ハーバート・ギャルピン、あるいは現代のオルフェウス

ねこたろう a.k.a.神部羊児

ハーバート・ギャルピン あるいは現代のオルフェウス

 血でぬめる掌の中からこぼれそうになるライターをしっかりと抑え、ハーバート・ギャルピンはやっとのことでホイールを廻した。

 闇の中に火が燃えあがった。

 炎が、憔悴した彼の顔を照らし出す。その眩さに、目を瞬いた。

 手の中に灯る火。

 その熱と光には、純粋なものがある。ギャルピンはしばし、その灯に見とれた。わずかの間だけ、肉を喰い千切られた腕の痛みも、バスルームのドアをひっかく音も、その音を立てる存在をも忘れた。

 隙間風に、炎が揺らぐ。

 ドアの向こうで唸り声が高まる。彼に思い出させるかのように。

 その声は、血に飢えた獣のようで、恐ろしく、歪んでいて、非人間的な響きを持っている。

 それでも、まだ僅かに残る彼女の、ややハスキーな、低く落ち着いた声の要素を、ギャルピンはまだ聴き分けることができた……あるいは、そう思った。

 かつては––と言っても、ほんの数日前だ––あの声をもう一度聞くためなら何でも犠牲にできると思った。あらゆる代価を支払おうと思った。彼女の死によって感じた絶望と、その底から掬い上げた偽りの希望。けしてすがってはならないものにすがった。犠牲にしたのは自分の魂だけではなかった。

 ドアを叩く音が響く。おあずけを食った生き物が、餓えの苛立ちをぶつけているのだと、ギャルピンは重々承知していた。

「……違うよ、アマンダ。煙草なんか吸っちゃいないさ」

 ギャルピンは震える声で応えた。いつか、隠れて煙草を吸っていて喧嘩になった時のことを、もはや世界で自分だけにしか通じない冗談にして。まるで、彼女がまだ生きていて、彼の悪癖を難詰しているかのようなフリをして。

 頬を涙が伝う。

 ギャルピンは床から血まみれの手で本をつまみ上げた。今やギャルピンにとって二重に呪われたものだ。

 重い、革装丁の大著。この上なく貴重な揺籃期印刷本インキュナブラ

 科学を超える科学。時間と空間と因果律を操るわざの指南書。既知宇宙の裏側に棲む神々に呼びかけ、不可能を可能となし、死者を蘇らせる力を秘めた知識の宝庫。教皇によって禁書とされ、数多の国々で発禁処分を受けながらも、隠された知識を求める人間の呪わしい性により、ひそかに現代に伝わった悪魔学の集大成。図書館員には、この本にまつわる悲劇的な挿話の数々を聞かされた。その時はおとぎ話めいた教訓譚としか思えなかったが……。

 普段であればミスカトニック大学図書館の閲覧制限書架に錠と鍵とで固く封印された禁断の魔導書。ギャルピンはそれにアクセスできる限られた人間の一人だった。

 彼は病院の霊安室でそのことを神々に感謝した。次元の間でのたくる半ポリプ状の怪物じみた神々であっても、何の保証もなく死後の復活を約束するだけの神よりマシだと思った。そして今、自宅アパートのバスルームで、彼は同じ神々を呪っている。誰よりも強く。

 ギャルピンは本の表紙に目を落とした。『ネクロノミコン』。その表紙はなめされた人間の皮膚で装丁されている。縫い閉じられた瞼と唇。ライターの揺れる火が、皺だらけの顔に奇妙な陰影が浮かばせた。

 はこの世に存在してはならない。

 ギャルピンはそう思った。

 禁断の知識が、彼をして彼女にさせた事を思う。

 責任転嫁。八つ当たり。人が知ればそう言うだろう。知った事か。この本はそもそも書かれるべきではなかったのだ。

 ギャルピンは今やそう確信していた。

 彼は意志を持って、黄変したページに火を近づけた。そうする事で、わずかであっても、その罪のいくたりかを精算できると思った。

 煙が糸を引いて立ち上る。

 五世紀前にかれた紙が、みるみるうちに黒く焦げ、炎をあげ燃え始める。

 彼はバスタブの底に本を投げ落とした。

 炎が––。

 彼は願った。

 この不浄な書物と、そこに記された邪悪なる知識を清めてくれるように––。

 一仕事を終えた安堵感と、出血による虚脱で気が遠くなる。

 ギャルピンは座り込み膝の間に頭を垂れた。

 炎の中では、魔導書の革表紙が歪み、撓む。

 口と目とを縫い合わせた糸が燃え、ほつれ、切れる。

 革だけの顔が、引き攣れた笑みに似た形を取った。


 カチ・カチ・カチ……カチ・カチ・カチ……。

 まるで死番虫のように、切れかかった蛍光灯が音を立てる。

 神経を苛立たせるように、チカチカと点滅する光。

 その上階に向かって、MULの白文字を背負う六人の男たちが階段を慎重に登ってゆく。

 壁際に寄り、背を丸め、油断なく。猟犬を思わせる、抑制された攻撃性を身の内に秘めている。揃いの漆黒の難燃素材の行動服に、人体の要所を固めるプロテクター。その姿は警察の特殊部隊に酷似している。

 彼らの多くは左手に透明の盾を持ち、右手に先の曲がったフック状の片手武器を握っている。長さは九〇センチばかり。鉤の先は鋭く、釣り針のように返しがある。ナイロンワイヤーを巻きつけた握りの部分には、三日月の形をした金属製の護拳が外向きに取り付けられている。それは中国武術で使う護手鉤に良く似ていた。また、あるものは扉を打ち破るバッティング・ラムを背負っているが、その片側からは荒く尖らせた白木の杭が突き出している。知らぬものが見れば、いったい、何をするための装備かと首を捻るに違いない。

 先鋒のロドリゲスが耳をそば立て、ハンドサインで符牒を結ぶ。

 さざなみのように緊張が伝わる。皆の耳にも啜り泣くような声が聞こえてきた。

 階段の最上部に達し、ロドリゲスが片眼で廊下を覗き込んだ。

 廊下の奥に、二つの影があった。カーペットの上にうつ伏せに伸びた老婦人と、その上にうずくまる、全裸の女だ。黒い髪の掛かる肩が揺れる。同時に老婦人の身体が揺れる。老婦人の白髪に縁取られた顔。その中で、ガラス玉のようにうつろな眸は何も映していない。

 はっ、と気がついたように、女が顔を上げると、老婦人の胸にポッカリと空いた穴が露わになる。

 女がゆっくりと振り向く。その肌は異常に青ざめ、死斑が浮いているのが見てとれた。その口は血に塗れ、鼻は潰れている。簾髪すだれがみの向こうから、白く濁った目が覗く。異様に長い舌が口の周りに付着した肉片を舐めとった。

 それはすでに生きた者の姿ではない。

 死より蘇った死者。禁断の魔術によって賦活された、貪欲なクリーチャーだ。癒えることなき飢渇に駆られ、人を食らい、死と不浄を広める呪われた存在。ゾンビだ。

 ロドリゲスが背後を振り返り、小さく頷く。

「よし、行くぞ!」

 隊長のドーキンスが号令をかけた。

 男たちは一気に階段を駆け上がり、廊下へと殺到した。盾を構え、不死者に相対する。

 カチ・カチ・カチ……カチ。

 灯りが消える。

 付く。

 女の姿が消えている。一糸乱れぬ男たちの動きが、止まる。

 全く出し抜けに、隊列の只中に天地逆さまの女の顔が現れる。ヤモリか何かのように、足だけで天井に張り付き、牙を剥き出しにしてシュウシュウと蛇のように威嚇する。両手で二番手に居たジョーンズの頭を掴み、噛み付く。その牙はヘルメットに阻まれた。

 三番手のハドソンが護手鉤を振り上げ、不死者の背中に深く鉤を打ち込む。ゾンビはヘルメットを離し、天井に逃れようとする。凄まじい力に、武器ごと吊り上げられそうになる。前後の男たちがすかさず加勢する。

「引きずり落とせ!」

「離すな! 絶対に離すなよ!」

 男たちは口々に怒鳴る。皆必死だ。

 みしみしと音をたてて肉がちぎれ、骨が折れ、皮膚が裂ける。それでも背骨に掛かるフックが、怪物の脱出を許さない。四人がかりで床に引きずり落とす。不死者はしゃにむに腕を振り回した。鉤爪のある拳がチャネクの胸を強かに打ち、壁に叩きつける。

 男たちは怪物の身体に武器の護拳を押し当てた。そこには強力なスタンガンが仕込まれている。端子から青白いスパークが弾け、百万ボルトもの電流が怪物の筋肉を不随意に痙攣させる。

「トマソン! 杭を打て!」

 隊長のドーキンスの指示で、バッティング・ラムを背負った男が進み出た。手足を抑えられた怪物の肩甲骨の間に杭を押し当てる。手元のスイッチをひねると、ドン、とくぐもった音を立てて杭が打ち出された。切先が怪物の心臓を貫き、不死者を床板に打ち付ける。

 ゾンビは最後の痙攣を起こした。三ブロック周囲に響き渡るような絶叫と共に、胃の内容物を大量に吐き出し、陸の上で溺れるもののようにもがく。やがて動きが止まり、四肢からあらゆる力が抜けていった。

 男たちの間から、自然とため息が漏れた。

 カチ・カチ・カチン––。

 時を同じくして、蛍光灯がついに力付きた。

 廊下が闇に包まれた。


 どれほどの時間が経ったのか。

 ギャルピンは意識を取り戻し、バスルームの片隅から身体を起こした。傷口に指で触れ、激痛にたちまち後悔した。生乾きの血が塊になって、衣服を張り付けている。

 バスタブの底にはほとんど燃え尽きた『ネクロノミコン』の残骸が積もっている。こうなってしまえば、燃えさしの新聞紙の束とそう変わらない。だが……。ギャルピンは思った。それほど形が崩れていないのは妙だった。

 燃えにくい革の部分が残ったのか。不思議に思い、ギャルピンは『ネクロノミコン』におずおずと指を伸ばした。革に触れるとわずかに温かみを感じる。掴み、引き上げると、灰と表紙板の残骸がサラザラとバスタブの底に流れ落ちる。鞣し革は手の中でぐんなりと垂れ下がった。浜に打ち上げられた軟体動物の死骸のようだ。覚悟の上の行動だとはいえ、本を焼いた事に対する罪悪感が萌した。

 ギャルピンは革を広げてみた。煤に汚れていながらも、素材が火を寄せ付けなかったかのように焦げ跡ひとつ見つからない。

 そのことを不審に思う暇もなく、革が動いた。

 ギャルピンはぎょっとして手を放した。

 だが革は離れなかった。

 剥がされ、鞣された皮膚が生き物のようにうねり、のたくり、ギャルピンの腕に絡みついた。

 蛇が木の幹を登るように身体を登った。全く思いもよらない状況に、ギャルピンは総毛立った。

「なんだこれは、いったいなんなん––」

 恐怖に声が裏返る。革がギャルピンの顔に巻きつき、口が塞がて悲鳴が断ち切られた。

 息が詰まる。眼が塞がれ、何も見えない。

 頭の中で声がする。

 なんと言っているのかはわからない。

 だが、貪欲な欲求が感じられる。それは切実なまでに欲している。ギャルピンの身体を欲している。流れ込んでくる。追い出そうとしている。

 奪われる……!

 動物的なパニックに襲われ、ギャルピンは闇雲に逃げようとした。バスルームの壁に、罠に掛かった動物のように体当たりを繰り返した。たまたま指先に触れたシャワーカーテンを掴む。体重に耐えかねた金具が次々に弾け、バランスを失った。バスタブの縁に脚を取られて転倒し、後頭部を強かに打ち付けた。

 世界が回る。意識が遠のく。

 悲嘆も、愚行も、後悔も、恐怖も、愛も。

 ハーバート・ギャルピンの人生全てが闇の中に飲み込まれていった。


「身元を確認しましたアマンダ・ウェスト。ギャルピンの婚約者……だった」

 ロドリゲスが言った。

「知っている」

 二度目の死を迎えたばかりの彼女の瞼を閉じてやりながら、ドーキンスは答えた。結婚式への招待状はまだ彼のメールボックスに残っている。フラッシュライトの光円が、凄惨な現場の有様を白茶けて見せている。

「隊長、新たに犠牲者を発見しました。男性一名。死んでいます」

 戸口からトマソンが顔を出して言った。足元に横たわる老婦人の遺体を踏まないように手脚を突っ張っている。ドーキンスはやり切れない思いに首を振った。一人を生かすために二人死んだ。いや、結局は三人と数えるべきか。アーカム療養所アサイラムには法の埒外に居る罪人が何人も入院している。ギャルピンもそこに行く事になるだろう。おそらく、一生外には出られまい。

 彼らはミスカトニック大学図書館の警備部門、通称サーベラスに所属する警備員だ。しかし、私兵と呼ぶ方が実態に即している。

 主な任務は図書館の警備、殊に閲覧制限書架に保管された極めて貴重な書物の安全を確保すること。ミスカトニック大学図書館は世界に数冊とない希少な写本や揺籃期印刷本を多数コレクションしている事が知られている。それらの金銭的な価値に限っても莫大なものであり、その学術的価値は計り知れない。金銭目当ての盗難、あるいは、ある種の思想に基づく破壊等の––内外の––脅威を排除する。もし本が奪われれば、どうあっても取り戻す。それが地獄の番犬ケルベロスになぞらえられる、サーベラスの存在意義だ。

 ハーバート・ギャルピンはミスカトニック大学で心理学の講座を受け持っていた。彼が大学当局から閲覧制限書架利用の許可を得ていたことが、単なる悲劇を致命的なまでに拡大する要因となった。彼の恋人が事故で命を落としたのは、はたして偶然か、無情な宇宙の諸力の干渉によるものか……。

 ドーキンスは立ち上がり、部下を呼び集めた。負傷したチャネクをバンに下がらせたので、部隊は今五名となっている。

「仕事を終わらせよう。博士を確保して『ネクロノミコン』を回収する」

「了解」

 皆はホルスターから銃を抜いた。ギャルピンが大人しく魔導書を返却するならよし。さもなくば致し方ない。ゾンビ相手には力不足でも、拳銃は人間には有効な武器だ。ギャルピンの居室はアパートの最上階にある。男たちは隊伍を組み、階段を一段づつ上った。


 ギャルピンの居室のドアは内側から開け放たれていた。

 中は暗く、廊下から差し込む光が床に矩形を作っている。家具の類は隅に片付けられ、開いた部屋の中央にはチョークらしきもので魔法円が描かれていた。円に内接する星の各頂点には燃え尽きた蝋燭が据えられている。空気にはすえたような匂いと、はっきりそれとわかる死臭が残っていた。それに、かすかなオゾン臭も。

 部屋の中に人影は見えない。『ネクロノミコン』もだ。

「隊長」

 ロドリゲスが床に溢れた血に注意を促した。固まりかけた血痕が点々とバスルームに続いている。ドアノブが血で濡れている。ドアは引っ掻き傷だらけだ。ドアが施錠されていることに、ドーキンスは気づいた。

 身振りで部下に指示を出し、弧を描くようにドアを囲む。ドアの正面を避け、ドーキンスは扉を叩いた。

「ギャルピン博士! 中に居るのか?」

 耳を澄まし、数秒待つ。沈黙だけが返った。

「ここを開けろ、ギャルピン! ハーバート!」

 きしるような音を立てて、ドアノブがゆっくりと廻る。カチリ、とノッチの外れる音がした。

 バンッ! 銃声のような音を立てて、扉が内側から吹き飛んだ。

 オゾンの匂いが強まる。ドアの向こうには、男が立っていた。男がゆっくりと戸口を超え、居間へと歩み出た。

 ドーキンスは照星越しに男の姿を観察した。背格好は四〇を過ぎても未だに中年太りとは無縁なのを自慢にしていたギャルピンのものと見えた。身につけた衣服にも見覚えがある。それでも、ハーバート・ギャルピンだと決めかねたのは、男には顔が無かったからだ。

 いや、そこにある種の顔があるのは間違いない。

 だが、これが人間の顔だろうか?

 皮膚はごわごわとして、妙に頭蓋骨とフィットしていない。その表面は粉を吹いたように灰と塵に塗れている。目と口はただのスリットにすぎない。

 その時、ドーキンスは気づいた。

 仮面だ。

 こいつは、革でこしらえた仮面を被っている。昔のガスマスクのように頭をすっぽりと包む被り物だ。作りはお世辞にも上等とは言えず、一見、粗雑に作られた泥人形の顔のようだ。全体に皺だらけで、妙にのっぺりとしている。縫い目らしきものは見当たらない。醜く、不気味としか言いようのない。ドーキンスは奇妙な馴染み深さを感じた。以前、どこかでこれを見たような覚えがある。だが、仮面ではない。もっと別の……。

 不意に、仮面越しにドーキンスと男の目が合った。

 なんという目か。目が心の窓であるというなら、この奥にどんな心があるというのか。

 虚無、あるいは深淵を覗き込んだように、ドーキンスの足が竦んだ。取り返しの付かない何かが起きたという強烈な感覚を覚えた。

「誰だ?」

 ドーキンスは我知らず問うていた。

「何者なんだ?」

 ロドリゲスが銃を高く構え、言った。

「動くな! 膝をつけ! 大人しく––」

 仮面の男が手を上げ、指で印を結ぶ。

 指先からの暗い光––そうドーキンスは認識した––で空中に印を描いた。

 絶叫。

 人間の喉からそんな音が出るとは信じられないような音声を上げながら、ロドリゲスがその場に崩れ落ちた。

 手から銃が落ち、両手で顔を覆う。その手の甲が白く、ぶくぶくと泡立ちはじめる。ずるり、と顔の皮が剥ける。眼球が縮み、筋肉が白と赤との入り混じる粘液と化して流れ出した。へなへなと、空気の抜けた風船のように黒の行動服がしぼむ。桃色がかった頭蓋骨が口を絶叫の形に開けたまま、ゴロン、と床に転がる。まるでティラノサウルスの胃に投げ込まれたかのように、ロドリゲスは消化されてしまった。

 魔術。恐ろしく、敵対的で、致命的な、暗黒の魔術だ。

 凄惨な有様に、残った全員が悲鳴とも雄叫びともつかない声を上げ、銃の引き金を引いた。耳を聾するばかりの銃声。超音速の九ミリパラベラム弾がバスルームの戸口に立つ仮面の男の周囲に着弾し、タイルを破り、壁紙を貫き、破片をもうもうと巻き上げる。鏡が割れ、陶製の便器が割れ水が流れ出す。今までの訓練が全て吹き飛んだ。ただ闇雲な恐怖が彼らを駆り立てていた。

 弾を打ち尽くし、拳銃の遊底が後退位置で止まる。

 部隊の全員が自分の目を疑った。

 硝煙をオーラのように纏いながら、革仮面は悠然と立っている。

 至近距離であるにもかかわらず、男の体にはただの一発の弾丸も当たっていない。

 理解を超えた現象。魔術だ。四人となった男たちは呆然となって立ちすくんだ。

「うおおおおお!」

 銃を捨てたジョーンズが護手鉤を振り上げて革仮面に殴りかかった。

 意外にも、鋭利なフックは男の肩に突き刺さった。その事にジョーンズ自身が驚き、かえって戸惑いを覚えた。

 そのために、反応が遅れた。

 革仮面はジョーンズの腕を掴んだ。骨が折れるポキポキという音が響く。ジョーンズは悲鳴をあげた。腕を捻られ、ジョーンズの手は武器から離れた。護手鉤は仮面の男の身体に突き刺さったままだ。

 ハドソンがジョーンズに習って護手鉤で攻撃を加えた。こちらは護拳に仕込まれたスタンガンで革仮面の脾腹を殴りつける。端子が百万ボルトの火花を散らした。

 革仮面の身体に震えが走った。

 効いている、とハドソンは思った。

 電流が、仮面の男の身体を貫いている。

 制圧できる。そう思った。

 次の瞬間、ハドソンの喉輪を、革仮面の手が掴んだ。

 ハドソンの歯の間で、電光がスパークした。

 ガッ、と悲鳴ともつかない声を上げ、ハドソンは白目を剥いた。

 ガクガクと痙攣し、口の端から泡を吹いた。身体から力が抜ける。喉輪を掴む手が、彼が倒れるのを許さない。ブスブスと皮膚が焦げ始め、肉を焼く匂いが漂い出した。ハドソンの耳から煙が上がり始める。目がアクアパッツァの魚のように白濁した。

 ハドソンの体が床にくず折れた。

 革仮面は空いた手で自分の肩に突き刺さるフックを掴み、乱暴に引き抜いた。血と肉片が飛び散る。

 無造作に武器を振り上げると、折れた腕を捕らえられたままのジョーンズの脳天に振り下ろした。頭蓋骨を貫通した鉤の切先が、ジョーンズの口から鉄の舌のように突き出す。絶命したジョーンズの身体がゆっくりと横倒しに倒れた。

 あまりの事に耐えきれず、トマソンが廊下への戸口に向かって駆け出した。顔からは表情が欠落し、ただ純然たる恐怖がその目の中に宿っている。ドーキンスの身体を突き飛ばし、パニックを起こした牛のように闇雲に駆け抜ける。

 仮面男が印を切った。

 廊下への戸口が捩れた。廊下の壁紙の模様が歪んだ。漆黒の滲みが虚空に浮かぶと、瞬く間に広がった。煙が渦を巻き、紙を破るように空間が破れた。裂け目の向こうに、ある種の弧と角度からなる混沌が煮え立っているのドーキンスは見たように思った。

 トマソンが悲鳴をあげながら裂け目へと落ちて行った。トマソンを呑み込むと、一瞬で裂け目が消える。トマソンの尾を引く悲鳴が同時に断ち切られた。

 ドーキンスは茫然自失の状態で立ちすくんだ。惨劇の急激すぎる展開に、脳が理解を拒む。特殊な訓練を積んだ精鋭部隊が、まるで熟れたトウモロコシを刈るように容易く薙ぎ倒された。ドーキンスの思考は麻痺していた。

 革仮面がドーキンスの襟首を掴んだ。片腕で、完全装備の成人男性を吊り上げる。革仮面は覗き込むようにドーキンスの顔を見上げた。

 そのとき卒然と、ドーキンスは悟った。

 見覚えがあるのも当然だ。彼はこの革の顔をいくたびも見ていた。それも手で触れられるほどの近くで。ただし、その時は仮面ではなく、本の表紙としてだ。

「お前は……お前は『』の……」

 息を詰まらせながら、ドーキンスは言った。ミスカトニック大学図書館収蔵の禁断の魔導書『ネクロノミコン』。そのラテン語版。ページを捲る前から多くの者が怖気をふるわせたのは、その表紙が人皮で装丁されていたからだ。

 ギャルピンの用いた死者蘇生の魔術。その結果だとドーキンスは気づいた。人皮も死体の一部には違いない。それなら、『ネクロノミコン』の表紙が不死者として蘇っても不思議ではないではないか?

 薄れゆく意識の中、ドーキンスの頭に疑問が浮かんだ。

 禁断の魔導書を装丁するのに、人間の皮を使った。何のために? いや、それよりも……。

 ……?


 アパートの最上階の窓から黒服の男が空中に投げ出された。

 悲鳴を上げながら落下する。二秒後、アスファルトに叩きつけられる音が響き、悲鳴が中断した。

 バンの中では、鎮痛剤で朦朧としていたチャネクが、ハッと正気を取り戻す。

 今の音は何だ?

 ウィンドウ越しに、道路に横たわる漆黒の行動服を認めた。ピクリとも動かない。

 隊員の一人であるのは間違いない。何があった?

 愕然としてアパートの高い窓を見上げた。

 異形の人物が身を乗り出している。

 窓枠を乗り越え、宙に身を躍らせた。バットマンのように上着の裾をはためかせ、空中をよぎる。

 バンの天井に何かが落下した。いや、着地した。

 天井が凹み、ウィンドウのガラスが砕ける。

 チャネクは慌てて腰の拳銃を抜き、天井に向けて引き金を引いた。

 バンの天井を弾丸が次々に貫通する。熱い薬莢が座席の上で跳ね回る。

 チャネクは後退位置で止まった拳銃を握りしめた。しばしの間、硝煙と沈黙が垂れ込めた。

 ギシ、とバンの天井が軋んだ。天井を支えるフレームがぐにゃりと曲がる。ドアが内側に撓み、へこむ。一瞬にして、座席が狭苦しくなった。壁が内側へと折り畳まれる。タイヤが破裂する音が銃声のように轟いた。

 チャネクは慌てて外に逃げようとした。しかし、身体を通せるような隙間はもはやない。チャネクの脳裏に、幼い頃にビデオで見たスターウォーズ・エピソード4のゴミ処理場の記憶が蘇った。だが、彼を助けられるドロイドは居ない。

 純然たる恐怖。チャネクは悲鳴を上げた。

 革仮面の男の足の下で、反故紙を丸めるように、見えざる手がバンを丸めていた。

 鉄の折り曲げられる騒々しい音がチャネクの悲鳴をかき消した。

 ギイギイと音を立てる金属塊はみるみるうちに大きさを減じる。ゴミ箱ほどの立方体にまで縮み、静かになった。金属の下からは暗色の液体が流れ出し、路上に筋を作る。十数秒の間に、バンはゾウに踏まれたランチボックスのように潰れていた。チャネクの運命はその中のツナサンドも同じだった。

 金属の立方体の上から、仮面の男はひょいと地面に降り立った。その足は猫の足音ほども音を立てない。

 頭を回し、周囲に目をやる。仮面の奥の虚な眸に微かに戸惑いの色が浮かぶ。

 様変わりした世界の様子。アスファルト舗装。それに街灯。

 眩げに目を細め手を振る。街灯の明かりが風前の灯火のように光を弱めた。路地裏に闇が垂れ込める。

 暗がりに、沸騰する混沌の裂け目が口を開く。怪人は自ら作り出した門の中に歩み去り、何処かへと姿を消した。生じた時と同じように、裂け目が縮み、消える。

 不意に、路地裏に静寂が訪れた。

 街灯がチカチカと点滅し、思い出したかのように光を取り戻した。

 どこか遠くから、サイレンが近づいてくる。

 ややあってから、犬たちが狂ったように吠えはじめた。

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