おまけ めざしたそらは…とおかった…それでもいいんだ
2019年の12月24日、わたしは正面の白い壁と黄緑色の扉を見つめて座っていた。
診察室と書かれている扉……。そう、病院の待合室。
名前ではなく番号で呼ばれることになっていた。このわたしが暮らすような小さな集落では、わたしの病名というものはあっという間に知れ渡ってしまうだろうから、顔見知りがいないでいてくれることを祈っていたのかもしれない。
診察室を出て、受付で受け取った封筒の中には診断書。
そう……、あれからもう4年が経った。
転職して十数年が経ち、社会人の経歴をリセットしてからというもの、それまでは毎年の秋に行われる個人面談でも、昇格試験でも、同じことをずっと言ってきた。
とにかく、「現場の仕事というものを、ひととおり収めていきたい」のだと。
そのためには、こちら側に非がないことにも頭を下げ、職場中を走り回り、それこそ「人」の人生を何度も見てきた。悲惨なものもあったし、ギリギリでつなぎとめたものもある。
そのときにいただいた表彰状や感謝状などは額に入れてあるが、それを飾ることはしていない。
制服を着ているときのわたしには、それらは当然のことだったからだ。褒められるようなことはしていない。
真夏のアスファルトの上で、何時間も立ち続け、脱水症状の後に救急病院に担ぎ込まれて点滴を受けたことも片手で足りるかどうか……。
そんな2019年の秋、とうとう目指していた総仕上げの発令をもらうことができた。
でも、そこに来たときには、わたしは心身ともにすでに使い物にはならなくなっていたのだと思う。
他の人にとって、もしかしたらなんてこともない、「いつもの事」で流してしまえることだったのかもしれない。
でも、その時のわたしには耐えきれるものでなく、立ち上がることができなくなった。
主治医に書いてもらった診断書には、「適応障害・抑うつ悪化・休職治療を要する」が書かれていた。
半年の休職の顛末は前話までに書いた通りだけれど、今でもわたしは毎日の服薬が必須の体。
定期的に面談をしている保健師からも、「今回の事が笑い話になるようになるまでは5年は早い」というコメントをもらっている。それだけ見る人が見れば傷が深いということなのだろう。
2020年7月から職務復帰となり、人事異動もあった。
今では現場のバックアップ役として、パソコンと電話と電卓を使って書類と向き合う毎日を過ごしている。勤務も原則は平日の固定勤務だ。
最初の年、2020年12月には、約十人で八千人分の年末書類(サラリーマンにとっては毎年のお約束というべきあの書類だ)の確認に追われ、正直そこで今の自分がどこまで追い込めるのかを試したような日々から毎年、内容は変われど同じような仕事を繰り返している。
あの当時も「まったく、うちの社員は足し算もできないのか!?」などと、冗談とも本気ともつかぬ愚痴を言いながら、久しぶりにみんなで土曜日も出勤した作業は、期限よりも大幅に繰り上げた日程で完遂を見た。
コロナ禍で人々の生活様式は一変し、わたしたち現場に立つ者でないメンバーができることの第一位はコストダウン。
同僚も皆何か体の不具合だったり、家庭の事情持ちだったり。でも、そんなメンバーとだからお互いの状況が分かり合える。
現場の管理者として名札を付けていたのは、わずか2か月ほど。
昔見上げていた空の上のゴールは遠くて、でも実際に着いてみたら、安心して飛べるようなところではなかった。
でも、「あそこ」だけがゴールじゃない。
仕事を休み、治療とリハビリをした前半。
「今の自分に何ができるか?」を自問自答しながら、よちよち歩き出した後半。
同期や以前の職場仲間で空の上に上がったものも多くいる。
時々、「それに比べて自分は……」とか「あの空には戻れない」とビルの谷間にある隙間から見上げて思うこともある。
でもふと横を見たら、地面の上にわたしを待っていてくれる場所がある。
一緒に走ってくれる人も、「再び歩き出せただけでも十分」と声をかけてくれる人もいる。
どこに向かっていけばよいのか、正直まだ不安も大きい。
ゴールは一つじゃない。もうがむしゃらに自分で目的地を決めるのはやめることにした。
適材適所という言葉があるように、だれかがわたしをその場所に導いてくれるのを、波に任せて漂う人生も悪くないと考え直す。
また数年後に振り返ったときに、「大きく方向が変わった1年だった」と笑えるかもしれない。
それは、もしいるのだとしたら……神様だけが知っているのだろうか……。
心身が悲鳴を上げた時は休んでいいのです 小林汐希 @aqua_station
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