これからは、誰かを刺さずに生きていく

湖ノ上茶屋(コノウエサヤ)


 行きつけの本屋にふわりと足を踏み入れた。新刊コーナーからぐるりと時計回りで一周する。ふと気になったタイトルの本を書棚からすぅっと抜き取ると、好みの絵だったのでそのまま連れてさらに歩いた。終着点にたどり着く。今日の収穫は、この一冊。

 長居せずに店から出た。買う本を決めて来ることもあるが、ほとんどその場の出会いで買う。じっくり悩めばいい本に出会えるわけではないと、私の人生が言っている。

 家に帰ると、やかんに水を入れ、火にかけた。急須にザッと茶葉を放り込み、放心。ああ、今日も世界は痛かった。

 なんとか生きられてはいるが、決して生きやすくはない。否、皆なにかしらかの生き辛さを感じながら生きているのだろうが、それにしても私には希望がない。

 そもそも、私は人間として生まれてきてはならなかったと思う。もっと、こう。弱々しい何かがお似合いだ。そう、例えば、鰯とか。蟻も合っているかも知れない。いずれにせよ、集団の中に紛れていても、真っ先に食われる担当が私らしい。

 ピーピーとやかんが鳴った。どうせ味覚が優れているわけでもなんでもないので、温度がどうとか気にしない。沸きたてほやほやの湯を急須に注ぎ入れる。本当はじっと待つべきなのかも知れないが、急須をぐるぐると回した。ふわふわと湯の中を泳ぎたいだろう茶葉は今、洗濯機の中に放られたかのように、私が生み出す荒波に揉まれている。

 湯呑みに茶を注ぎ、テーブルにことん、と置くと、買ったばかりの本を開いた。まずは、嗅ぐ。うん、新品の香り。

 中古本には中古本の香りがあって、それも好きではあるけれど、やはり新品は無垢でいい。たくさんの文字が並んでいる、たくさんの黒が染み込んだ紙だが、新品の本はまっさらだ。これから、私が香りをうつしていくのだ。この本に、私が。

 パラリパラリとめくり読み、茶を啜る。


 湯呑みは空っぽになり、熱も完全に失われた。ただ、使ったまま洗われない、汚れた器と化していた。

 読み終えパタンと閉じた本。チクリ、チクリと痛む胸。

 作中、周囲を拒絶する者がいた。

 拒絶してしまうのは周囲への怯えゆえのことであった。

 本人は、どうすればいいのかわからぬまま、ただもがいていた。

 自分が居たら迷惑だと、ネガティブな空想を広げては、一人でいることを選び取った。

 私は、深く感情移入した。私も、他人に迷惑をかけないためにと、人を遠ざけてばかりいる。

 幼少期、母は言った。「我が家の教育方針は『他人に迷惑をかけない』だから」と。とにかく、他人に迷惑をかけるな、と叩き込まれた。だから、どうすれば他人に迷惑をかけずに済むか。そればかりを考えながら生きてきた。


 他人に迷惑をかけない方法は、簡単に見つかった。人と関わらなければいいのだ。関わりがなければ、迷惑もない。

 早速実行に移したけれど、関わりがない故の不都合もあった。複数人でチームを組むようなとき、私は必ず異分子となり、迷惑をかける人間にならざるを得なかったのだ。


 今、仕事上のやりとりは問題なくこなせていると思う。こなさなければ迷惑がかかるからと、人格を入れ替えるかのように自分に笑顔と積極性を強制している。おかげさまで、なかなか評価はいい。これは、私の人間としての小さな誇りだった。

 しかし、毎度疲れ果ててガス欠で、だから休憩時間となると、待ってましたとばかりに本を開いて誰かをシャットアウトする。そうしてぐらつきながらもなんとかバランスを取っていた――つもりだった。


 小さな誇らしさは、まるで飴細工のように繊細だった。

 同僚の雑談が、ふわふわと空間を漂い、私の耳を刺した。その瞬間に、パリンと私にだけ聞こえる音を立てて、ロウソクをフッと吹き消したように、輝きを失った。

 ――あの人、近づくなオーラ出しすぎでしょ。

 ――仕事の時だけニコニコしてんの、なんかムカつく。

 私が他人に迷惑をかけないようにと配慮したせいで、他人の心に靄をかけている。けれど、どうすればいい? 私には、他人に迷惑をかけずに人の輪に入っていけるだけのスキルも、勇気もないというのに。


 物語の中の人間は、甘えを覚えて孤独を脱した。自らが困っている時、助けを求め、弱みを見せたのだ。武器を、鎧を捨てて、無防備な姿で他人の懐に飛び込んでいったのだ。

 創作の中でとはいえ、自分が深く感情移入できるほどに似た者にそれができたのだ。それならば、私にもできるのだろうか。

 思考はふわふわと同じ場所を漂う。


 唯一と言っていいだろう、素の話ができる妹に、オブラートに包んだ言葉を送ると、

 ――にーちゃんはクラゲだからねぇ。そのままプカプカしてればいいと思うけど?

 随分と簡単で、温かい言葉が返ってきた。

 クラゲ、か。

 

 別に、私が一人ふわふわと漂っていたところで、誰かの嘲笑の餌になるだけで、迷惑はかけないだろう。そう思い、水族館へ行こうとした。自分はクラゲなのだろうか。クラゲを見れば、それが分かる気がしたのだ。

 けれど、たくさんの笑顔で溢れたゲートに近づく勇気がなかった。

 踵を返して、街に溶けた。

 遠くに古本屋の看板が見える。見つけた――私を受け入れてくれそうな場所。

 懸命に、世界を泳いだ。


 店内をゆらゆらと見て回った。多くの本が書棚にギュウギュウに詰められているが、オープンラックで優雅に買い手を待つものもある。ただなんとなく手に取った一冊からは、甘い香りがふわりと舞う。多分、前の持ち主は女性だ。

 パラリとめくるたび、甘い。ずっとこれを読んでいたら、少し酔いそう。

「それ、おすすめ」

「……え?」

「フフ、あなたにおすすめ」

 エプロンを身につけたお爺さんが、「いらっしゃい」もなしにただ、おすすめだと言う。

「それは、なぜ?」

「私ゃ街食堂の店主みたいなもんだから」

「……え?」

「人の顔見りゃ必要な本が分かるのさ」


 はっきり言うと、お爺さんにおすすめされた本はさっぱり分からなかった。心地よくなかった。何を読まされたのだろうか。それが読後の感想だった。

 なぜあのお爺さんは私に、コレを?


 本と共に部屋に居続けたのなら、香りと不思議な物語の世界に酔うと思い、外へ出た。

 子どもっけのない公園の、ブランコにそっと腰掛ける。

 ギーコ、ギーコと小さく揺らしていると、本と同じ香りが私の鼻腔をくすぐった。

「それ、どうでした?」

 言いながら隣のブランコに腰掛けた女性は、まるで子どもかのように、大真面目にブランコを漕ぎ出した。

 香る、香る。

「ねぇ、どうだったか聞いてるんだけど!」

 返事をしない私に、敬いのない、よく言えば親しみのある声が飛んできた。

「あ、あぁ。古本屋でお爺さんにおすすめされて買ったんですけど、あんまり」

「へぇ」

「私に必要な本って言われたんですけどね。物語もそうだけれど、お爺さんがどうして私に必要だと思ったのかも、よく分からなくて」

「ふぅん」

 ザザァ、と激しい音がした。彼女がブランコを急停止させたのだ。砂埃が灰のようにサラサラと舞う。

「あ。それ、あたしが売ったやつ」

「あぁ、そうなんです……え?」

「表紙の隅っこにハートが一個、書いてあるでしょ?」

 言われてよくよく見てみると確かに、小さなハートの落書きがあった。

「あたしね、基本的には、本を買ったら売らないの。なんかね、『お前が持ってた本は臭い』って、元彼に言われたことがあって。臭いものを渡したら、お店とか次の人に申し訳ないから売らないの。売らないなら自由だって思ってさ、読んだ本を10ハート満点で採点して、表紙にハートを書いてる。その本は、さっぱり分からなかったからハートひとつ。古本屋で本探してた時にさ、手に持ってたら、お爺さんに『要らなくなったらそれ売って』って言われて。欲しいなら売ってやろう、って珍しく売ったやつ」

 ニカっと笑った。その顔はとても、眩しかった。

 私は頑なに言葉を崩さなかった。それはいつものことで、家から出た時に必ず纏うバリアだった。みな、防御体制を整え、武器を構えた私に踏み入ってはこない。陰口を叩くことはあっても、不必要に近づこうとはしない。跳ね除けられると分かっているのに近づこうとする人など、いないはずだった。

 けれど、隣で足をぶらつかせている彼女は、もともと友だちであるかのように気さくに声をかけてくる。インターホンを鳴らして、鍵が開いたら「あ、どうも」とでも言いながらひょいと片手を上げ、困惑する家主の顔など気にせずに、靴を脱ぎ、揃え、スリッパが出てこないことなどお構いなしに、靴下で優しく床を踏むように。

「私、妹にクラゲみたいって言われたんですよ」

 すでに彼女が、私の心の中にいるからなのかも知れない。彼女には、心の奥をさらけ出せた。

「ふぅん。確かに、クラゲみたいだよね」

「そう、なんですか?」

「うん。なんか空気みたいにふわふわしてるし。触ったら刺されそうだもん」

「ははっ。キミにもそう見えるんだ。じゃあ……なんで声かけてきてさ、話し続けてんの?」

 ブランコと共に、心が揺れた。鎧と共に、敬語が消えた。

「へへ。あたしもそんな時期、あったから。だから、かな?」


 彼女が甘い香りを纏うのは、自分や他人に甘くなるためなのだと教えてくれた。自分を許してやらなければ、他人を許すこともできない。他人を許してやれば、いつかの自分を許せる。

 許すために、甘さに浸る。

「男の人に甘い香水つけなよ、なんて言えないからさ。これ、提案なんだけど」

「ん? なに?」


 木曜日、20時。

 私たちはブランコで待ち合わせ、持ち寄った本を交換した。

 毎週甘い本を手にして、その香りに浸る。

 そのたび、ひとつ、またひとつと心の武装を解いていく。

 針を一本、また一本手放して、世界に両手を大きく広げた。

 木曜日、19時。

 隅にメッセージを書いた栞を、こっそりと挟んだ。

 鼓動が痛い。大きく吸って、吐いた。

「今日、早くない?」

 甘い香りと、声がする。

「キミこそ」

「へへへ」


 告白を、一冊の本に託す。

 甘い世界は、今日も優しい。



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これからは、誰かを刺さずに生きていく 湖ノ上茶屋(コノウエサヤ) @konoue_saya

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