのだ。

 それも心情というよりも、身体の絡みがかなり生々しく。「突然こんなところは嫌いかい?」とか、「変になっちゃっていい?」とか、そして「馴れた指よりそこがどこか分かるから」とかとか・・・。

 たかが歌の歌詞だ。野暮なことは言う必要もないのだろう。みんな大人だし。だけど、令和のこの時代に、この歌を職場の飲み会で歌うというのは、コンプライアンス的にはかなり重要審議案件だった。

 というか、単純にみんな恥ずかしかった。お互いの顔を見ることが出来ず、でもその場の雰囲気の変化にまるで気付かず気持ち良さそうに歌ってる部長が傷つかないように、みんなうつむいて手拍子を打った。

「さすがに、あれはないよね、まあ、ああいう天真爛漫のところが部長のいいとこだけど、うちのメンバーじゃなかったらセクハラで社内通報もんだわ」

 お手洗いで一緒になると、業務課の真理さんも苦笑いを浮かべながらそう言った。

「あれ、麻衣ちゃん、どうしたの?顔色が良くないけど。まじめに刺激が強すぎた・・・?」

 無意識のうちに血の気が引いていたのだろうか、真理さんが心配そうに私の顔を覗き込んできた。

「いえ、そんなんじゃなくて、ただ久しぶりにちょっと飲みすぎたみたいで」

「ほんと?部長にも遠回しに注意しとかないとね」

 気を使ってくれたのだろう。わざと明るく笑いながら真理さんは私の肩をポンと叩いてお手洗いから出ていった。

 真理さんが私の表情の理由を勘違いしていることは明らかだった。だけど、部長には悪いが、その理由を訂正することはできなかった。私の血の気が引いたのは、たしかに部長の歌のせいだった。でもそれはきっかけに過ぎず、本当の理由は他にあった。

 本当の理由、それは結婚して五年になる夫の亮太だった。

 大学の時にサークルの交流会で知り合った亮太とは、6年間付き合って28歳の時に結婚した。あらゆる意味で女友達からうらやましがられるようなタイプではないけれど、初めて会った時から気が合い、一緒にいて不思議なくらいに落ち着けた。実は亮太にも言ったことはないが、私的には一目惚れだった。

 幸いなことに亮太も私に好意を持ってくれて、出会ってからすぐに付き合い始めた。そして、付き合っている間も最初に感じた落ち着き感は変わらなかった。

 もちろん喧嘩をすることもあった。だけど一緒にいるときの落ち着き感は一度として揺るぐことがなく、むしろそれはいつか女性として愛されているという安心感に姿を変え、結婚前も結婚後も、ずっと亮太と生きていくんだという基本的な考えが一度も揺らいだことはなかった。先月までは。

 今、亮太は浮気している。

 怖くて面と向かって確認したわけではないが、間違いなく浮気している。私に分かるのだ。ショックだった。いつかはこういうことがあるかもしれないと考えてみたことがなかったわけじゃない。もしそんなことがあったとしても、男の人にはそういうこともあるだろう、と割り切って切ってみて見ぬふりをしてあげようと思っていた。でも、そうはできなかった。

 亮太の浮気は、ただ単に恋愛感情の問題ではなく、私が亮太に抱き続けてきた安心感という土台を打ち壊した。本当に、足元の地面が崩れ落ちてしまったような衝撃だった。ここ数週間は、寝ても覚めても、そのことが頭から離れず、表には出さないように気を付けてきたつもりだが、ずっとふさぎ込んでいた。

 いつもなら二次会があっても参加しないが、今日に限って参加したのは、どこかでガス抜きをしないとおかしくなってしまいそうだったからだ。ところが、その二次会で部長の歌が、亮太の浮気のことを思い出させた。しかも、単に浮気の事実を思い出させただけではなかった。私の傷をえぐり出した。

 どうしてその曲が、そこまでの衝撃を私に与えたのか。理由は単純だ。私に亮太の浮気を確信させたのは、夫婦の営みの中での、亮太の指使いの変化だったのだ。

 歌詞の中では、指使いの変化が、違う男性と身を重ねている事実を女性に突きつけたが、私の場合は、亮太の指使いの変化が、亮太が私以外の女性と身を重ねている事実を私に突きつけたのだ。

 夫婦の営みは、恋人同士のそれと比べれば刺激的なものじゃない。だけど、そこには日常の中に溶け込むような自然さがあり、安心して身を委ねられる快感がある。他の夫婦のことは分からない。それは亮太と私の関係によるのかもしれないが、とにかく私にとっての亮太とのセックスとはそういうものだった。

 そんな亮太とのセックスが私は好きだった。だから、いつものように始まった営みで、亮太の手が私に胸に触れた瞬間、私には私以外の女性の存在に気が付いた。思い過ごしだと思われるかもしれない。でも私には分かった。分かってしまったのだ。

 それが私が真理さんには明かすことが出来なかった真相だ。

 少し気分を落ち着かせてから部屋に戻ると、カラオケは続いていた。部屋の隅で、部長が真理さんの説教を受けてしょんぼりしていたけれど、みんなそんなことはまるで何でもないようにさっきよりも盛り上がっているくらいだった。

 なんだか、可笑しくなった。今夜は亮太のことを忘れて、私も羽目を外して楽しもう。そう思った。

 家に帰った時にはかなりお酒が入っていた。酔っ払いらしくバッグの中をガサゴソとかき乱して鍵を取り出すと、ガツガツと鍵穴に何度も鍵頭をぶつけて何とかドアを開けた。気持ち悪くはなかったが、自棄カラオケのせいもあってか、とにかく喉が渇いていた。

 電気をつけたのどうかも良く分からないまま、ふらふらとなかば倒れるように洗面所に向かった。コップを取ろうとして手を伸ばすと、温かい壁にぶつかった。亮太の背中だった。

「ずいぶんと酔っぱらってるね」

 穏やかな声、穏やかな苦笑で亮太が言った。

 ああ、いつも通りの亮太だと思った。私はやっぱりこの亮太が好きだ。亮太は何も変わってない。このままでいいじゃないか、そう思った。それなのに、言ってしまった。

「亮太、私に隠してることがあるよね」

「え?」

 思った通りだった。亮太は変わってなかった。すぐ顔に出る。隠し事が出来ない人なのだ。それも私が亮太が好きな理由の一つだ。だけど、私がその理由のせいで、亮太の裏切りが確認できるなんて皮肉としか言いようがなかった。

 ここまで来たら、最後まで行くしかなかった。

「いいよ。怒らないから、全部聞かせて」

 息を一つ吐いて、私は努めて落ち着いた声で言った。ヒステリーは起こしたくなかった。私の中の亮太のイメージが変わらないように、亮太の中の私のイメージも変わって欲しくなかった。

 突然の追及に、亮太の表情が固まった。恐る恐る、それでも私を正面から見据えると、あきらめたように亮太は口を開いた。

「ごめん・・・、一か月前から手打ちうどん教室に通ってる」 

「え?」

 予想外の展開に、頭がついていかなかった。

「え?なんで?」

「いや、うどん打てたらいいなって」

「じゃなくて、なんで言ってくれなかったの?」

「授業料を、へそくりの方のお小遣いから出してたから・・・」

 その考えも、その言い方も全部が亮太らしかった。

 安堵というか、馬鹿らしいというか、色んな感情がごちゃ混ぜになって膝の力が抜けて、座り込みそうになった。何とかタオルフックで身体を支えて、そして思った。

 私のおっぱいは手打ちうどんか。

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